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   Chapter1.祐介

「お納豆いかがですか?」
 テーブルに膳を置いた給仕係の女性に訊かれ、客の会社員が「え? あぁ」と呟
いて、お品書きを見直すと、確かに納豆は朝定食に含まれていない。膳に載ってい
る菜(さい)は、焼いた鮭、生卵、焼き海苔、白菜と大根ときゅうりの浅漬け。再び
お品書きに目をやると、単品の納豆は五十円。生卵があるし、何も別料金を払って
まで、納豆を食べたいというわけでもなく、いえ、けっこうですと、三十歳になろ
うかなるまいかという年頃で、まだ結婚せず恋人もいない、この男性会社員が答え
ようとすると、
「お納豆、いかがですか?」
 瞳をきらきら輝かせ、給仕係の女性がまた訊く。その佇(たたず)まいが、消費者
金融会社のテレビコマーシャルで見るキャンペーンガールを思わせる。誰からも大
事にされ、苦労を知らずに育ったような、天真爛漫で清純可憐なあどけない顔。二
十歳代前半と見られる娘から、お納豆を勧められ、男の心が翻る。
「じゃ、ください」
「ありがとうございます!」
 心の底から喜び弾けたかのような、満面の笑みで給仕係の娘が答え、深々と頭を
下げて厨房に下がる。その後ろ姿、タイトミニの黒いスカートがぴったり貼り付い
た腰回りを、祐介の視線と心が追う。

 ふと気まぐれに、はじめて入った店だった。いつもなら駅構内にある喫茶店かハ
ンバーガーショップで、朝食を済ます。一本早く乗った電車の中では、目で文庫本
の活字を追いながら、高校生のおしゃべりに気を散らされた――うちのお父さん、
トッピングのことテッペングって言うの、てっぺんにのってる具だからてっぺん具
? 意味は合ってるね――そんな類の他愛のない会話だった。ふだんは電車を降り
たらホームの階段を上がり、二階のほうの改札を抜ける。この日は地下側の改札を
抜け、地下鉄乗り場につながる通路の出口から地上に出た。鉛色の空が尿意の兆候
に似た焦燥感を見せ、遅かれ早かれアスファルトが黒く染まりそうだと思われた。
 大通りの歩道から、一度も通ったことがない寂れた脇道に入ると、質素な佇まい
の料理屋にのれんが出ていた。ディスプレイ用のアクリルケースに、朝定食の見本
がある。鮭定食と豚汁定食で、このメニューと値段なら、五十メートルほど先にあ
る牛丼チェーン店のほうに、客が流れると思われた。のれんの竿を通す部分は、犬
の乳のように等間隔に並んでいることから、「乳」と呼ばれる――テレビの人気番
組で得た「すぐに使えるムダ知識」を確かめ、祐介は引き戸を開けてのれんをくぐ
った。
 カウンター席に一人、労務者風の若い男性客がいた。祐介は入り口から最も遠い
テーブル席に着き、娘が注文伺いに来た時は、目が虚空(こくう)を泳いでいた。「お
納豆」の一言で、祐介の意識が娘に向いた。

 礼儀正しい娘の態度に、祐介は胸を打たれた。感動と言えば大げさな気もするが、
祐介の感情は確かに動いた。娘の喜びようで、自分が善行を施したような気さえす
る。祐介はただ、朝定食に含まれていない納豆を追加注文しただけで、ハンバーガ
ーショップで「ご一緒にポテトいかがですか?」と訊かれ、スモールサイズパック
のフレンチフライを追加注文するのと変わりがない。
 娘には愛嬌があり、覇気がある。ハンバーガーショップで見慣れた接客態度も、
こんな侘び寂びの利いた店で見せられると、格別の感がある。祐介には、納豆にか
ける醤油まで、何か特別な物に思われる。フレンチフライには店員が塩を振り、納
豆には客が自ら醤油をかける。「ふる」と「かける」では意気込みが違う。ふられ
たじゃが芋の油揚げは、はじめはカリカリしながら口の中でいい仕事をし、しだい
にしょんぼりうなだれる。納豆は粘る。掻き回されれば掻き回されるほど、粘りを
見せる。

 祐介ははたと思い当たった。去年の夏に私事(わたくしごと)で修羅場を迎えた。
三ヶ月間、裸の付き合いをしていた灯子が、他の男とも裸の付き合いをしていたと
知り、祐介が問い詰めると灯子は逆上して、絶交を宣言した。
 女にふられて熱くなった祐介は、腕立て伏せと腹筋とヒンズースクワットとシャ
ドーボクシングで汗を流し、仕事に専念することにした。惚れた女を失って、仕事
に精を出そうとしたものの、自暴自棄の気張りは長続きしない。秋になってふとし
たはずみで気が抜けて、その途端に徒労感と虚無感に襲われた。
 モチベーションが落ちた祐介は、鬱になったと自覚した。祐介の左の手首には、
自傷線が一本ある。学生時代、手首を切っても死ねないと知りながら、カッターナ
イフで切った跡だ。その時は鬱を自覚しなかったが、いまでは鬱をインフルエンザ
のようなものと思っている。
「鬱っぽいので、明日、病院に行きます」
 支店長の岡田譲治に申し出た。中途入社の祐介と違い、大学新卒で入社して、勤
続十五年の譲治は、祐介の「鬱っぽい」を「熱っぽい」に聴き違いかけ、「ね」と
「う」の違いに引っ掛かり、眉根に険しさを見せて「ん?」と詰問しかけ、「ね」
であれ「う」であれ、とにかく元気のない祐介が病院に行くと言うので、承認した。
 三年ぶりに祐介はカウンセリングを受け、処方された抗鬱薬を服用し、三日間だ
けだらしない生活を送り、気合いを入れて業務に戻った。経理担当の北村映子に、
「俺、へこんでるんで、しばらく慰めたり励ましたりしてくんない? 心ないお世
辞でも嘘でも、なんでもいいからさぁ」と頼み込み、映子におだてられて祐介は回
復した。

 灯子と初めて会った日も、雨だった。最終電車を降りて、駅のタクシー乗り場で
タクシーを待っている時、祐介と女一人が最後に残った。煙草を吸おうと、祐介が
スーツの上着の内ポケットを探ろうとすると、女がいきなり祐介の腕に、腕を絡め
てきた。
「泊めてもらえません? 帰れないんです」
 傘も持たずに髪と服をずぶ濡れにして、女が祐介の肘に胸の膨らみを押し付ける。
なんだ、いきなり? 祐介は驚いたが、悪い気はしない。駅から漏れる薄明かりで
も、顔がきれいだとわかるし、体つきも悪くない。
「ナンパ……ですか?」
 祐介がたずねると、女は「あぁ」と呟き、恥じらいを含んだ微笑を見せる。
「そうですね。こういうの、お嫌いですか?」
「嫌じゃないですけど……いや、好きですけど、いいんですか?」
 どうやら女もその気らしい。帰れないというのは口実で、一夜限りの情事が目当
てなのだ。何か訳がありそうだと、祐介は察する。
「主人が海外に赴任して、ずっと独りなんです。おわかりでしょ?」
 なるほど寂しい人妻か。見たところ年齢は自分より若そうだが、分別はありそう
だ。濡れた女のブラウスが、すっかり肌に貼りついている。もっと明るい場所なら、
下着の色が目立つに違いない。祐介は紳士を気取り、スーツの上着を脱いで女に羽
織らせる。「すいません」と女は答え、はにかんだ。
「お子さんは?」
「いません」
「旦那さんはどちらに?」
「ドイツです」
 ほどなくタクシーのヘッドライトが、雨筋を照らしながら迫り来る。
 タクシーの運転手は顔見知りで、行き先を告げるまでもなく祐介のアパートを知
っていた。タクシーの運転手とはふだんも会話が少ない祐介だが、この時の沈黙は
いつにも増して重かった。車中の女は黙り込んだまま祐介に顔をそむけ、窓の外に
目を向けながら、祐介の手をそっと握った。
 アパートに着いて、女をしばらく外で待たせ、祐介は女に見られたくない物を大
急ぎで、寝室のクローゼットに仕舞い込み、女を部屋に迎え入れた。玄関先で靴も
脱がずに女は祐介に抱きついて、窒息しそうなほど激しい口づけを交わす。下腹を
密着させたまま、顔を離した女が「寒い」と言う。
 祐介がタオルを用意して、女に先に風呂を使わせようとすると、
「一緒に入りません?」
 ブラウスのボタンを外しながら女が訊く。ピンクに近い紫色の派手なブラジャー
に、祐介は唾を飲む。あ? え? しどろもどろの祐介に、「待ってるわ」と言い
残し、女はバスルームに入る。初めて会った男との情事に、慣れているのだと祐介
は気づく。とりあえず祐介は煙草を吸った。部屋の住人が緊張し、年下の客人のほ
うが落ち着いていた。
 それから一週間後、祐介が灯子を夕食に誘い、結婚しているという灯子の話が、
嘘だとわかった。自分以外に付き合っている男がいるかとたずねると、いないと答
える。未婚で他に男がいないなら、自分の女にしたくなる。自分の女だと思う。一
緒に暮らしたいと思う。逢瀬を重ね、対話を重ね、肌を重ねるほど思いが募る。や
もめ暮らしを長く過ごしてきた祐介は、性急に灯子との関係を固めたがり、灯子は
それに反発する。
「ごめんなさい。あなたより好きな人いるから。セフレじゃ駄目?」
 セフレ、つまりセックスフレンドならいいと言われ、祐介は愕然とした。自分以
外に付き合っている男がいないというのも嘘で、それが何より腹が立つ。
「嘘じゃないわよ。その時は本当にいなかったの。前に付き合ってた人と、寄りが
戻ったの。騙すつもりはなかったの。あたしはこういう女だから。許せないなら別
れましょ」
 そう言って灯子は祐介を独りにした。
 セックスフレンドでもいいから、灯子にまた会いたいと、祐介が考え直した時は
もう手遅れだった。灯子が電話番号を変え、連絡が取れなくなった。

 我に返って湯呑の緑茶を一口すすり、祐介は「おなっとう」を反芻する。箸入れ
から割り箸を取り出し、袋から抜いて割る間も、脳内で「おなっとう」を噛み締め
る。
 おなっとう、おなっとう、オナットー……オナットーイカガデスカ? オナット
ーイースカ? オナッテイースカ? オナ? ナッテ……ナッティースか。
 祐介が勤める会社では、社運を賭けた新商品が開発されている。そのネーミング
案が一つ出た。社運を賭けた新商品の開発は、祐介が入社して以来、今回で七回目
である。祐介は鞄からメモ帳を取り出し、スーツの内ポケットから抜いたボールペ
ンで、「ナッティース」と書き留めた。鞄に仕舞おうとして一旦閉じたメモ帳をま
た開き、この日の日付と「おなっとう」の文字を書き加えた。

 かたや厨房に入った娘は、「お納豆入ります」と声を掛け、手に取った小鉢を鼻
先に近づけ、目を閉じて鼻の奥深く、匂いを吸い込む。娘の声に「はいよぉ」と答
えた料理人が、娘を見やり、納豆が出るたび匂いを嗅ぐ娘の奇行を確かめて、人の
好い笑顔で首をひねる。

   Chapter2.正彦

 厨房を任されている正彦は、息子の祥治が由美に気があり、由美にその気がない
ことを認めている。男気に欠ける祥治では、由美の苦労が思いやられる。由美はテ
ーブル席に納豆を運んだあと、カウンター席の客の食の進み具合を見計らい、「お
茶のお代わりいかがですか?」と問いかける。若い者には珍しく、気が利く娘だ。
客によっては「豚汁どうでした?」とも訊く。
 手が空いた時の正彦は、灯子との関係について思案する。灯子には得体の知れな
いところがあり、正彦は灯子の腹づもりを図りかねている。本気なのか冗談なのか、
判然としないことを灯子は言う。灯子は金も物もねだらない。正彦は馬券が当たっ
た時、払戻金を灯子の欲しい物に使う。灯子にとっては、はした金に過ぎないだろ
う。資産家の後ろ盾で金の不自由がないようだから、自分は刺身の妻のような物に
違いない。そんな灯子が、なぜあんなことを言い出すのか、正彦には全く理由がわ
からない。

 ひと月ほど前に正彦は、灯子から旅行に誘われた。妻の益美に「旅に出る」と言
うと、益美はまたかと言わんばかりに、呆れた顔をする。
「好きな人、出来たんですか?」
 益美から訊かれ、「そうだ」と正彦は認めた。
「わかってますね?」
 益美が訊く。離婚を迫られたり慰謝料を請求されたり、家内安全が危うくなる真
似だけはしてくれるなと、釘を刺しているのだ。「あぁ」と答えると、「お土産買
ってきてね」と益美は言い、「もらってこないでね」と付け足す。病気をもらうな
という意味だ。
「わたしも恋をしたいわね。ダンス教室とホストクラブ、どちらにしようかしら」
 そんな嫌味を言いながら、益美は不倫旅行に出かける夫のため、新しい下着を用
意した。玄関先で「がんばってね」と夫を励ます。益美から何を言われても、針で
突かれるような痛みを感じる正彦は、「すまんな」と答え、二十数年も連れ添った
妻を抱擁し、口づけを交わして家を出た。

 横浜駅で灯子と落ち合い、中華街で食事して、海沿いにある宿に向かった。ツア
ーコンダクターをやっていた頃から懇意にしていると灯子が言う宿は、最上の部屋
を二人に用意していた。障子を開けば、窓が、海と空を描いた絵になる。
 混浴の露天風呂がある。灯子はバスタオルをはずし、湯船の縁に腰を掛けた。そ
の姿が正彦には、夕陽が沈む海を背景にした裸婦の絵に見える。笑いながらばた足
で、正彦に湯を飛ばし、はしゃぐ灯子に正彦は「これこれ、ちょっと、そのままじ
っとして」と懇願する。
「なんで?」
 たずねた灯子が正彦の目を見て「あぁ」と何かを察したように声を出し、海に顔
を向けてうなじを見せる。カメラを持って来なかったことを、正彦は悔やんだ。そ
れでも大いに感銘を受けた。灯子の美しさに胸を打たれ、その瞬間が正彦の瞼の裏
に焼き付けられた。
 背後に目をやると、隣のホテルの窓から、人が幾人か灯子の裸を見ていた。

「お若い頃は、おモテになったでしょ?」
 浴衣の灯子はあぐらの正彦に寄り添って、コンパニオンを気取って酌をする。
「いや。女に対しては恨みばかりだ」
 正彦は嘘で答えた。女性関係では恨まれる覚えはあるが、恨むことはない。
「あら。オモテでなくウラ? 可笑しい」
 灯子の切り返しに、正彦は意味を掴み損ねた。それでも灯子が笑うので、何か自
分が灯子のツボに入るような、可笑しいことを言ったらしいと気がつき、調子を合
わせて微苦笑を返す。
「つまらんことを言って申し訳ない」
「そんなことないわ。お上手」
 褒められた正彦の機嫌が上がり、徳利が空いた。浴衣の下に下着はない。襟元か
ら箸を差し入れ、灯子の乳の先をつまむ。灯子は鼻を鳴らして笑う。
「おいたなさるほど飲んでないじゃないですか。さ、もう一杯」
「酒はもういい」
「あら。それならわたしにちょうだい」
 気立てのいい灯子に、正彦は身も心も溶かされる思いがする。五本目の徳利が空
き、浴衣の襟元をはだけ、裾を乱した灯子が、正彦のあぐらを乗り物にする。灯子
は体がやわらかい。
「なぁ、灯子。お前、何か企んでいるだろう」
「マサさん、灯子はこうしているだけで、何も不足はございませんわ。無粋(ぶす
い)なことおっしゃらないで」
「俺の妾でいいのか?」
「めかけ? あら、マサさんの子種なら、目に入れても痛くないわ。目にかけてち
ょうだい。灯子、マサさんとなら、心中してもいいわ」
 心中してもいいと言われ、正彦はぎょっとする。硬い腫れ物も縮む思いがする。
「嘘よ。誰が心中などするものですか」
「俺はお前と心中してもいいぞ」
「あら、嬉しい。ねぇ、マサさん、息子さんいらっしゃるでしょ?」
「なんだ? お前、まさか」
「お父様」
「なんて女だ。俺は知らんぞ」

 旅行から帰った正彦は、息子の祥治に探りを入れた。
「あのなぁ、お前、その、灯子って女、知ってるか?」
 思い切って灯子の名前を出すと、祥治は訳知り顔のいやらしい笑顔を見せる。
「知ってるよ。母さんには言わないから。心配すんなよ」
「そうか。で、お前はどうなんだ?」
「どうって、何が?」
「いや、その、お前……やったのか?」
「さぁ」
 祥治はとぼける。正彦は、問い詰めて真相を吐かせたい気分に駆られるが、疚し
い気持ちがないのか、それとも開き直っているのか、祥治は落ち着き払った態度で、
自分と合わせた目線を逸らさない。問い詰めれば、逆に自分が責められるのはわか
っている。母さんを泣かせるな、などと説教したところで、その言葉がそのまま自
分にはね返ってくる。
「まぁ、いいか……それはともかく、由美ちゃん、いい子だな」
 苦し紛れに正彦は、正面突破を避けて脇から攻めてみる。祥治の顔色が変わった。
「そうだね」
 一瞬の狼狽を見せたが、祥治は素速く態勢を立て直す。
「がんばれよ」
 正彦は励ましの言葉をかけ、嫁にするなら灯子ではなく由美にしてくれと、目で
祥治に訴える。そんな親心を振り払うように、祥治は顔を横に振る。
「がんばらねぇよ。母さんを泣かせるつもりはねぇけどさ、どうなるかわかんねぇ
だろ」
「そうか」
 祥治の言葉で、正彦は納得した。いつ点火されるかわからない爆弾を抱え込んだ
ような気がする。祥治を信じる以外にない。

   Chapter3.健太

「お茶、いかがですか?」
 給仕係の娘に訊かれ、健太は黙って頷き、腕時計を見た。
 今日も加藤社長と山木から、うるさく言われるかと思うと、憂鬱な気分になる。
それでも今の現場に来てから、イライラすることが少なくなった。昨日もインパク
トドライバーでビスのネジ山を三つ潰した。自分は不器用だと認めているから、仕
事の不手際を責められるのは仕方がない。許せないのは、社長も山木も仕事の不手
際だけでなく、自分の人格まで否定することだ。社長や山木からプレッシャーをか
けられるから、余計にうまく行かないと思う。社長から「ダサイ」と言われた時は、
プラスティックハンマーで殴ろうかと本気で思った。灯子に会わなかったら、本当
に切れていたかも知れない。

 百メートル先の現場で、健太はユニットバスを組み立てている。八階建てビジネ
スホテルの新築工事現場で、この現場に来た初日、場違いな服装の女と非常階段で
擦れ違った。白いブラウスとベージュのスカートに、紺色のブレザーと毛皮のハー
フコートを着て、保護帽をかぶった女が、現場監督の藤井と並んで階段を降りて来
る。上の階に向かう健太が、擦れ違った後にふと、下の踊り場に目をやると、女も
健太を見上げている。目が合うとなぜか女が微笑んだ。
 この日の作業が終わり、コインパーキングに停めていた自分の車に乗り、エアコ
ンで車内を温めながら、自動販売機で買った缶コーヒーを飲んでいると、助手席側
のサイドウインドウを誰かがノックする。屈んで顔を見せたのは、階段で擦れ違っ
た女だった。
 家に送って欲しいと女が言う。場所をたずねると、健太が住むアパートと同じ方
角で、助手席に女を乗せ、健太は車を走らせた。
 市街から住宅街に入った頃、取り留めのない会話を続けながら、女がブラウスの
ボタンを外していることに気がついた。ブラジャーのフロントホックまで外し、開
いたブラウスの襟元から、乳房を覗かせている。
「何やってんの!」
 狼狽した健太は声を荒げた。思い切りブレーキを踏みかけ、バックミラーを見や
り、後続車がまだ見えないことを確認する。
「だって、したいでしょ? したくない? しましょうよ」
 平然として女は言い、コートとブレザーを脱いで後部座席に置く。ブラウスの襟
元がはだけ、女は健太の手首を手で握り、自分の胸元に導く。
「おっぱい揉んで。痛いくらい。もう、なんなの、あのエロオヤジ!」
 どうやら現場監督の藤井と揉めたらしいと健太は察する。
「あなた、汗を流して働いてたでしょ?」
 この日は資材の搬入で、健太は途中から作業服の上着を脱いで、トレーナーで仕
事をした。それでもさほど汗を掻いていない。トレーナーの色が赤だから、興奮し
たのだろうか? それにしても、そんなに欲情するだろうか? 女のしこりを指の
間に挟み、掌で弾力を感じながら、健太は疑う。生理が近づくと女はセックスした
くなると、雑誌で読んだことがある。
「次、左」
 女に言われるまま健太は左折し、一方通行の道に入る。シートベルトを外した女
が、スカートをたくし上げ、ストッキングと下着を膝まで降ろし、健太の腿を右手
で撫でる。
「手、貸して」と言って女は健太の左手を握り、「太い指」と言って中指を咥え、
唾液で濡らしたその指を、自分の秘部に誘導する。女の気を探ると、なるほど受け
入れ態勢が整っている。速度を落とした車は、徐行に近い。
「突き当たり、左に曲がって」
 突き当たりで停まった車は、後続車があればクラクションを鳴らされるほど、動
き出すのに時間がかかった。健太の左手が助手席の湿地からハンドルに戻り、左に
曲がってしばらく行くと、道の両側の民家が途切れた。右側に空き地があり、奥に
金属の廃材が積まれている。健太はそこに車を停めた。既に作業ズボンのファスナ
ーが開き、ベルトも緩んでいる。シートベルトを外そうとする健太の首に、女が紅
を押し付けた。
 どこにあったか、細い万線(ばんせん)を女が見つけて乳首に巻き、健太がそれを
指でねじって締め付けた。車を降りて、女がトランクに両手を突き、体を支えた。
「人が来た」と健太が嘘をつくと、女が声のヴォリュームを上げた。
 身なりを整えた女は「すっきりしたわ。ありがとう」と言って、名前と携帯電話
の番号だけ書かれた名刺を差し出し、健太の電話番号を訊く。名刺をもう一枚取り
出し、その裏に健太の番号をメモした女は「ここでいい。またね」と言って、来た
道を戻ろうとする。家まで送ると健太が言うと、
「ここでいいわ。あたし、付き合ってる人いるから。次に会う時はご飯おごって」
 そう答えて最後に健太と唾液を交わし、灯子は足早に寂しい夜道に消えた。

 テーブル席の会社員が、給仕係の尻を目で追う顔をちらりと見て、考えることは
同じだと健太は思う。自分が会社員だったら、ネクタイで灯子の手を縛っていただ
ろう。灯子の番号を携帯電話に登録すると、智恵美にチェックされるので、健太は
灯子の番号を暗記し、名刺を財布に仕舞っている。次に灯子に会う時は、ホテルを
予約して盛装しようと考える。

 扉が開いて、新しい客が来た。給仕係の声が「いらっしゃ」で切れ、ひと呼吸お
いて「なんだ。いらっしゃい」と言い直す。革のジャンパーとジーンズ姿で、琥珀
色のサングラスをかけた男が、何も言わずに片手を上げて見せ、入り口に近いカウ
ンター席に着く。
「豚汁定食お願いします」と、その客の注文も訊かずに、給仕係が厨房に声をかけ
る。

   Chapter4.由美

「雨、降ってきた?」
 カウンターに湯呑を置いて、由美は兄の彰に声をかける。ジャンパーのポケット
から取り出したハンカチで、外したサングラスを拭きながら、彰は「あぁ」と不機
嫌そうな声を出し、またサングラスをかけ、新聞を開く。

 今日の豚汁はなんとなく匂いが違うと、由美は感じた。出汁(だし)にひと工夫し
たのだろうか。後で矢沢に訊いてみようと思うが、由美には、誰かに何かを訊こう
と思って、相手の顔を見ると、何を訊こうとしたか忘れてしまい、半日ぐらい経っ
てから、やっと思い出すところがある。
 豚汁を見ると、由美は灯子を思い出す。料理教室で豚汁を作った時、由美の向か
い側に灯子が立った。この日の灯子は髪をアップにして、生え際まで額を出し、眉
毛を細く剃って爪を花柄に彩色していた。モデルかホステスをやっている風情で、
料理教室ではひと際目立って、場の空気から浮いている。料理をやらないように見
える灯子の包丁さばきや手際の良さを見て、他の生徒と同じく由美も驚いた。その
灯子が向かい側に立って、由美は緊張した。
 由美と灯子は、同じ班になったことがない。週に二回、欠かさず通う由美と違っ
て、灯子は来たり来なかったりする。
 豚汁と太巻きを作り終えたあと、立食形式の試食で灯子が由美に歩み寄り、スチ
ロールの椀を差し出した。「そっち、ちょうだい」と灯子に言われ、由美は灯子と
椀を交換した。
 濃艶な紅で色づいた唇の間から、息を吹きかけて熱を冷まし、灯子が汁をひと口
すする。その顔を見つめる由美は、細い眉の根元辺りに、かすかな痙攣を見たよう
な気がした。
 由美も灯子から受け取った椀の匂いを嗅ぎ、「あ、違う」と声を上げ、汁をすす
って「あ、おいしい」と、率直に感想を漏らす。何が違うのかわからないが、自分
の班が作った物とは違う。灯子の豚汁のほうが上品な味だ。
「どうですか?」
 おそるおそる由美がたずねると、「うん、ふつうにおいしい」と灯子は答え、唇
の端を横に伸ばして微笑む。箸でつまんだ具を口にして、また「うん」と言って首
を縦に振り「ふつうにおいしい」を繰り返す。お世辞を言っても本心が顔に出る人
だと由美は思う。
「七味どうぞ」
 テーブルから七味唐辛子の小瓶を取り上げ、灯子に差し出す。
「ありがとう」と灯子は答え、鼻から息を抜いてくすりと笑った。

「お納豆のお味噌汁、作ったことある?」
 料理教室を出たあと、駅に向かう途中に立ち寄ったカフェテリアで、由美が灯子
の仕事をたずねようとして、二人の声がかぶった。引いた由美に灯子が訊いた。
「おなっとう?」
 訊き返した直後に由美は、お納豆の意味がわかって「あぁ」と呟く。
「お納豆のお味噌汁が食べたいって、彼が言うのよ。でも、あたし、作ったことな
くて。ふつうにお味噌汁にお納豆入れればいいかしら?」
 まばたきもせず、由美の目をじっと見つめながら灯子は言い、指に挟んだ煙草を
咥える。顔の向きを変え、窓のほうに煙を吐く。その間も灯子は、由美から目線を
外さない。茶色がかった灯子の瞳に、由美はたじろぐ。
「はぁ……いいんじゃないですかねぇ」
 答えながら由美は、あぁ、彼がいるんだ、と思った。灯子は特定の男性を好きに
なるタイプではないと、由美は思い込んでいた。意外な感じもするが、納得できる
ところもある。
「あなた、九ノ一やらない?」
 くのいち? 灯子の突飛な質問に、由美は面食らった。
「あたしが働いてるお店で、ちょっとしたショーやってるのね。くだらないコント
だけど、まぁ、簡単に言えば、演劇やってる人たちのバイト。それで、ふつうの子
がいるといいんだけど、いないのね。なんて言うか、派手でも地味でもない子? 
親近感があって……わかるでしょ? イノセントでピュアなパーソナリティ、と言
うか、キャラクター作ってる子はいるんだけど、ナチュラルじゃないのね。わかる
でしょ? あなた、イメージ的にぴったりなんだけど」
 灯子の話では、テレビの時代劇を下敷きに、現代風にアレンジした寸劇だそうで、
由美には『水戸黄門』で由美かおるが演じているような、女忍者の役をやって欲し
いと言う。最初は入浴シーンと、女忍者のコスチュームでチャンバラをやるだけで
いい。入浴シーンはストラップレスのビキニを着て、バストより上を見せるだけで、
事前にフィルムに撮っておき、ステージのスクリーンに映写する。ヌーブラを付け
て上半身を露出し、客をサプライズさせるアイデアもあるが、由美が嫌ならやらな
くていいし、入浴シーンそのものも、由美が嫌ならカットして構わない。客の反応
を見ながら、日によってシナリオが変わる。場の空気も乗りもすぐに読めるし、由
美ならアドリブで台詞を言ったら、客の受けがいいだろうと灯子は言う。
 面白そうだと由美は思った。でも、気が引ける。安心して、心配ない、大丈夫と、
不安を打ち消そうとする誘い文句に、由美は警戒する。嫌ならやらなくていいと言
われると、自分から進んで裸になるような気もする。
 親に相談してみないと――そう答えようとして、その歳でまだ親離れできないの
? 自分のことは自分で決めなさいよと、咎(とが)められるような気がして、由美
は返答に窮した。
「そんなに真剣に考えなくていいのよ。どんな感じか、一度お店に遊びに来て、見
てもらってもいいし。その気になったら、電話ちょうだい」
 そう言って灯子は、名前と携帯電話の番号だけ書かれた名刺を、由美に渡した。

 カウンターにいた作業服の客が席を立ち、勘定を済ませて店を出る。
「ありがとうございました! またどうぞ!」と声を掛け、由美は客がいるテーブ
ルと、カウンターの兄を見る。兄は脚を組み、開いた新聞を読みながら食事する。
行儀が悪いと由美は思う。

   Chapter5.彰

 新聞の占いで、勝負運と金銭運に○が付いているのを見て、朝一の台が八千円で
当たらなければ、羽根物に移ろうと、彰はこの日のパチンコの作戦を練る。326
番台か288番台が、そろそろ爆発しそうな気がする。おととい誘導釘が開いて、
昨日もよく回っていたが、大当たりの回数は伸びなかった。トサカとヒラメはパチ
スロのほうに回るだろうし、ロンゲは地元で稼いでいるのか、このところ顔を見せ
ない。
 灯子から三万円を借りて来た。負けたら返さなくていいと灯子は言う。人から借
りた金で勝負すると、不思議と負けないというジンクスが彰にある。
 昨日の夜、彰は灯子の部屋に泊まった。灯子がどんな仕事をしているか、彰は知
らない。パチンコ店で何度か見かけ、彰の隣で打つようになり、一緒に食事もした。
昨日の夜、店を出たあと、灯子から「うちでご飯食べない?」と誘われた。「ひと
晩だけ付き合ってよ」と灯子は言う。
「お鍋やらない?」
 灯子に訊かれ、「二人で?」と彰が問い返すと、「いいじゃない」と灯子が答え
る。寂しいのか――彰は納得した。
 地下鉄駅に向かう途中で、灯子が薬局に入った。店から出ると紙袋を開き、男性
用の避妊具を見せ、「これでいいかしら?」とたずねる。彰は「うん」と答えた後
に、「いや、それじゃ入らないな」と、見栄を張ってホラを吹く。「そんなに太い
なら、あたしの中に入らないわ。あたしの、すんごいきついもの」と灯子が切り返
し、笑い合った。
 歩き出してすぐに灯子が、彰のジャンパーの肘の内側を手でつかむ。顔を見ると、
灯子ははにかみを見せて目を逸らす。
「米沢牛のお肉があるんだけど、すき焼きにする?」
「しゃぶしゃぶは?」
「あぁ、そうね」
 同棲を始めたばかりの恋人同士か、新婚夫婦のようだと彰は思う。醒めた目で眺
めていた風景に、自分も融け込んでゆくような気がする。
 灯子の部屋は、地下が駐車場で地上十二階のマンションの八階にある。3LDK
で、一人暮らしの女が住むには広すぎる。バスとトイレが分かれている。「家賃い
くら?」と彰が訊くと、「分譲」と灯子は答えた。
「ぶんじょう?」
 アパートで暮らす彰は、不動産について何も知らない。「建て売りよ。賃貸じゃ
なくてね」と灯子から説明され、あぁ、と納得した途端、こんな所に住んでいる女
が、なぜパチンコ店に出入りするのかと、疑念が湧いた。
 灯子が寝室で着替える間、彰はキッチンの冷蔵庫にあった缶ビールの蓋を空け、
リモコンでテレビの電源を入れた。ミニコンポーネントステレオの下の棚に並んだ
CDとDVDのタイトルを眺める。CDにはエミネムやブリトニー・スピアーズ、
女子十二楽坊、李孝利(イ・ヒョリ)と共に『寂庵法話集』が並んでいる。ケースを
開いて見ると、瀬戸内寂聴の講演が収録された物らしい。変わった女だ、と灯子に
ついて彰は思う。
 ボトムがパンツのスーツから、襟ぐりが肩先まで開いたセーターと、ミニスカー
トに着替えた灯子が、リビングに姿を現した。頭の後ろで髪を束ね、うなじを見せ
る灯子を、彰は抱いた。灯子も目を閉じ、彰の背中を両手でまさぐって、欲望に応
える。
「裸エプロンとノーパンしゃぶしゃぶは有料だけど」
 スカートの裾を腰まで上げ、サイドがメッシュのショーツを露わにした灯子から、
冗談を言われて彰は苦笑した。「高いの?」とたずねると「お給料の三ヶ月分」と
灯子が切り返す。「俺は給料制じゃないから駄目だ」と彰は答え、笑い合った。

 目覚めると灯子はいなかった。メモと一万円札五枚が、リビングのテーブルに置
かれていた。彰は「三万借りる」とメモを残し、灯子の部屋を出た。
 気だるい気分で日常に戻った彰は、見慣れた風景に隔たりを感じる。テーブル席
の会社員が、まるで自分と違う人種に思われる。自分はもうビジネスマンに戻れな
いかも知れない。パチンコで食って行けるはずがないことはわかっている。このま
ま落ちるところまで落ちてみたいとも思う。

 新しい客が来た。「いらっしゃいませ!」と声を張った由美が「あ、おはようご
ざいます」と言い直す。男二人と女一人の三人組で、一番奥から一つ手前のテーブ
ルに着く。一番奥にいる先客の会社員に女が背を向け、男二人が女と向き合う。カ
ジュアルな服装だが、学生ではなさそうだ。自分より年上だと彰は思う。手前の男
は外国人だ。南アジアか中東の出身だろうと、彰は見当を付ける。

   Chapter6.則之

「ユミさんは、今日もハラキッテますね」
 三人分の茶をテーブルに置いて、「鮭定食三つでいいですか?」と、注文を確か
めようとした由美に、カウンター側の席に着いたラジャームが声を掛けた。
「ハラ?」
 驚いた由美が聞き返す。壁側の席の則之が突っ込む。
「違うよ、ラジャ。ハラキッテじゃなく、ハリキッテだよ」
「ん? ハリキッテ?」
「そう」
 テーブルを囲んだ四人から笑いがこぼれる。その和やかな空気が、文恵の一言で
凍りつく。
「腹切ってじゃ、帝王切開よね」
 由美と則之の間に緊張が走り、ラジャームは意味こそわからないが、場の空気が
変わったことを感じ取る。気まずくなりかけた空気を則之が取り成す。
「そうそう、腹を切ったら帝王切開、俺はいつもお節介? はじゃ、は……」と則
之は途中で舌をもつれさせ「原を切るなよジャイアンツ」と続けた。
「ノリさん、カミマシタね」
 舌がもつれた則之に、ラジャームが突っ込む。
「うるせぇよ。お前、そういうヘンな日本語だけは、すぐ覚えるんだな」
 則之とラジャームのやり取りに、由美と文恵は笑いながら、アイコンタクトを交
わす。

 由美の入浴シーンを撮影して欲しいと、灯子から頼まれた則之は、断られるのを
覚悟の上で、「由美ちゃん、ヌード撮ってあげようか」と言ってみた。
 由美は水着の上にバスローブを羽織り、ソファーに腰かけ、ポカリスウェットを
飲んでいた。則之と由美が向かい合い、灯子は背もたれのない椅子で脚を組む。
「えー」と由美は迷いを見せ、「ダメですよぉ」とにこにこ笑いながら答える。即
答で断らないところに説得の余地を見て、則之は灯子とアイコンタクトを交わす。
「彼氏いるんだ?」
「いないんですよ」
「嘘? じゃあ、俺なんかどう?」
「あんたは奥さんいるでしょ」
 灯子が横から口を挟む。
「奥さんじゃねぇよ。まだ籍入れてねぇもん」
「え? 灯子さんとノリさん、付き合ってるんじゃないんですか?」
 由美から訊かれて、「違う違う」と、則之と灯子の声がユニゾンでかぶり、三人
とも笑い出す。
「え、だって、さっき、お二人でキスしてたじゃないですか」
「あれはただの挨拶」
 灯子が答える。
「え、そうなんですか? えー、だって、えー、なんかすごぉい」
「由美ちゃん、ヌード写真、見たことある?」
「ありますよ。高校の頃とかよく。お兄ちゃんの部屋にある写真集、こっそり持ち
出して。友だちと一緒に見てました」
「そうなんだ。お兄ちゃんいるんだ」
「ノリが撮ったの、見せてあげたら?」
「あ、うん。そうそう。灯子の写真、見てみる?」
 則之はバッグの中を探り、バインダーノート型の写真ケースを取り出して、由美
に差し出す。開いた瞬間、由美の目が輝く。
「わぁ、きれい。これ、灯子さん? ですよね。わぁ、すごぉい」
 由美はページを開くたび、感嘆の声を上げる。バストの上に赤い絵の具で「Not
for Sale」と書かれた灯子が、前傾姿勢とカメラ目線で、歯に咥えた紐を手で引っ
張っている写真が、一番気に入った様子で、食い入るように見つめて「かっこいい」
と呟く。
「灯子さんすごぉい。顔もきれいだけど、なんか、オーラが違う」
「由美ちゃんも脱いだら変わるよね」
「え、これって、雑誌とかに投稿するんですか?」
「それは、由美ちゃんしだい。灯子の写真はどこにも載ってない。ほら、親とか知
り合いにバレたらまずいとか、いろいろあるでしょ? 顔にボカシ入れてもいいし。
その辺はまぁ、ね」
「えー、どうしよ。えー、ちょっと……変なことお願いしていいですか?」
 言いながら由美は灯子の顔を見る。
「何?」
「胸、触ってみていいですか?」
「やだ……いいわよ」
 灯子は両手で首の脇の髪を掻き上げ、椅子から立ち上がり、由美の隣に腰を降ろ
す。由美はブラウスの上から灯子の胸に掌を押し当て、「あ、やわらかぁい」と言
ってすぐに手を離し、灯子の乳房を包み込むように、また掌を押し当てる。
「あたしにも触らせて」
 灯子が由美の胸に手を伸ばすと、由美は「やん」と声を出し、腕で胸を隠す。「ず
るぅい」と灯子が言い、じゃれ合ううちに由美の脚が開いて、由美の腿の付け根を
見た則之は、唾を飲む。
「だって、灯子さんは、おっぱい、って感じじゃないですか。あたし、いっぱいい
っぱいなんだもん」
 思いがけず由美から出た言葉で、則之と灯子は笑い出す。
「マッサージしてあげるから。大っきくしてあげる」
「ダメですよぉ」
「一緒にお風呂入ろうか?」
「えー、写真撮るんですか? 二人で?」
「とりあえずテストで、どう?」
「うーん、どうしようかな……えー、いやぁ、恥ずかしい。どうしよ」
 前髪を指先でいじりながら、由美が思案する。則之はバッグからデジタルカメラ
を取り出し、由美にレンズを向けてシャッターを押す。カメラに目線を向けた由美
が、唇の端を横に伸ばしてにっこり微笑み、首を傾ける。
「由美ちゃん、ほんっと可愛いね。唇の端、舌で舐めてみて」
 へへ、と声を漏らして由美が笑い、舌先を見せた。

 灯子との絡みは撮れなかったが、由美の単体ヌードを撮影した則之は、画像処理
の打ち合わせを口実に、三日後に喫茶店で由美と会った。ノートパソコンで開いた
画像を見せると、
「どっか、他に行きません?」と由美が言う。
 則之のアパートには祥子がいて、由美の家には親がいる。行く当てもなく店を出
て、ふと思いついてビルの屋上を指差すと、由美が感心したように目を見開いて、
大きく頷く。
 陽が暮れて人気のない屋上に上がり、則之は貯水槽の梯子で懸垂をやって見せ、
「こん中に貞子いるんだよ」と冗談を言い、由美を笑わせたあと、コンクリートの
地べたに腰を降ろした。並んで座ろうとする由美に「ちょっと待って」と言い、ズ
ボンのポケットからハンカチを取り出して広げ、地面に敷いた。「ありがとうござ
います」と言って腰を降ろした由美に、「今日のパンツは?」と訊くと、由美は「こ
んなんですよ」と言いながら、スカートの裾をめくり上げて、腰を見せる。暗がり
に加え、黒いパンティストッキングを穿いているため、「わかんないね」と則之が
言うと、「白。シルクですよ」と自慢げに由美が答える。そんなやり取りのあと、
ノートパソコンを開いて写真を見せた。
「恥ずかしい」「あ、これ、絶対ダメ」「やぁん、どうしよ」などと言いながら、
由美がひと通り写真をチェックしたところで、則之は「由美ちゃん」と呼びかけ、
真顔で由美の目を見つめた。
 則之の目を見て真顔になった由美は、目を逸らし、指先で前髪をいじりながら「奥
さん、いるんでしょ?」と、拗ねたような口ぶりで確かめる。
 駄目か――落胆した則之は、はぁと大きく溜め息を吐き、腰の後ろに回した両手
で上体を支え、天を仰いだ。横目で由美を見やると、由美も目を合わせて笑みを交
わす。
「奥さんは、灯子さんのこと、知ってるんですか?」
「うん。知ってるよ。俺より付き合い長いから」
「そうなんだ」
 靴の爪先を見ながら、腹減ったな、どこに行こうかと則之が考えていると、則之
の頬に由美がキスをした。
「挨拶ですよ。いまはまだ。ね?」
 期待を持たせて釘を刺す。
「また撮影したいね」と則之が言うと、「どっか遠くに行きたいなぁ。南の島とか。
海が見たぁい」と由美がねだる。
「今度はもっと激しいやつ撮りたいな」
 則之の言葉を察した由美が照れ笑いし、俯いて唇をとがらせる。膝にのせたノー
トパソコンを脇に置き、トレーナーの胸元を手でつかんで、則之の目を見て「いい
ですよ」と答える。
「ほんとは好きな人いるんじゃないの?」
 由美の仕草を見て、トレーナーの下にペンダントがあるのではないかと察した則
之は、突っ込んだ。撮影の時は付けていなかった。則之の目を見た由美は、視線を
逸らし、遠くに視線を馳せる。
「もういないから」
「忘れたいけど、忘れられないんじゃないの?」
「いや……うん……」
 言葉に詰まって俯いた由美が、鼻水をすする。
「俺の服、汚していいよ」
「ん……大丈夫」
「酒、飲むか?」
「うん」
「よし、朝まで飲もう。俺はウーロン茶だけど」
「飲めないんですか?」
「うん。実はね」
「え、どうしよ。あたし、酒癖わるいんですよ」
「カメラ持ってきてるから、撮ってあげる」
「やだぁ」と言って由美は、いつもの笑顔を見せた。

   Chapter7.絵里

 店を出た健太は、雨に濡れながら現場に向かう途中、高校の同級生の絵里を見か
けた。引っ越し会社のロゴマークがプリントされたツナギのユニフォーム姿で、女
三人が路肩に停まったワゴン車から降りて、その中に絵里がいた。健太は声を掛け
ようとして、思いとどまった。作業服を着て働く絵里が、健太には別人に思われる。

 こんな雨の日に清掃の現場に回され、最近はツイてないと絵里は思う。絵里がス
タッフとして登録している引っ越し会社は、一般家庭の清掃サービスも請け負って
いる。絵里は自分の部屋の掃除はあまりやらないが、他人の家を掃除するのは嫌い
ではない。汚れたバスタブや便器、換気扇がきれいになると、気持ちが良くなる。
でも、雨の日の掃除は好きではない。
 灯子の部屋の梱包と開梱に回された日も、雨だった。調度品や装飾品、食器など
を少しでも傷つけたら、損害賠償が大変な額になると、前日からプレッシャーをか
けられていた。
「この皿、窓から投げてみようか」
 作業中に真希が冗談を言い、絵里も真希に、食器を放り投げる振りをして見せた。
そうして仕事中にふざけたりさぼったりしている時ほど、見られてはいけない姿を
客に見られる。兎の着ぐるみで子どもたちに風船を渡すバイトをやった時も、面を
外して煙草を吸っている姿を、子どもに見られた。
「あなた、寝室のほう、お願いできる?」
 灯子から直接、絵里は声を掛けられた。寝室のクローゼットの棚に、ティッシュ
ペーパーの箱のサイズほど積まれたゴールドバーと、印鑑の束、そして卑猥な道具
があった。
「それ、要らない? 良かったらあげるわ」
「え? 金ですか?」
 絵里のリアクションに、灯子は掌で口を塞いで上品に笑い、「やっぱり、そっち
のほうがいいわよね」と答える。
「でも、あなた、金なんか貰っても困るでしょ? あまり嬉しくないしね。それ、
一本百二十万くらいかしら。あげるって言ったら、持ってく? 重いわよ」
 そう言って灯子は真顔でゴールドバーを差し出す。絵里は体をガードするように
胸の前に掌をかざし、苦笑で引きつらせた顔を横に振って拒絶する。人を怖気づか
せる灯子の真顔が、柔和に戻る。
「ごめんなさいね。ばかにしてるわけじゃないのよ。あたし、友だちいないから。
同性に嫌われるって、よく言われるわ」
 絵里は吹き出しそうになり、奥歯を噛んでこらえた。確かにそういうタイプの人
だと絵里は思う。
「ここ、小型のカメラとマイクがあるのよ。三ヶ所。見つけてみて」
 最後まで絵里を驚かせ、灯子は寝室を出て行った。絵里は深い溜め息を吐き、床
に膝を突いた。

 作業の初日には寿司が振る舞われ、二日目には三段重ねの弁当が出た。引っ越し
作業が完了すると、灯子はスタッフの一人一人に小さな祝儀袋を手渡した。中には
二千円札二枚と「ご苦労さまでした」と筆で書かれた紙片が入っていた。
「あの」
 他のスタッフから離れ、絵里は灯子に耳打ちした。
「あれ、本当にいただけるなら、後で送ってもらえませんか? 着払いでいいんで」
「よろしくってよ」
 にっこり微笑んで快諾した灯子に、絵里は名前と住所と電話番号を書いた紙を渡
した。
「寿司が出るなんて、いまどき珍しいな。ご祝儀、一人頭四千円だってよ。信じら
んねぇ」
「なんかヤバそうだな。あの女、誰かの愛人だろ。それにしても四千円て……」
 助手席にいる朝倉と、運転席の宮田のやり取りが、絵里に聴こえた。チーフの朝
倉が後部座席を振り返り「今日のご祝儀、内緒ね」と言って、唇の前に人差し指を
立てる。朝倉の笑い顔に、絵里は幻滅した。
 数日後、絵里の家に、灯子からの宅配便が届いた。着払いでいいと言ったのに、
元払いだった。卑猥な道具と一緒に、ブルーの可愛らしいワンピースと、金色のビ
キニの水着と、香水の瓶が入っていた。同梱のメモに「貴女にお似合いと思います
が、お気に召さなければ捨てて下さい」と書かれていた。

 灯子のことを思い出し、雨の日の掃除も悪くないと、絵里は思い直す。
「圭ちゃん、がんばろうね」
 洗剤と両面テープを買ってコンビニエンスストアを出た直後、絵里は圭子の背中
を叩いて言った。
「どしたの? 急に」
 唐突にはしゃぎ出した絵里に、圭子が言い返す。

   Chapter8.圭子

 圭子がクラブのホステスだった頃、客のクレジットカードをスキマーに通す現場
を、灯子に見られた。
 スキマーはクレジットカードの個人情報を読み取る機械で、単にカードの情報を
読み取るだけなら、犯罪にならない。読み取った情報を他のカードに転写して、カ
ードを偽造した時点で犯罪になる。カード一枚をスキミングするだけで、五千円に
なる。おいしいバイトだった。
 灯子は、美咲を贔屓(ひいき)にしている常連客が、何度か連れて来る女だった。
こんな店に女を連れて来る客は珍しい。圭子も不思議に思っていたが、ママや美咲
がその女と親しげに話すのを見て、以前にこの店で働いていた女だろうと見当をつ
けた。
 その頃の美咲は「おねだりプリンセス」改め「おねだりクイーン」を自称してい
た。ロマネコンティやドンペリニヨンをオーダーした指名客に「美咲めくり」をサ
ービスしていた。店ではスカートをめくらせるだけだが、出勤前やオフの日には、
ホテルで下着の中身までめくらせていると、他のホステスが噂していた。
 灯子にはじめて声を掛けられた日、圭子は三人グループの客に付いていた。常連
客の営業マンが、上司と得意先の担当者を連れて来た。得意先の担当者が勘定を持
ち、クレジットカードを圭子に渡す。圭子は会計カウンターの脇でカードをスキミ
ングし、ふと振り返ると美咲の客の女がいた。
「そのお客様、あたしの知り合い」
 女の言葉で、圭子はぞっとした。カードの持ち主に告げ口すると脅されるような
気がして、身構える。
「大丈夫よ。あの人、詐欺に遭ってもおかしくない人だから。いい気味だわ」
 目を細め、唇の端を歪ませて、女は不敵な笑みを浮かべる。
「あなた、もっといいバイトやらない? あたしと一緒にいる人、村山さんて言う
んだけど、あなたのこと気に入ったらしいの」
「売りですか?」
 この店の客はあまり上等ではないと、圭子は心得ている。客のカードのスキミン
グが黙認されている店に、上等の客が来るはずはない。自分を気に入る客は体が目
当てで、だからこそ体を売れば終わりだと、圭子は心得ている。ましてや相手は美
咲の客で、ここでは金で女を買えると思っていても不思議はない。美咲の体に飽き
た村山が、次は自分を狙っているのだと、圭子は思った。
「売りって、売春のこと? そうね……そんなことにならないと思うけど、そうな
ったら、あなた、すごいわ」
 女は意外なことを言う。
「どちらかと言えば、老人介護サービスね。村山さんのお父様、七十六歳なんだけ
ど、週に一度、その方と一緒にお風呂に入るだけでいいの。水着でいいけど、これ
までお願いした方は、皆さん脱いだみたい。その方の子どもが出来たら、遺産を分
けて頂ける契約だから。子どもは、あなたが育てたければ育てていいし、堕ろして
もいいわ。きちんと検査するから、他の男の子どもを作って嘘をついても、すぐに
ばれるわ。まぁ、それ以前に、その方をエレクトさせるまでに、皆さんギヴアップ
されるけど。あなた、挑戦してみない?」
「やります」
 ためらいもなく圭子は答えた。遺産が欲しいわけではない。老人介護の仕事に興
味があった。資格を取ってホステスを辞めようと考えていた。
「思った通りだわ。あなた、パーフェクトよ。ルックスもプロポーションもキャラ
クターもパーフェクト。あなたなら出来るわ」
 そう言って女は圭子に抱きついた。圭子は驚き、舞い上がった。女は圭子を強く
抱き寄せ、唇を重ねる。圭子は頭が熱くなり、何がなんだかわからなくなった。気
絶しそうな圭子の体を女が支える。
「お願いね。後で連絡ちょうだい。あなた、大好き」
 そう言って灯子は、名前と携帯電話の番号だけ書かれた名刺を、圭子の胸の谷間
に差し入れた。

   Chapter9.祥治

 引っ越し会社のユニフォームを着た二人組の女が、コンビニエンスストアから出
て来て走り出し、道路を渡ってワゴン車に乗る。煙草を買うため自動販売機の前で
立ち止まった祥治は、傘を差しながら、その姿をぼんやりした目で追いかけた。大
柄なほうの女に見覚えがあるような気がして、インターネットの成人向けサイトで
見た女に、似ているのだと気がついた。
 麻雀荘を出て学生たちと別れ、バスの停留所に向かう途中だった。専門学校の非
常勤講師を務める祥治は、負けた金より場代のほうが高くなるレートで、昨日の夜
から学生たちと麻雀を打ち、朝まで付き合った。
 こんな日は、由美に合わせる顔がない。灯子に連絡してみようかと考える。

 初めて灯子を見かけたのは、いつ、どこでだったか、祥治は覚えていない。イン
ターネットを利用したサイドビジネスの説明会でもないし、献血センターでもない
し、プールバーでもない。由美が「かわ瀬」でアルバイトを始める前だから、今年
の春だったことは確かだ。そういう場所で何度か偶然に灯子に出会って、自動車教
習所で会った時、初めて話をした。
「こんにちは」
 祥治が声を掛けると、女はにっこり笑って会釈した。迷惑そうな顔ではない。そ
れまで何度か目が合って、言葉こそ交わさないが、嫌な印象を与えていないと思っ
ていた。それでも祥治は自分の感覚に半信半疑だった。女は左隣の椅子から右隣の
椅子に、ハンドバッグを移動させる。
「また会いましたね」
 空いたばかりの女の隣に、祥治は腰を降ろす。
「そうですね。あれから痴漢やってます?」
 いきなりそんなことを言われ、祥治は驚いた。痴漢など一度もやったことはない
し、痴漢に間違われたこともない。
「痴漢?」
「あら。違った? ごめんなさい。人違い」
 自分がそう思われていたと知り、祥治はがっかりした。それでも祥治が思ってい
たより女は親しみやすい印象で、悪い気はしない。
「ひどいなぁ。そんなことやんないですよ」
「ごめんなさい。痴漢の人だと思ってました」
 憮然としながら、確かに痴漢に遭いそうな女だと、祥治は思う。今日もスリーヴ
レスのVネックで、胸元と腋の下からフェロモンを撒き散らしている。プールバー
で会った時は、下着が見えそうなほど丈が短いボディコンシャスのワンピースだっ
た。派手な色のスーツを着たホスト風の男に、肩や腰を触らせていた。祥治は下着
が見えそうになると目を逸らしたが、「青っすね」と、一緒にいた和幸が耳元で囁
いた。
「いいんですけどね」
 投げやりに祥治は答える。
「パン食べます?」
 女がハンドバッグから半透明の袋を取り出し、生クリームをサンドしたクロワッ
サンと、ソーセージロールを見せる。バッグの中に『麻雀のルールと点数計算』と
いう題名の本があるのを、祥治は認めた。
「どっちがいい?」
「あ……んじゃ、ソーセージ」
 女は親指と人差し指でソーセージロールをつまみ、「はい」と言って祥治に差し
出す。「いただきます」と言って祥治はそれを受け取る。女もショートパンツから
伸びた腿の上にハンカチを広げ、クロワッサンを頬張る。
 パンを食べながら祥治は、女の視線を耳の辺りに感じた。目を合わせると女がに
っこり微笑み、すぐに目を逸らす。
「ここの教官も、痴漢が好きそう」
 女が漏らして、祥治も鼻で笑う。見ないようにしようと思いながら、祥治の視線
はどうしても、女の胸元に吸い寄せられる。
「あなたみたいな人には、やさしいでしょ?」
「そうなのかな? そうかも知れない」
 目が合いそうになると、どちらからともなく視線を逸らす。
「なんか飲みます? パンのお返し」
 祥治は椅子から立ち上がり、自動販売機を指で差す。
「じゃあ、ミルクティ」
 女が答え、軽く微笑む。ん? 祥治は一瞬、当惑した。女がウインクしたような
気がする。ただのまばたきだろうと思い直す。
 パンと紅茶でパンティか――自動販売機に硬貨を入れながら祥治は駄洒落を思い
つき、下らねぇと自分の発想を卑下する。インターネットを始めてから、独り言が
増えた。
 椅子に戻って女に飲み物を差し出すと、「ありがとう。いただきます」と言って
女が受け取る。缶コーヒーの蓋を空け、麻雀の話題を切り出そうとすると、女が顔
を寄せてきて、耳元で囁く。
「ねぇ、勃起してるでしょ?」
 祥治は口に含んだばかりのコーヒーを、吹き出しそうになった。慌てて飲み込ん
で、むせて咳をする。図星だった。硬くなってはいないが、疼いている。
「ごめんね。変なこと想像させちゃって」
 確かに祥治は、プールバーで見た女の脚を思い出し、猥褻な行為を想像したこと
もある。でも、いまは違う。何がどう違うのかわからないが、雑誌のグラビアやア
ダルトビデオや成人向けサイトを見て、興奮するのとは何かが違う。
「そういうのって、わかるの?」
 気を取り直して、祥治はたずねる。
「だって、ふつうじゃない?」
 ふつうだと言われてみると、そんな気もするが、何か腑に落ちない。
「自然でしょ?」
 女が真顔で祥治の目を見つめ、祥治はたじろいで目を逸らす。女が体の向きを変
え、上体の正面を祥治に向け、膝を祥治の膝に当てる。祥治はどきっとして、逸ら
した視線を女の目に戻す。女が身を乗り出し、祥治に顔を近づける。
「ねぇ、どっか行かない?」
 猫なで声で女が言う。ふんと祥治は鼻から息を抜き、人差し指で鼻の下をこする。
 そんなつもりで声を掛けたんじゃないんだけどな――女のほうが積極的で、すっ
かり気圧された祥治は、予想外の展開に途惑う。よし、セックスできるぞ、と思う
反面、いいのかよ? とも思う。そんなつもりじゃないのにと思いながら、そんな
つもりが腹の底から込み上げてきて、そんなつもりで顔を上げて女を見ると、女が
祥治の腕に腕を絡める。
「お茶しながら、エッチな話しない?」
 エッチな話じゃなくて……と言いかけ、とりあえずエッチな話でもいいやと思い
直し、祥治は自分の財布の中にいくらあったか思い返す。一万円札が一枚と、千円
札が二枚か三枚は残っている。
 祥治と灯子は、この日の予約をキャンセルした。

 女の案内で入った店は、天井から巨大なシャンデリアがぶら下がり、壁の一面に
大きな風景画が飾られていた。広々とした店内で、四人掛けのテーブルが二組ずつ、
パーテーションで仕切られている。レイアウトは喫茶店よりナイトクラブに近いが、
いかがわしい雰囲気ではない。
 女は迷わず、奥のテーブルに着く。祥治が向かい側に座ろうとすると、出し抜け
に女が「隣じゃないの?」と訊く。
「え?」
 祥治が声を漏らして逡巡すると、
「冗談よ」と女が答える。「うちのお店、おさわりオッケーだから」
 やっぱり水商売の女か。祥治は納得して軽い落胆を覚えながら、対面に腰を降ろ
す。
「あ、信じたでしょ? それも嘘。あたし、ホステスじゃないんだけどね。みんな
ホステスだって思うから」
 女にからかわれ、祥治は腹が立ってきた。最初から、からかうために、自分を誘
ったのではないかとさえ思われる。険しい顔で女を睨むと「ごめん」と女が謝った。
 ヒップにヴォリュームのあるウエイトレスが来て、水の入ったコップを二つ、盆
から取り上げてテーブルに置き、注文を伺う。祥治はブレンドコーヒーを、女はカ
ップッチーノを注文する。祥治は腕組みして深い溜め息を吐く。
 女がハンドバッグを探り、煙草とライターをテーブルに置く。カルティエのライ
ターを見せられ、客の煙草に火を点ける女の姿を、祥治は想像した。女が煙草を咥
えて火を点け、顔を下に向けたまま、とがらせた唇のすき間から煙を吹き出し、上
目使いで祥治の顔を盗み見る。
「仕事、何やってんの?」
 気を取り直して祥治は訊く。祥治もジャンパーの内ポケットから煙草と百円ライ
ターを取り出し、テーブルに置く。
「んー、いろいろ。簡単に説明できない。あんまり大きな声じゃ言えない」
「やばい仕事?」
「うん。そう」
 水商売よりやばいのか――祥治は納得する。女の顔から笑いが消え、気まずい空
気が漂いはじめる。
「まぁ、いいや」
 祥治は答え、違う話題を探す。箱から煙草を一本抜いて、口に咥え、百円ライタ
ーで火を点ける。
「そういえば、君、麻雀やるの?」
「うん。なんで知ってんの?」
「バッグん中の本。さっき見えた」
「あら、そう。うん」
「今度、一緒にやる?」
「いいけど。あたし、上手いよ」
「点数計算できないのに?」
 祥治が突っ込み、吹き出した女が空いている手で口を塞ぐ。
「計算は出来ないけど、上手いんですぅ」
 女は言い張り、唇をとがらせる。その言い方と顔が可愛らしくて、祥治の陰茎に
血が通う。
「脱衣麻雀だよ」
 女にからかわれた祥治もやり返す。
「何それ?」
「負けたら服脱ぐの。一局ごとに一枚」
「それって……」と女は不服を訴えかけ「いいわよ。負けないもん」と、また可愛
らしく答える。「もぉ、いやらしいわね。やっぱり痴漢の人だわ」
「痴漢の人じゃないって。エッチな話しようって言ったの、そっちだろ」
「あ、そうね。うん、そうだわ。エッチな話、しましょ」
 祥治の陰茎に血が通う。眉間に縦皺を寄せ、目から上だけ険しい顔で脚を組む。
 底が薄い銅の灰皿で女が煙草の火を揉み消し、舌先で唇の端を舐め、祥治の目を
見て、小悪魔の笑みを浮かべる。何か企んでいるような微笑で、指先で髪を掻きあ
げる。耳たぶに穴があるが、いまはピアスもイアリングも付けていない。
「ねぇ、勃起してる?」
 女がまた直截に訊く。
「そういう言い方やめなよ。他に言い方あるでしょ?」
「たとえば?」
「んーと、なんだろう」と言ったきり、祥治はしばらく考え込み「たとえば、充電
してる? とか」
「あら、そう。で、充電してんの?」
「いま? 七十パーぐらい」
「そのうち漏電したりして?」
 鼻を鳴らして祥治は苦笑する。「そういうこともあるけど」
「痴漢の時も漏れた?」
「だから、やってないって」
 訝るような上目使いで、女が祥治の目を見つめる。祥治の陰茎に血が通う。
「それで、あなたの名前は?」
「え?」
「名前。まだ聞いてないじゃない。なんて呼んだらいいの?」
「あ、そうか。祥治。ネ偏に羊と、政治の治」
「ネヘン?」
「なんだっけなぁ……ノギヘンじゃなく、コロモヘンでもなくて、コザトヘン? 
違うな……あ、そうそう、シメスヘン。カタカナのネ。それに羊で、祥」
「あぁ、祥子ちゃんの祥ね」
「祥子ちゃん? 誰、それ?」
「中学の同級生。じゃあ、祥ちゃんだ」
「しょうだね……って、つまんない駄洒落でごめん。しょうもない」
「駄洒落? 面白ぉい」
「うるさいな。全然心がこもってないよ。君は?」
「布団が吹っ飛んだ、とか? 猫が寝転んだ、とか?」
「駄洒落じゃなくてさ。君の名前」
「下手なシャレはよしなしゃれ」
「わかったから。もういいよ。名前も人に言えないのかよ」
「そんな、怒んないでよ。あたしは灯子。蛍光灯の灯」
「灯子? じゃ、トウちゃん?」
「やだ。トウちゃんはいや。灯子って呼んで」
 ヒップにヴォリュームのあるウエイトレスが、注文の品を運んでくる。いまの祥
治には灯子以外に、世界に女が存在しない。世界は自分と灯子を中心に回っている。
この店を出ると柄の悪い男が二、三人、灯子にちょっかいを出してきて、裏通りで
自分がぼこぼこに殴られて、鼻と口から血を流す自分に、灯子がハンカチを差し出
すのだ――と考えて、それはない、と打ち消す。
 祥治はいつもはコーヒーに砂糖とミルクを入れるが、いまは入れない。
「下ネタ、好きなの?」
「だって、それしか話すことないから」
 あ、そうか。祥治は納得しそうになる。自分も猥談以外に、話すことがないよう
な気がする。
「なんかあるでしょ? 祥子ちゃんのこととか」
「祥子ちゃんがいいの?」
「そういう意味じゃなくてさ」
「ひどい。最初から祥子ちゃん狙いであたしに近づいたのね」
「アホか。祥子ちゃんて誰だよ。知らねぇよ」
「男はみんなそうやって、しらばっくれるんだわ」
「灯子さん」
「はい」
 これではまるで漫才だ。好い感じだが、どこか不自然で、不思議な感じもする。
いつもの自分と違うような気がする。女性を相手にこんなにしゃべったことはない
し、男が相手でも、これほど話が弾むことはあまりない。
「祥子ちゃんはね、高いお酒オーダーすると、スカートめくりやらせてくれるわよ」
「そうなの? 高いお酒って、いくら?」
「二十万とか二十五万とか」
「なんだそれ? スカートめくり二十万?」
「スカートめくりはサービスで、お酒が二十万よ」
「アホくさ。フルーツ盛り合わせが五万とか、そういう世界でしょ?」
「そう。それで祥子ちゃんはいい子だから、自己破産するほど借金して自分に会い
に来てくれた男を、いま養ってる」
「ばかだね」
「ばかでしょ? でも、たっちゃぶったらしょうがないよね。ねぇ、充電してる?」
「え?」
 灯子から出た「たっちゃぶったら」という言葉に、祥治は引っ掛かる。意味が解
らない。立ち破る? まぁいいか――疑問をパスして祥治は灯子の質問に答える。
「なんか落ち着いてきた。君は?」
「すごい濡れてる。パンツぐっしょり」
「嘘だろ?」
「うん。嘘」
「君、俺のこと、ばかにしてる?」
「なんで? そんなことないよ」
 会話が途切れる。ホテルに行こうと祥治は言いたくて、なぜか言い出せない。そ
んなことを思いながら、一番大事なことを訊いていないことに祥治は気づいた。
「君、付き合ってる人いないの?」
「灯子って呼んで」
「あ、ごめん。灯子は彼氏いないの?」
「いるよ」
 なんだ……がっかりしかけた祥治に、すかさず灯子が言い添える。
「いま、目の前に」
「へ?」
「祥ちゃん。あたしの彼氏でしょ?」
 屈託のない灯子の言葉に、祥治が途惑う。
「なんだそれ?」

 化粧室に入った灯子を待つ間、ホテルに誘うのはやめようかと祥治は考えた。こ
のまま勢いでセックスしたら、自分と灯子の関係が、終わってしまうような気がす
る。それでも今日やらなければ、もう二度と灯子とセックスできないような気もす
る。やってもやらなくても同じなら、やっちまったほうがいいような気もするが、
何かが違う。この流れなら、セックスするのが自然の成り行きだ。俺はどうして迷
っているのだろう?
 怪しい女だ――灯子に対する警戒心が祥治にある。裏があるのではないかと疑う。
こうして男を誘惑し、セックスしたあと、妊娠したと言って中絶手術の費用と慰謝
料を請求するのではないか。背後にやばい人たちが付いているかも知れない。やば
い仕事をやっているなら、やばい人間と関わっていると考えるのが当然だ。
 インターネットを利用したサイドビジネスの説明会を思い出す。いまと同じよう
に、やってみたいという気になった。それでも祥治はやらないことにした。
 とりあえず灯子の電話番号を訊こうと思いつき、バッグからメモ帳とボールペン
を取り出し、自分の家にある電話の番号を書いた。祥治は携帯電話を持っていない。
 化粧室から出て来る灯子が見えた。祥治は慌てて電子メールのアドレスも書き加
え、メモ帳のページを破り、ジャンパーのポケットに入れた。メモ帳とボールペン
をバッグに仕舞う。

 テーブルに戻った灯子は、祥治の目を見て、小悪魔の微笑を見せる。祥治は身を
引いて、背もたれに背中を付ける。灯子が身を乗り出し「祥ちゃん、祥ちゃん」と
小声で言う。胸の谷間に視線を奪われそうで、祥治は慌てて目を逸らし「なんだよ
?」とぶっきら棒に訊く。
 テーブルの下で灯子の手が、祥治の膝頭の外側を叩く。
「ん?」
「いい物あげる。早く」
 祥治もテーブルの下に手を差し入れ、指先が灯子の手の甲に触れた。掌にやわら
かい物が触れ、それをつかんで手を引いて、受け取った物を覗いてみる。真っ赤な
パンティだった。
「うわ。なんだこりゃ?」
 してやったりと言わんばかりの顔で灯子が笑う。祥治は体の向きを変え、通路側
に見えないよう、こっそり広げて見る。嫌な感触が指に触れる。
「うわ!」
 思わず声をあげた。汚い物を見た顔で、灯子のほうに身を乗り出す。「濡れてる
じゃん」と小声で言う。
「トイレでオナニーしてきちゃった」
「嘘だろ? マジかよ。うわ。汚ねぇ」
 引っくり返して見ると、縫い目の上に白抜きの字がある。「あってはならないこ
と」と書かれている。
「なんだこりゃ?」
 祥治は唖然として、ただ呆れる以外にない。
「アホか。汚ねぇじゃん」と言いながら、祥治はパンティをジャンパーのポケット
に入れた。
「いまノーパンだよ。お股すーすー」
「バカじゃねぇの?」
 何がすーすーだ。ショートパンツじゃねぇかよ。スカートだったらドキドキする
けど、ショートパンツじゃ意味ねぇじゃん。ほんとはパンツ穿き替えただけで、い
ま違うやつ穿いてんだろ――祥治は憮然とする。
「こっち来る?」
「うるさいな。なんでこんなことすんの? やめろよ。バカ」
「怒った?」
「うん」
「嫌いになった?」
「うん」
「ごめんね」
 信じらんねぇ、と祥治は思う。
「あたし、モバイルだから。軽くて安くて、誰とでもすぐにつながっちゃうし。便
利でしょ?」
 あ、そうか。巧いこと言うなぁと祥治は感心しそうになり、アホか、と打ち消す。
何がモバイルだ。軽いとか安いとか自分で認めるな。もっと自分を大事にしろ。
「速いしね。たっちゃぶったら、すぐにどこでもやっちゃう。接続して開いて閉じ
て、開いて閉じて、開いて閉じて、切断したら接続して、あんまり忙しくて誰とつ
ながったかなんて覚えてない。祥ちゃんのこと、痴漢の人だと思ってた。毎日更新。
気分しだいでリニューアル。名前なんて五十個ぐらいあるから、自分が誰だったか
忘れちゃう。アイデンティティなんて日替りよ。人格なんかありすぎて、ないのと
一緒。名前がないから名誉もないし、名誉がないから傷つくこともないし、プライ
ドなんて、ぷっぷーだわ。あたしのことなんて、みんなすぐに忘れるしね。身に覚
えのない請求書が毎月十通ぐらい来るしね。どいつもこいつも蟻並にあくせく働い
て、アリナミン飲んでりゃいいのよ」
 なんだそりゃ?――ヤケクソ気味にまくしたてる灯子に祥治は圧倒されそうにな
る――酔っぱらってんのか? カプチーノにアルコール入ってんのか? コーヒー
で酔っぱらったか? それはグーグーガンモだ――高校時代にラグビー部でフラン
カーとナンバーエイトをやった祥治は、相手にさんざん振り回され、大敗を喫した
試合を思い出す。相手フルバックが自陣の深いところからものすごいスピードで独
走し、片っ端からタックルをかわしてトライした。その時はもう、祥治も足が止ま
って声も出なかった。いつも檄を飛ばしてチームに気合いを入れる先輩も、膝で腕
を支え、俯いていた。前半はいい試合だったのに、後半が始まってすぐ、相手の反
則でうちのチームがみんなムカついた。あれでおかしくなった。
 灯子のパンティも反則だ。相手の顔を狙って肘打ちして、鼻血を出させるくらい
のラフプレーだ。サッカーならレッドカードで退場だ。なんで俺がレッドをもらわ
なきゃいけない?
「聞いてる?」
 灯子が訊く。
「聞いてるよ。あくせくアクセス、でしょ?」
 和幸と、噛みやすい言葉を言い合うゲームをした時、何度やっても和幸がうまく
言えなかった言葉を祥治は思い出し、言ってみた。灯子は驚いたような顔を見せて
吹き出し、掌で口を塞いだ。
「そうそう。あくせくはくせ……ん? はくせつかくせ? 違う。あくせ、つ、は、
く……ああ、もう」
「悪説吐く説」
「そうそう……え? 違うでしょ。あくせ、く、アクセ、ス。あくせく、アクセス。
言えた」
「おめでとう。滑舌(かつぜつ)サクセス」
「やだ、もう」
「毒舌炸裂」
「もういいよ」
「一応、かぶせてみた」
「そういうの、天丼て言うの?」
 コメディアンの専門用語が灯子の口から出て、あ、テレビ見るんだ、と祥治は納
得した。
「天丼は……違うんじゃない?」
「お笑い、好き?」
「うん。北陽の小っちゃいほうとか……灯子の次に」
「え?」と灯子は一瞬、喜んだような顔をして、「ん?」と何かに気づいたように
眉をひそめ、「それって、褒めてないよね?」と言う。
「褒めてるよ。可愛いじゃん、北陽の小っちゃいほう」
「伊藤さおりでしょ? 好きなら名前で言いなさいよ」
「じゃ、相方の名前知ってる?」
「アブ……ちゃん?」
「フルネーム知らないんだ?」
「いいじゃない、別に」
 拗ねたような口ぶりで答えた灯子が、カップッチーノを口にする。自分だったら
唇の上に泡をつけて「ヒゲ」と言って見せると、祥治は思った。
「でも、北陽って……」と灯子が言いかけ、すぐに話題を変えた。
「じゃあ……祥ちゃん的に、あたしは何番目?」
「え?」
「伊藤さおりがあたしの次で、あたしの上は?」
「ん……灯子は、二番目、かな」
「あら。じゃあ、一番は?」
「自分」
 目の間に皺を寄せて、灯子が笑う。
「ナルシストね。そうだよねぇ」
 呆れたように言った灯子が、唇をとがらせ、背もたれに背中を預けて、腹の上で
腕を交差させる。上腕で乳房を挟んで、バストを強調するポーズで、胸の谷間を掠
めた祥治の視線を目敏く捉え、そのまま身を乗り出す。
「祥ちゃん、巨乳なら誰でもいいんでしょ?」
 灯子に突っ込まれ、祥治はうろたえながら、ブラジャーも赤かと納得する。
「違うよ。そうじゃなくてさぁ」
「マザコンだ」
「違いますぅ」
「でも、あたしのおっぱい、いじりたいでしょ?」
 祥治は絶句した。返す言葉がない。下品な行為を想像しそうになり、想像を打ち
消そうとすると想像してしまい、想像の中でとんでもないことが起きてしまう。口
を開けば下品な言葉が出そうになる。確かにいじり倒したい。
 この女は、他の男ともこんな話をするのだろうか? 疑念が湧いた。
 会話が途切れる。もうどうでもいいやと、祥治は投げやりな気分になる。
「灯子さん」
「さん付けじゃなくて、灯子って呼んで」
「灯子」
「はい」
「ブラの紐、見えてる」
 目線を落とした灯子が、服の上から手でブラジャーの肩紐をつかみ、襟元を直す。
「ありがとう」と言って微笑む。
「灯子」
「はい」
「ホテル、行く?」
「え?」
 灯子が驚く。灯子が驚いたことに祥治が驚く――なんだ、この女は? そのつも
りじゃなかったのか? セックスしたいから自分にパンティをよこしたのではない
のか?
「えー」と灯子は、困ったような顔で考え込み、「いいけどぉ」と投げやりに答え、
「行くよ。どこでも行きますよ」と、自棄(やけ)になったような言い方をする。
 なんだ、こいつ?――祥治はまた腹が立ってくる。
 待てよ。灯子から受け取ったパンティは、赤だ。ぬるっとした感触は、血ではな
いのか? 生理だから今日は駄目と、伝えたかったのではないか。
 いや、違う。指に着いたのは血じゃない――祥治はジャンパーのポケットに手を
入れ、もう一度パンティを握り締めてみる。その手を見てみると、血は着いていな
い。まだわからない。ポケットからパンティを取り出し、こっそり見る。「あって
はならないこと」の白抜き文字が、黄ばんでいる。血ではない。汚ねぇなぁと祥治
はまた思う。
「何やってんの?」
 灯子から訊かれ、慌ててパンティをポケットに入れる。
「なんでもねぇよ」
 俺は何をやってんだ?――今さらのように祥治は反省する。
「祥ちゃん、どこ住んでんの?」
「蛇沼」
「自宅? ていうか、親と一緒?」
「うん」
「なんだ。じゃあ、だめじゃん」
「何がだめなの?」
「だって、セックスできないじゃない」
 痛いところを突かれた。親と同居しているから、祥治には彼女が出来ない。家に
女を連れて帰ると、母親がお節介を焼く。一人暮らしをしたいと思うが、祥治の給
料ではアパートを借りる余裕がない。自動車教習所の費用も親から借りている。
「うち来る?」
 首を傾けて訊いた灯子が、唇をとがらせたままウインクする。
「行く」

 店を出たあと歩きはじめてすぐ、灯子が祥治の手を握った。「こういうの苦手な
んだよ」と祥治が言うと「恥ずかしいの?」と灯子が訊く。はじめは掌を交差させ
る形だったが、いつの間にか互いに指の間に相手の指を挟む形になり、冷たかった
灯子の掌が汗ばんだ。灯子のショートパンツの中が、祥治は気になって仕方がない。
 地下鉄に乗って席に腰を掛けると、灯子は祥治の手を自分の腿の上にのせた。
「キスしようか?」
 祥治の耳元で灯子が囁く。「だめだよ」と祥治が答え、ふふ、と声を漏らして灯
子が笑う。
「祥ちゃんは、かぶってる?」
「え? 何が?」
 灯子は祥治の股間に目をやり、同じ質問を繰り返す。
「皮、かぶってる?」
 包茎かどうかたずねているのだと気づいて、祥治はずっこけて座席から滑り落ち
そうになった。
「うちに行ったら確かめればいいじゃん」
 憮然として祥治は答えたが、いまのうちに言っておいたほうがいいかも知れない
と思い直した。性風俗店で、手術したほうがいいと言われたことがあった。垢が溜
まりやすく、病気になりやすいそうだ。
「剥けば剥けるけど、だめ?」
 ぷっと灯子が吹き出し、空いている手で口を塞いで、祥治の手を握っている手を
腿の上で弾ませながら、大笑いする。
「じゃあ、お姉さんが、剥いてあげる」
 吐息混じりの色っぽい声で灯子が言い、俺はやっぱりマザコンかも知れないと祥
治は思う。
「祥ちゃんも、カセイジンね」
 火星人? あぁ、仮性人か、巧いこと言うなぁと、祥治はまた感心しそうになる。
 こんな風に男と女が、人前で体を密着して、小声で話をしていると、誰かが不愉
快な思いをするのだ――罪悪感と優越感と警戒感が、いまの祥治にある。祥治も他
人の不幸を喜び、他人の幸福をねたむことがある。仲の良さを見せつけるカップル
を見ると、バカじゃねぇのと軽蔑してきた。いまの自分が誰かにそう思われている
のだと思うと、複雑な気分で落ち着かない。
 誰かを不快にするつもりで、灯子と手を握り合っているわけではない。いまの自
分にはエチケットやマナーより、灯子との関係が大切なのだ。
「あたし、オールマイティだから」
 独り言のように、意味がわかるようでわからないことを灯子が言う。経験豊富だ
と言いたいのか? そんなことは言われなくてもわかる。
「あのさぁ、訊いていい?」
「何?」
「たっちゃぶるってどういう意味?」
「あぁ、ほら、英語のタッチャブルが転じて、女がノーガードでボディタッチを許
して、男はエレクトしてて、立ってる男のアレを女がいますぐしゃぶりたいとか、
タブーを破りたいとか……まぁ簡単に言えば、お互いにスケベな気分になること?」
「あ、そう。え、いまの俺たち、たっちゃぶってる?」
「そうよ」
 そうか……祥治は納得した。直立不動の自分の前にしゃがむ灯子の姿が脳裏に浮
かぶ。
 祥治が黙っていると、灯子がハンドバッグから携帯電話を取り出し、画面を見な
がらボタンを押す。祥治は気にしない振りをした。
 灯子のマンションに着くまでに、柄の悪い男たちに絡まれることはなかった。

 灯子は五階建てマンションの四階にある2DKに住んでいた。
 ダイニングのソファーに腰を降ろし、落ち着かない気分で祥治は部屋の中を見回
す。灯子が二人分のコーヒーをテーブルに置き、祥治の隣に腰を降ろす。祥治が居
住いを正して背筋を伸ばし、灯子と少し距離を置く。灯子が寄って、腰を密着させ
る。
「灯子って、本名だったんだ」
 灯子が一階のポストから取り出した郵便物が、いまはテーブルの上に置いてある。
その宛名を見て祥治は言った。篠崎灯子。どこかで見た名前だと思ったが、どこで
見たか思い出せない。
「そうよ。源氏名だと思った?」
「いや……四股名だと思った」
 祥治の切り返しに灯子が吹き出す。
「ここ、家賃いくら?」
「七万。そのうち引っ越す」
「引っ越すの?」
「だって、祥ちゃんの部屋、用意しなくちゃ」
 祥治は手の指先で灯子の側頭部を小突く。「痛い」と言って灯子が笑う。
「嘘ばっか言って。それで何人の男を泣かせた?」
「泣かせた男はお父さんだけよ。他の男は怒るだけだもん」
「じゃあ、何人の男を怒らせた?」
「千人ぐらい?」
「大きく出たな」
「あら。控え目に見積もったのに」
「嘘つくな」
「万人の万人による万人のための灯子だから、あたし」
「なんだそりゃ」
「祥ちゃん、あたしの番人になって」
「うまい。灯子って頭いいな」
「あら。そんなこと言われたの初めて」
「灯子」
「はい?」
 祥治は灯子と目を見つめ合い、ふいに目を逸らす。冗談は終わりだ。喉仏を動か
して唾を飲み、気合いを入れて拳にぐっと力を込め、灯子の背中に腕を回そうとす
ると、甲高くて間抜けな音が鳴る。ソファーに置かれたハンドバッグの中にある、
灯子の携帯電話の着信メロディで、祥治が聴いたことのない曲だった。
 バッグから電話を取り出した灯子は、画面を見ただけで通話を切った。
「いいの、切っちゃって?」
「うん。大丈夫」
「それ何?」
「これ? 携帯。見る? 男の番号いっぱい入ってるよ」
「いいよ。じゃなくてさ。その着メロ、何?」
「あぁ、えぇ……なんだっけなぁ……夜霧のハウスマヌカン?」
「ふうん。知らない」
「祥ちゃんは、カラオケとか行かないの?」
「うーん、学校の飲み会とかで、付き合ったりするけど、俺はあんまり歌わない」
「学校? 祥ちゃん、学生だったの?」
「違う。俺、先生。専門学校の」
「そうなんだ。へぇ。じゃあ女子学生から、単位下さいって、色仕掛けで迫られた
りするんだ」
「そんなのねぇよ。大短はどうだか知んないけど、専門学校だし」
「ダイタン?」
「あぁ、大学・短大のこと」
「大短の子は大胆なの?」
 灯子の駄洒落を祥治はスルーする。
「わかんないけど。うちの子はみんな真面目だよ」
「真面目じゃない子もいるでしょ?」
「いるけど、そういうのはない」
「迫らないけど、祥ちゃんのこと好きな子はいるでしょ?」
「いないんじゃないかなぁ」
「祥ちゃんが気づかないだけよ。鈍感だから」
「俺って鈍感なの?」
「ここだけ敏感なんでしょ?」と言って灯子は祥治の股間に手を伸ばす。指先が触
れた。
「何すんだよ。やめろよ」
 ふふ、と灯子は声を出して笑い、口元にこぼれたよだれを手の甲で拭く仕草をす
る。祥治も灯子の胸に手を伸ばし、やり返そうとする。灯子は素速く腕で胸を隠し、
体の向きを変えてかわす。
 祥治は真顔で、灯子の目を見つめる。灯子も真顔になる。胸を隠した腕を降ろし
て、正面を向く。見つめ合う瞳の中に自分がいる。祥治の手が灯子の肩をつかみ、
灯子が身を硬くする。灯子の唇を凝視しながら、祥治はそこに接近する。灯子がゆ
っくり瞼を閉じて薄目になり、顎を上げる。鼻息と口臭を感じ合う距離まで近づい
て、灯子の手が祥治の体を押し返した。
「ごめん。ちょっと待って」
 灯子が居住いを正し、肩を上下させて深呼吸する。横目で祥治の顔を見て、照れ
笑いする。耳が赤い。「ちょっと待ってね」と灯子はまた言い、体の向きを変えて
祥治に背中を向ける。
「ミニスカの泉ピン子!」
 振り返った灯子がいきなり言う。祥治は何がなんだかわからない。灯子がまた背
中を向け、また振り返って言う。
「ミニスカの市原悦子!」
 あ……テニスのコスチューム姿の市原悦子が、祥治の脳裏に浮かんだ。祥治の黒
目が斜め上に動き、灯子はそれを見逃さない。
「はい、祥ちゃんの負け」
 勝ち誇ったように満面の笑みで灯子が言う。
「何これ? だるまさんがころんだ?」
「違う。ミニスカさんがころんだ。頭に絵が浮かんだら負け」
「勘弁してくれ。市原悦子、転んでパンツ丸見え? まいった」
「よかったじゃない。家政婦は見られた」
「見たくねぇよ」
 まいったなぁと祥治は思う。はぐらかされて、盛り上がった気分が一気に萎んだ。

 コンビニに行って来ると、灯子が突然言い出した。
「祥ちゃん、朝ご飯、何食べたい?」
「なんでもいいよ」
 答えた後で祥治は「朝ご飯?」と訊いた。
「何かないの? 食べたい物」
 そうか。祥治は独りで合点した。寝室での営みやら嬉し恥ずかしい朝やらを、自
分勝手に想像する。
「納豆の味噌汁食いたいな」
「納豆のお味噌汁? なめことお豆腐じゃだめ?」
 おめこ? もちろん「いいよ」
「それじゃ、パンじゃなくてご飯だね」
 灯子がソファーから立ち上がる。立ち上がった灯子のショートパンツの裾を、祥
治は指でつまんで引っ張って、灯子の顔を盗み見る。何してんの? と言わんばか
りの怖い目で、灯子に睨まれて指を離す。
 灯子はキャビネットの上にあったティッシュペーパーの箱を取り、テーブルの上
に置いた。
「あたしがいない間に、トイレでオナニーしていいよ。便器の外にこぼさないでね」
 返す言葉がなくて、祥治はとりあえず箱から紙を抜いて、鼻水をかんだ。ほんと
にやるぞ――そう言おうと思った時には、灯子は奥の部屋に消えていた。
 ティッシュペーパーの銘柄が、エリエールだ。あってはならないことがあり得る
あなたにエリエール? 広告コピーのような文句が祥治の頭に浮かぶ。
 ジャンパーのポケットからパンティを取り出し、匂いを嗅いでみる。いい匂いが
する。香水の匂いだ。何やってんだ? 俺は変態か? 祥治は自嘲し、ポケットの
中にパンティを戻す。
 部屋から出て来た灯子は、カットソーとプリーツスカートに着替えていた。玄関
で靴を履く灯子に祥治が訊く。
「パンツ穿いた?」
 真顔で振り返った灯子が、小悪魔の微笑を見せ、祥治に尻を向けたまま、両手で
スカートをめくり上げた。
 祥治はソファーから滑り落ちた。
 ノーパンで灯子は外に出た。

 灯子が外に出てから、祥治はソファーに仰向けに寝そべり、天井を見上げて物思
いに耽った。ひどく疲れていて、瞼を閉じるとそのまま眠りそうになる。
 不意に嫌な予感に襲われ、跳ね起きた。ソファーから立ち上がり、灯子を追いか
けることにした。
 玄関で靴を履こうとして引き返し、テーブルの上を確かめる。鍵がない。鍵を掛
けずに出るか、このまま待つか――しばらく迷った挙げ句、祥治も部屋を出た。
 外は既に暗い。こんな時間にノーパンで外出するなんて、非常識にも程がある。
暴漢に襲われたらどうするんだ?
 エレベーターで一階に降りて、マンションの外に出る。灯子の姿はない。駅から
ここに来る途中にコンビニエンスストアがあったことを思い出し、祥治は走った。
 坂を下って角を右に曲がり、その道をまっすぐ行くと大きな通りに出る。コンビ
ニエンスストアに入る灯子が見えた。
 店に近づいてみると、すぐ手前の雑誌の棚の向こうに灯子がいる。至近距離だ。
祥治は慌ててその場にしゃがんで身を隠す。何かを探す振りをしながら腰を屈めて
その場を離れ、レジカウンターの裏側に回る。ちょっと離れてまた店の中を覗くと、
灯子は雑誌を立ち読みしている。祥治は周囲を見回して、道路の向かい側に渡った。
自動販売機の陰に身を隠し、灯子が店から出て来るのを待つことにした。
 十五分ばかり経ってやっと灯子が店を出て来て、祥治は後を追いかけた。二十メ
ートルほど間隔を置いて歩きながら、どうやって灯子より先回りしようかと考えた。
 坂の途中で灯子が急に立ち止まり、振り返る。祥治はその場に立ちすくんだ。
「祥ちゃん? 何やってんの?」
 祥治は指で頭を掻きながら、灯子に近づく。
「やぁ。追いかけて来ちゃった」
「鍵は? 部屋、鍵かけた?」
「いや……早く、戻ったほうがいいかな? なんちゃって。へへ」
「何がへへよ。なんでお留守番してないの? 泥棒に入られたらどうすんの?」
「あ……だから、早く、戻ったほうが……」
「もう、バカ!」
 灯子が速足で歩き出す。
「だってさぁ、こんな時間にノーパンで外に出て、危ないでしょ?」
 灯子が急に立ち止まって振り返る。ぶつかりそうになった祥治はよろめきながら
後じさりした。
「だから追いかけて来たの?」
 祥治は頷く。
「バカじゃないの?」
 灯子がまた速足で歩き出す。祥治はしょんぼりしながら後を付いて行く。
 マンションに戻り、灯子に続いて祥治もエレベーターに乗る。扉が閉まり、動き
出すかと祥治が思えば、動き出さない。灯子がまだ階数ボタンを押していない。
 憮然とした灯子の顔を見て、祥治は四階のボタンを押そうとした。灯子の手がボ
タンを塞いで、祥治の指を遮る。
「祥ちゃん」
 灯子が真顔で祥治の目を見つめる。
「はい」
 何を言われるかと思い、祥治は身構えた。
 瞼を閉じた灯子の顔が、間近に迫る。口を塞がれた祥治は息苦しくて、気絶しそ
うになった。

 部屋に戻ると、泥棒が入った形跡はない。灯子は奥の部屋を確かめた。
「大丈夫?」
「うん。ここ、知らない人が入ると、すぐにわかるしね。セキュリティの会社から
連絡来るから」
「そうなんだ」
「祥ちゃんもチェックされてるわよ」
「あ、そう」
「夜這いに来る時は、事前に連絡ちょうだいね」
「はい」
 ヨバイ? 夜這いか……祥治は納得する。灯子が首を傾げてにっこり笑う。
「突っ立ってないで、座りなさいよ」
「はい」
 灯子に言われ、祥治はソファーに腰を降ろす。エレベーターの中で灯子に唇を奪
われ、魂を抜かれたような気がする。
 灯子がまた奥の部屋に引っ込む。祥治はジャンパーの内ポケットから煙草を抜い
て、口に咥え、ジャンパーを脱いでソファーに置き、百円ライターで煙草に火を点
ける。
 夜這いか……祥治はマンションの屋上からロープで降りる自分を想像し、灯子の
寝顔を想像し、薄目で顎を上げた灯子の顔を思い出し、瞼を閉じて間近に迫った灯
子の顔を思い出す。すっと立ち上がり、ズボンの腰回りを両手でつかんで引っ張り
上げる。そうしてズボンのファスナーの左側から右側に、ペニスのポジションを直
す。トランクスが濡れている。
 奥の部屋から灯子が出て来て、何やってんの? と言いたげな目で、立っている
祥治を見ながら「はい」と言い、片手でスカートをめくり上げた。白い布に覆われ
た灯子の股間を凝視しながら、祥治は唾を飲む。
「これでいいでしょ?」
「うん」と祥治は答えたものの、おかしいなぁと思って首をひねる。どうして外に
出る時にノーパンで、部屋に帰ってからパンツを穿くんだ?
「座ったら?」
 灯子に言われ、祥治はソファーに腰を降ろした。
 祥治の肩に腕を回しながら、灯子は祥治の膝に腰を降ろす。
 言葉を失った祥治は灯子の腰に手を回し、もう一方の手で灯子の膝に触れる。さ
っきまで感じなかった匂いが鼻を突く。腿を撫で上げた手をスカートの中に入れ、
探り当てた紐を指でつまんで引っ張ると、たやすくほどけた。
 祥治が灯子に顔を寄せると、灯子は人差し指の腹を祥治の唇に押し当てる。顔を
そむけて灰皿で煙を上げる煙草を見て、指でつまんで口に咥える。吸った煙を祥治
の耳に吹きかけ、フィルターに紅を付けた煙草を、祥治の口に咥えさせる。煙を吸
い込んだ祥治は、灯子の脚に触れた指で煙草をつまみ、天井を向いて煙を吐く。灯
子が祥治の手から煙草を取り上げ、灰皿で火を揉み消す。
「もうトークはおしまい。わたしと絡んで。わたしをいじって。わたしの下ネタに
突っ込んで」
 のけぞる灯子の背中を腕で支え、祥治は空いている手で、灯子の乳房をわしづか
みにした。

 ぷっと音を鳴らしておならを漏らした灯子が「祥ちゃんが笑わせるからお尻が吹
き出しちゃったじゃないのぉ」と言って、両手で顔を塞いだ時のことを思い出し、
にやけ笑いで相好を崩した祥治は、「先生」と呼び止められ、背中に人の掌を感じ、
振り返ると真希がいた。
「なんだ、佐藤か」
「どこ行くんですか? 学校、逆ですよ」
「今日は休みだよ。ゆうべ、徹マン」
「そうなんだ。あぁ、いつものメンツ? 先生、男子とばっか遊んでないで、うち
の店に来て下さいよぉ」
「お前、風俗やってんだっけ?」
「そうでーす」
「気をつけろよ。病気、流行ってんじゃないのか?」
「大丈夫ですよ。本番は絶対やんないし。先生には濃厚なサービスしてあげる」
「口で伝染るのもあるだろ。それに、お前、おっぱいないじゃん」
「えー、あたし、脱いだらすごいんですぅ。河村先生が一回来たけど、矢沢先生が
いい」
「あ、そうなの?」と祥治は浮かれそうになり、咳払いして自分を戒め「でもさぁ、
いくら風俗で、バイトだって言ってもさぁ、客を選ぶなよ。客を逆指名してどうす
んだよ。まぁ、とにかく気をつけろ」
「はーい。じゃあねー」と言って手を振りながら、祥治のほうを向いたまま後ろに
歩く真希の背中が、立ち止まって携帯電話を頬に当てていた女性の背中にぶつかる。
祥治は目を見開いて「あっ」と声を出しただけで、真希に注意しそこなった。
 ぶつかられた女性はよろめいて、携帯電話を頬に当てたまま真希を見る。「すい
ません。ごめんなさい」と頭を下げて謝る真希に、大丈夫、気にしないでと答える
代わりに、頭を下げる。
 祥治の顔を見て真希は肩をすくめ、舌先で上唇を舐めてウインクする。バカ、と
声を出さずに口の動きで、祥治は真希に注意して、ぶつかられた女性に頭を下げた。

   Chapter10.映子

 村山老人がついに亡くなったと、灯子から電話で聞かされ、告別式に参列するか
と訊かれたが、映子は行かないと答えた。棺に水着を納めたいので、老人と一緒に
入浴したメンバーから集めている――そう言われ、それなら自分の陰毛も一緒に納
めて欲しいと申し出て、明日の昼に灯子の事務所に行くと約束した。自分のお尻に
顔を押し付け、おならの臭いを嗅いだ老人が、水戸黄門のように豪快に笑った時の
顔を思い出し、映子の胸に可笑しさと切なさが込み上げた。
 ゆうべは夜九時まで残業だった。最後は支店長の岡田譲治と二人きりになり、映
子が着替えに入った更衣室に、コートを着て鞄を小脇に抱えた譲治が来た。
「お、すごいね。今日、デートだったんじゃないの?」
 映子の下着を見て譲治が言う。昨日の映子は乳首より上が透けて見えるブラジャ
ーと、Tバックを着け、ストッキングをガードルで止めていた。
「違いますよ。エッチのほうはずっとご無沙汰。支店長、どう?」
 そう言って映子は尻を突き出し、両手の指でパンティの腰布を引っ張り上げ、挑
発する。
「勘弁してくれ。もう、疲れたよ。最近、カミさん、機嫌わるいし」
「浮気ばれたんですか?」
「違う違う。息子の進路をめぐる嫁と姑の醜い争い」
「隼人君、来年から小学校でしたっけ?」
「そう。サッカーの強豪チームが近いからって、お袋がうちで預かるとか言い出し
てさぁ」
 スカートのホックを留め、ファスナーを上げた映子は笑い出す。
「お受験と変わんないですね。あたしも子ども欲しいなぁ」
「佐伯とは、どうなってんの?」
「祐介さん? よくわかんないですよ。けっこうイケメンだし、いい人なんですけ
どね」
「もうセックスした?」
「してない。サイン出しても気がつかないみたい」
「自分から迫ればいいじゃん」
「だって、あの人、真面目じゃないですか? こっちはそんなつもりじゃないのに、
セックスしたら重くなりそう」
 タートルのインナーウェアの上にVネックのセーターを着ながら映子は言い、両
手で後ろ髪を掻き上げる。
「あいつ、軽い乗りでセックスして、失敗したことあんだよ。前の会社、女で辞め
たんだから」
「そうなんですか? あたし的には、支店長がベストなんだけどなぁ」
 映子は譲治に歩み寄り、譲治の脇の下から鞄を抜いて長椅子の上に置き、譲治の
体に胸と下腹を押し付けて、背中に腕を回す。譲治もコートのポケットから抜いた
手を映子の背中に回し、スカートの上から尻を撫でる。譲治の目を見つめながら映
子は「キスして」と言い、瞼を閉じた映子の唇に譲治は軽く触れ、すぐに顔を離す。
「もっとちゃんとしてよぉ」と映子がディープキスをねだる。
「駄目だよ」と答えて譲治は映子の尻を強くつかむ。
「んー……フェラも駄目?」
「駄目だよ。疲れてるからさ。今日は勘弁してくれ」
「うぅん、ケチ」
「家に帰ってオナニーしろよ。俺が買ってやったローターとバイブ、まだあるだろ
?」
「電池切れてる。充電しなきゃ」
「飯行こうよ」
「どこ?」
「天丼食いてぇな。報告書、やっと書き上げたからさ。掻き揚げ食いたい」

(了)


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Text written by 火鳥冬星
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