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ネクロフィルハルモニア 
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「第3回うおのめ文学賞〈短編小説部門〉」受賞作品


 中央にガラスがはめ込まれたステンレスの扉が左右に開いた瞬間、まるで鼻を壁
にぶつけたような衝撃を受け、反射的に顔をそむけた。ナカタニが漏らしたうめき
声を聴きながらオレは、左の腕の内側で鼻と口をふさいでいた。鼻や口や目だけで
なく、全身の皮膚の細胞が拒絶反応を引き起こす、そんな感じがするほど強烈な悪
臭がその部屋から一気にあふれ出て、オレは扉に背を向け、手のひらで鼻と口をふ
さいで歯を食いしばり、消化器の内容物が一気に逆流する感じがして酸っぱい物が
喉元に突き上げ、たまらず扉の反対側の壁に手を突いて体を支え、嘔吐した。右目
の鼻の付け根からこぼれた涙が、鼻の脇を伝って鼻穴の横に貯まり、目の痛みと鼻
のくすぐったさを感じながらカプチーノ色の嘔吐物に落とした視線を、右のほうに
向けると、獣じみた声をあげるナカタニも背中を丸め、リノリウムの床にしゃがみ
込んで吐いていた。これまでにも強烈な悪臭を嗅いだことはある、たとえば大手ゼ
ネコンのJVが元請けだった建築工事現場の、半年ぐらい使われた仮設便所のにお
いとか、産業廃棄物処理場にたい積したゴミの山が、真夏にユンボで掘り返されて
立ち昇るときのにおいとか、そういう悪臭を嗅いだことはあった、だが、この部屋
のにおいはまるでレベルが違う。においの粒子がケタ違いに大きくて、気体ではな
く目に見えない固体として、こっちに向かってくる、そんな感じだ。横殴りの強風
に吹かれた雪のようで、このにおいの固まりに較べたらそれまでオレが嗅いだこと
のある最悪のにおいも、しょせん霧みたいなものだったと実感した。はね返された、
とオレは思い、意志という言葉が頭に浮かんだ。においに意志なんかあるわけない、
それでもオレにはそのにおいが人間、いや人間だけじゃない、どんな生物の立ち入
りも拒絶する、強い意志を持っている感じがした。においが壁のように自分の前に
立ちふさがる感覚は初めてだった。ガキの頃、雨の日に自転車に乗って新聞配達を
していて、強い逆風で大粒の雨に顔を叩かれ、新聞が濡れないようカゴをふさいだ
雨よけのビニールが、いくら戻してもめくれ上がり、新聞が雨で濡れる、そういう
ときオレは、神様は意地悪で、神様なんか大嫌いだと思った、そんな風に自分は無
力で弱いと思い知らされる強い力で、オレはそのにおいの壁にはね返されたような
気がした。
 サッカーの大きな試合で、シュートがことごとくゴール・ポストやクロス・バー
にはね返され、枠の中に入ってもキーパーが信じられないようなプレイでボールを
弾いたりセーヴしたり、いくらシュートを打ってもゴールが決まらない、そんなと
きのストライカーは、こんな心境かもしれない、そう考え、韓国のテジョンで行わ
れたワールドカップの一次予選で、ポルトガルが韓国に一対〇で負けて予選敗退が
決まった直後、フィーゴやルイコスタが見せた顔を思い出した。あの試合で前半に
ジョアンピントが、後半にベトが退場処分を受けて、ポルトガルが二人少なくなっ
た、そのすぐ後に韓国のパク・チソンがゴールを決めた。パクは胸でトラップした
ボールをポルトガル・ディフェンダーの背後で、右足で蹴り上げ、そのディフェン
ダーをかわすように二、三歩前進して左足を振り抜き、ボールが一直線にポルトガ
ル・キーパーの左脇とニアポストの間を抜けてゴールネットを揺らした、魔術のよ
うなシュートだった。あのゴールの映像は、セネガルのブバ・ディオップがスライ
ディングしながら左足で、キーパーが飛び出したゴールに蹴り上げたボールを、フ
ランスのプティが落胆したような顔で見送った映像や、ドイツのクローゼがサウジ
アラビア戦で見せた強烈なヘディング・シュートや、イングランドとスウェーデン
の試合でベッカムのコーナーキックをキャンベルが頭でゴールに叩き込んだ映像み
たいに、いまでもオレの脳裡に焼き付いている。引き分けなら韓国もポルトガルも
決勝トーナメントに進めた、それでも非情な勝利の女神は、冷淡にポルトガルを突
き放した。決勝トーナメントの韓国対スペイン戦がPK戦になってスペインの四人
目、ホアキンのPKを韓国キーパーのイ・ウンジェが左手で前に弾き、韓国五人目
のホン・ミョンボがスペイン・キーパー、カシーリャスの左にPKを決めた瞬間、
韓国には心臓が停まって死んだ人間がいたそうだが、そんなことを知らないオレは
テレビの前で、右の拳を天に突き上げ、テーハミングッ、テーハミングッと声をあ
げた。トルコとセネガルの試合でバシュトゥルクのヘッドに弾かれてセネガル・ゴ
ール右隅に転がるボールをセネガルのダフが、ものすごいスピードでゴール前に戻
りスライディングしてゴールライン寸前、左足を振り抜いてゴールの外にクリアし
た、まるで落下する生卵を地面すれすれでキャッチするようなものすごい反射神経
だった、こんなヤツがいたらいくらシュートを打ってもセネガル・ゴールを割れな
い、オレはそう思った、それでも確かあの試合は〇対〇で延長になって、延長の前
半だったか後半だったか忘れたが、日本との試合でエルギュンのコーナーキックに
ヘッドで合わせて決勝点を上げたウミットダバラ、あのモヒカン野郎が、右サイド
を駆け上がってクロスを上げ、ハカンシュキュルと交代したイルハンが、黄金の右
足でゴールを決めた、あのときオレは、六月だというのに気温が低かったから電源
を入れていたコタツから抜け出して立ち上がり、イルハンみたいに両腕を左右に広
げ、コタツの周囲を二周して右足の小指をコタツの足にぶつけて泣いた。強烈な悪
臭の壁にぶつかったオレの脳裡にワールドカップのゴールシーンが駆け巡り、こん
なにおいの壁なんか大したことねえ、ベッドであの女に自慢話を聞かせてやる、オ
レは意を強くした。ベッカムもジダンもロナウドも、自分にとって最高の女を喜ば
せるため、自分の前に立ちふさがる壁を何度も突破したのだ。

 扉の脇に立ったアラン二等兵に目をやると、オレとナカタニの醜態を予測してい
たのか、ライフルを背中にぶら下げたショルダーベルトに手をかけ、オレたちを無
視するように直立不動で正面を見据えている。外国人、特に黒人は、顔で年齢を判
断しにくいが、この屈強そうな兵士は二十代前半と思われる。フランス国籍で、視
力と射撃の能力にすぐれ、前線での戦闘で敵の襲来を待ち受ける際、高所からの狙
撃を担当する、ローランド少尉からアランについてそう説明を受けた。アランは扉
を開けたあと、オレとナカタニの反応を見てすぐ扉を閉めたのだろう、一瞬だけ見
えた部屋の中は、おそらく調理台に違いない、正面にステンレスの台があって、そ
の側面も床もおびただしい量の血で汚れ、扉から見えた限りでも五体以上は死体が
あった。なぜガスマスクを用意しない? 軍に対する憤りをオレは視線でアランに
ぶつけ、いくら睨んでも無駄だと気づいた。市街地での銃撃戦も山岳地帯でのゲリ
ラ戦も経験したこの兵士は、殺意や殺気に反応しても、怒りや悲しみに反応しない。

 神か悪魔が、この部屋にいる。陰陽師でも連れて来たほうがいいぜ、とオレは思
い、自分の思いつきが可笑しくて元気が出た。大丈夫だ、たとえ悪霊に取り憑かれ
ても、オレは発狂しない。
「おら行くぞ、仕事だ仕事」
 アランの知らない(とオレは思い込んでいた)日本語で、オレはそう言い、床に
うずくまるナカタニの作業服の襟を手でつかんでナカタニを立たせ、振り返るとす
でに再び扉が開かれていた。

   ★ ★ ★

 オレとナカタニは労務者のエージェントからここに手配された。三年前エージェ
ントに登録するまでオレは、コンピューター会社の営業だった。オレがいた会社に勤
める男たちは目に輝きがなく、仕事中は寡黙だが仕事帰りに酒を飲むと、他人の肩
を馴れ馴れしくさわって汚いツバと臭いにおいを口から吐き出しながら、うっとう
しいほどよくしゃべり、会社の経営者や上司や政治家や家族について愚痴と悪口を
撒き散らす、オカマやホモみたいな連中ばかりだった。オレは、自分はオカマだと
かホモだとかはっきりアピールして他人の侮蔑に耐えているヤツは嫌いじゃない、
だが、スーツで擬装したオカマやホモは一人残らず死ねばいいと思っている。ここ
の悪臭は日本で開発された最新のテクノロジーでろ過され、環境に悪影響を与えな
い配慮がなされている、ローランド少尉はそう言っていたが、スーツで擬装したオ
カマやホモが酒を飲んで吐き出す息は、地球環境を破壊する。自分が地球から嫌わ
れている、そういう自覚のない連中と付き合って神経がおかしくなりそうだったか
ら、オレはコンピューター会社を辞めた、というのは自己正当化で、本当は女に裏
切られてオレは会社をクビになった。経理の裕子に新しい男が出来て、オレが会社
の金を使い込んできたことを、裕子は部長に密告したのだ。あれほどオレと結婚し
たがっていた裕子が、オレがプロポーズしたとき、一瞬だけ喜んですぐに表情を取
りつくろった、あのとき既に裕子は、オレを見限って新しい男に乗り換えようと決
めていたのだ。
「悪く思わないでね」
 最後の夜を過ごして迎えた朝、別れ際に裕子が、いまにも泣き出しそうに歪んで
引きつった笑顔で言った。裕子は泣き顔や怒った顔を他人に見せない。ビジネスの
世界では、泣こうがわめこうが人も金も動かない。
「お前、バチがあたるぞ」
「あんたもね」
 そんな言葉を交わして、オレは裕子に背を向けた。まるでテレビドラマの別れの
シーンみたいで、オレってかっこいいなと自惚れたが、オレの人生でかっこよかっ
たのはそのときだけだ。

 オレとナカタニが登録しているエージェントは、コンピューター業界の後始末み
たいな仕事を引き受けている。エージェントに登録しているスタッフは男だけで、
二十代が圧倒的に多く、十代と三十代もいるが四十代以上はいない、三十六歳のオ
レが最年長だ。エージェントのスタッフはコンピューター業界のオカマやホモから
忌み嫌われるような、下品で野蛮で口が悪く、目つきの鋭い野郎どもだが、攻撃さ
れない限り他人に危害を加えることはない。
 エージェントの組織はフィランソロピー、つまり無償の社会奉仕活動として、繁
華街のゴミ拾いやピンク・チラシの撤去を行っている。スタッフは煙草を吸うとき、
煙や灰や吸い殻が他人に害を及ぼさないよう周囲に注意を払い、喫煙の習慣がある
ほとんどのスタッフは携帯の吸い殻入れを所持している。規則や教育と称して、組
織がスタッフに何かを強要することはない、リーダー格のスタッフが、模範的な行
動を繰り返し見せるだけで、新しく登録したスタッフはしだいに自主的にそれを見
習うようになる。他人の迷惑を考えない行動を取るスタッフは孤立して、エージェ
ントの事務所に来なくなるし、連絡も取らなくなる。緊張を持続しながら可能な限
り無理と無駄を省くことを意識して、ふつうに仕事していれば、誰も文句を言わな
い。
 エージェントの最高責任者は、完璧と言っていいほど顔がきれいな三十二歳の女
で、美人はただでさえ男を緊張させるのに、オレたちのボスは事務所勤務のスタッ
フに対しても登録スタッフに対しても、怠惰と弛緩を許さない。言葉使いや性格が
きついわけではなく、穏やかで慈愛に満ちた笑顔と、自信に満ちた毅然とした態度
で、甘えや他力本願をたしなめる。一年以上続けたスタッフはみな、まるで女王陛
下のようにボスを敬愛している。エージェントの本社はオレたちのボスに、組織の
決定権を全面的に委任し、ボスが会社から受け取るサラリーの大部分はコミッショ
ン、つまり成功報酬だ。組織の営業成績がボスの就任前より下回れば、ボスの年収
はおそらく、週三十時間スーパーマーケットでレジを打つパートタイマーより下回
る。オレやナカタニのように、八千人の登録スタッフから選抜された三十人のエリ
ート・スタッフも、最低限のサラリーは保証されているが、作業の成果に応じて月
ごとに支給されるコミッションのほうが、収入のウエイトが高い。エリート・スタ
ッフには、勤務時間内に仕事をサボったり、だらだら動いたりする者は一人もいな
い、休憩時間以外はみな、作業への集中を持続する。
 就任したばかりの頃のボスは、二週間ごとにエリート・スタッフを召集し、ミー
ティングを行った。就任して二年が経過した現在では、ほとんどミーティングが行
われない、現在のボスはミーティングではなく、個々のスタッフと二人きりで、一
対一で話し合うことが多い。トルコのイルハンみたいに長い髪を後頭部でゴムで束
ねているオレはボスから、髪の色が黒いと重苦しいから脱色したほうがいいとか、
オレの態度には年下のスタッフを見下す傾向があるが、目線の高さを意識的に年下
と合わせるほうがいいとか、そんなことを言われ、ボスの指摘は的確だった。ボス
はいまではオレたちを信頼していて、エリートのスタッフについて顧客から苦情や
叱責を受けたとき、誰を手配しようがその顧客は苦情や叱責を訴える、そう判断し、
オレたちを責めたり非難したりすることはない。前例のない問題が生じた場合は、
事務所勤務スタッフが速やかに、エリート現場スタッフに伝達し、現場サイドの経
験に基づいた分析を聴取する。
 今回の任務、そう、作業や仕事や労働より任務という言葉がふさわしい、この任
務をボスから直接打診されたとき、最後までやり遂げたら一晩付き合ってもいいわ
よ、そんなことをボスから言われ、オレの陰茎がエレクトした。掌を合わせた両手
を股の間に挿んで、前屈みのポーズで、エレクトしたことをオレが伝えるとボスは、
あどけない顔で笑った。ボスはスタッフに微笑や冷笑や憫笑を見せることはあった
が、目の間と目尻に皺を寄せて手のひらで口をふさいで、破顔一笑という感じの無
邪気な笑顔をオレに見せたのはこのときが初めてで、オレはちょっと驚いた。ひと
しきり笑ったあとボスの顔が、悲しさや寂しさや憐れみが入り混じった複雑な表情
になってその顔で、これまで引き受けたどの仕事より困難な仕事なのだとオレは覚
った。よろしくね、と言ってボスは目を逸らし、引きつった顔をオレの目からそむ
けた。オレは片手を頭の脇に上げ、まっすぐ伸ばした四本の指でこめかみを差す、
軍隊式の敬礼をして、了解、と答え、この女のためなら死んでもいい、そう思った
がすぐに劇画の「愛と誠」で、岩清水弘という名の虚弱体質の秀才中学生が、早乙
女愛のためなら死ねる、とかなんとか言って無謀なことをやる話を思い出して、冗
談じゃねえ、まだ一発もやってねえ女のために誰が死ぬか、そう考え直した。

   ★ ★ ★

 どんなに条件が悪くても機敏な動作で、確実かつ迅速に仕事を処理してきたオレ
とナカタニも、今回の作業にはさすがに気分が滅入った。人間の腐乱死体二十三体
を処理する現場で、オレたちはとりあえずエムバーマー、死体修復担当官から、現
場の清掃を指示された。
 ここはいまもマスコミが大騒ぎしている大量殺人事件の、バラバラ死体が発見さ
れた現場で、私服警察官に護衛されて建物に入るとき、オレたちもカメラのフラッ
シュを浴びた。建物に入るときはオレとナカタニもスーツを着用していたから、記
者やカメラマンはオレたちも私服警官だと思っただろう。いい気分を味わいながら
建物に入り、作業服に着替える間にオレの自意識が敏腕刑事から貧乏労務者に落ち
ぶれた。何が〈職業に貴賎はない〉だバカヤロウ、なんて思ってると着替える途中
のナカタニが、尾崎豊の「シェリー」のサビのメロディをハミングしはじめ、オレ
とナカタニの気持ちは一つになった。シェリー、いつになればオレは這い上がれる
だろう?
「たぶん、無理だな。オレたちは這い上がれねえ」
「え? なんすか?」
 オレが不用意に声を出して漏らした独り言に、ナカタニが反応した。なんでもね
えよ、とオレは吐き捨てるように答え、ナカタニが鼻を鳴らして笑った。こいつは
シャイでナイーヴでピュアでイノセントで素直で不器用で、二十代半ばにしては珍
しく自分から進んで苦労を引き受ける男で、ジダンみたいに頭頂部の髪が薄い。自
分から進んで苦労を引き受けるんだから、世間に顔向けできないような疚しい過去
があるに違いない、オレがそうだ。ジダンが世間に知られなかったら、ナカタニは
頭髪の薄さを恥じて親と世間を恨み、いやなヤツになっていたに違いない。恥の文
化がある国で生まれていたら、ジダンはスーパースターになれなかったに違いない。
世間体や恥の文化は、個性と才能をスポイルして、劣等感や怨恨というマイナスの
エネルギーで行動を起こす人間を繁殖する。基本的にオレたちは、他人の機嫌を窺
わない。恥を掻くことを恐れないし、他人の恥を侮蔑したり、嘲笑したりすること
もない。本当のことを言われて機嫌を損ねる人間は、了見が狭い小心者で、単にそ
いつの器量が小さいのだ。オレたちは、自分に非があれば素直に認めて詫びるが、
会社の社長だろうが現場監督だろうが職長だろうが年上だろうが、自分が尊敬でき
ない人間には頭を下げない。傲慢な態度で失敗して痛い目を見ると、卑屈な態度に
変わる人間もいるが、オレたちは傲慢でも卑屈でもない、ここまでは知っているが
これ以上は知らない、そういう風に自分自身の無知と知の境界を自覚する、それが
大切だとミーティングで、ボスから何度も繰り返し諭された。オレたちが納得でき
るように、筋の通った説明を出来る人間は尊敬される。オレたちには、恫喝も泣き
落としも通用しない。納得できないと口論するわけではなく、実力もないのに立場
を利用して、服従を強いるようなヤツをオレたちはシカトする、それでも自分の高
圧的な態度を改めようとしない鈍いオヤジが腐るほどいる。会社員や職人の世界で
はまだ、無知で愚鈍な目下の者を庇護しようとする悪しきパターナリズム、父権的
温情主義が支配的で、組織経営のトップにいる連中がどんなに立派でも、中間管理
職みたいな連中にバカが多すぎるのだ。一人で外国で生活するとか、引きこもりに
なるとか、一度くらいは組織的な人間関係から孤立しないと、個人や自立という概
念は手に入らない。
 この大量殺人事件の実行犯として、五人の老婆が逮捕された。五人のクソババア
がマシンガンをぶっ放して二十三人もの人間を殺し、死体をバラバラに切断したの
だ。銃を撃つぐらいの力がババアにあっても不思議はない、だが、チェーンソーも
使わずノコギリと中華包丁だけで二十三体の死体を切断するには、相当の体力が必
要だ。昔ビデオで、タイトルは忘れたが、女が男の腐乱死体を愛撫したあと死体を
バラバラに切断するアンダーグラウンド映画を観たことがある。人体を解体するの
は重労働で、刃物に脂が付着したり刃先が欠けたりして、いちいち刃物を洗ったり
研いだりしないといけないから、かなり時間がかかるはずだ。映画の中で女は、死
体の背骨と腰骨のつなぎ目あたりにバールを突っ込んで、杭打ちに使うようなデカ
いハンマーでバールをぶっ叩いて、無理やり背骨と腰骨を切断するような、手荒な
ことをやっていた。オレやナカタニのように肉体労働を続けている男だって、二日
や三日で終わる仕事じゃない、それを五人の老婆がたった十時間で終わらせたとい
う。被害者の遺族が悲しみに暮れ、顔にボカシを入れられた人間が加害者への怒り
を訴える、おなじみの光景がテレビの画面に映し出され、バラバラになった遺体を
実際に見たオレには、被害者やその遺族に対する同情や憐れみより、七十歳を過ぎ
た五人のババアがこれだけのことをやったという事実への驚きのほうが強かった。
どんなに元気なババアでも七十歳を過ぎると昼間は庭の草を取り、夜はコタツに足
を入れて横になってテレビを見ながら、ときどき、いや何度も、臭い屁を漏らし、
一緒に生活する人間はひょっとしたら死んだんじゃないかと心配になって寝ている
ババアの寝息を確かめる、若くて元気な人間を衰弱させるようなひどく悲しい声で、
寝言を漏らしたり仏壇に向かって念仏を唱えたり、意識がはっきりしていれば泣き
言や恨み言ばかり身近な者に聞かせる、孤独で寂しいから誰かと話をしたいが何も
話題がないので、話し相手が見つかると、具合が悪い具合が悪い、自分はこんなに
具合が悪いのに誰もわかってくれない、誰もわかってくれない、誰もわかってくれ
ないと、自分を憐れみ嘆くばかりで、不景気な世の中で他人の泣き言なんか誰も聞
きたくないから話し相手がどんどん減って、さらに孤独になる、ババアという生き
物はそんなものだとオレは思っていた、人間を殺せるほどの体力なんか絶対にない
と思っていた、だから現場の惨状をこの目で見て、実行犯は違うとオレは思った。
国際テロリストが裏で糸を引いている、五人の老婆は即効性の強力な精力剤を静脈
に注入された、と、まことしやかな噂が流れ、建物の外は日本の機動隊が警備に当
たっているが、三カ所ある現場の出入り口は国連軍兵士がガードしている。新宿の
ビルが二カ月前に爆破されたばかりだから、何があっても不思議はない、それでも
国連軍兵士の姿を実際に見て、オレはめまいがしそうだった。いくらなんでも大げ
さだ。事件の捜査も、表向きは日本の警察がインターポールに協力を仰いだ形にな
っている、しかし実際は、国連の調査官が指揮を取っているらしい。こんな大きな
事件の現場にどうして民間人、それも専門的な知識も技術も資格も何もないオレと
ナカタニが手配されるのか、オレにはまったく理解できない。事件の真相を知って
いるのは首相官邸ぐらいで、あと二十年ぐらい経たないと、本当のことは庶民に知
らされないし、その頃は誰もこの事件に関心を持っていないのだ。
「ヤバイっすよ。逃げたほうがよくないっすか?」
 作業を始めて三日目の夜、ナカタニがオレに不安を漏らした。二十三体のバラバ
ラ死体の、胴体、頭部、腕、脚など主だった部位と、衣類、アクセサリー、所持品
などは初日のうちに、事件現場から同じ建物の別室に移されたが、肉片や骨片、メ
ガネや腕時計など装身具の破片が、部屋中に散乱していた。エムバーマーはそうい
う細かい物まで一つ残らず集めて、限りなく完全に近い状態になるまで、バラバラ
死体を元通りに修復するそうだ。血まみれの床に這いつくばって、落ちたコンタク
トレンズを探すような気の遠くなる作業を、オレたちは指示された。床の清掃で汚
水を吸い取るバキュームで、破片を集めたほうが早いんじゃないか、オレは現場の
指揮を取るエガワ教授に提案したが、通常はそうだが今回は特別なんだ、面倒な仕
事を頼んで申し訳ない、がんばってくれ、とエガワ教授から励まされた。エガワ教
授の顔を初めて見たとき、オレは奥歯を噛み締め下を向き、笑いをこらえた。テレ
ビタレントの稲川淳二にそっくりだった。稲川淳二本人の顔を見てもたぶん笑わな
いと思うが、稲川淳二にそっくりな人間の顔を見るとなぜか笑ってしまう。オレと
ナカタニはただ破片を探すだけで、発見しても破片に触れてはいけない、発見した
らオレたちと同じく破片を探す白衣姿の五人の誰かに、速やかに報告すること、そ
う厳命された。黒いビニール袋も渡され、嘔吐するときはその中に吐くか、部屋の
外に出て吐け、とも言われた。白衣の連中は休まず作業を続けるが、オレたちには
一時間ごとに五分の休憩が許された。初日と二日目はオレもナカタニも一食も喉を
通らず、三日目の昼にやっと、バナナとヨーグルトを食べた。オレとナカタニは建
物の外に出ることが許されない。事件現場は地下一階で、オレたちは三階の一室に
宿泊している。ドアの外にはライフルを担いだ兵士がいる、それでも逃げようと思
えば逃げられないこともない、トイレでスーツに着替えて警備の兵士にIDカード
を見せれば、いくらでも外に出られる。
 逃げたきゃ逃げろよ、オレはナカタニに答え、ペイシェント、とボスから教えら
れた、まじないの言葉が頭に浮かんだ。辞書的には辛抱しろとか我慢しろという意
味だが、どちらかと言うと、冷静になれ、落ち着け、というニュアンスだ。ムカつ
いたりキレそうになったりするとき、オレはその言葉を思い出す。ボスから意味を
教えられたわけではない、現場でいやな事があって事務所に行くオレの機嫌がわる
いと、ボスがその言葉を使うから、英和辞典で調べたのだ。辛抱とか我慢とか日本
語で言われると反感を覚えるが、英語で言われるとなぜか素直に受け入れる。
 オレたちのエージェントでは、現場から逃げてもとがめられることはないし、減
給や謹慎などの処分が下されるわけでもない、ただ逃げたヤツの代わりに誰かが手
配され、逃げたヤツはプライドが傷つき、自己嫌悪に陥る。自分のプライドを守る
ため、オレたちは気合いを入れ、いかなる不快感にも立ち向かい、ペイシェントみ
たいなまじないの言葉を自分に言い聞かせ、根性を養う。
「なんか匂うんすよねえ」
 首をひねりながら言うナカタニに、匂うなんてもんじゃねえだろ、と答えながら
オレは腕のにおいを嗅いでみせた。何も匂わない、それでも、いくらシャワーで洗
い落としても、自分の体に染みついた死臭が消えないような気がする。初日の作業
を終えてオレが部屋を出るとアランが顔をそむけ、手のひらで鼻と口をふさいだ。
抱きついてキスしてやろうかとオレは思ったが、やめた。こんな体でボスに会った
ら、ボスは抱かれるのをいやがるだろう、それでもボスは、約束を絶対に破らない。

   ★ ★ ★

 五日目からオレとナカタニは別々の班に分けられ、死体の修復作業を手伝うこと
になった。しつこいようだがオレとナカタニには医療の専門的な知識も技術も資格
もない、だからオレは、こんな作業をオレたちが手伝っていいのだろうかと疑問に
思った。人手不足なのだろうか? 確かに新宿のビル爆破事件で四千人以上の死傷
者が出たという話だから、医療関係者の多くがそっちに動員されていることはわか
る、死体の修復より負傷者の治療のほうが優先だ、それでもこういう仕事は大学の
医学部の学生にでもやらせたほうがいいんじゃないか? そういえばオレたちのエ
ージェントに登録しているスタッフにも、土木工学科や建築学科の学生がいて、そ
ういうヤツらに限って建築現場の基礎工事とか荷揚げとかきつい作業を避け、事務
所移転や引っ越しなど楽な作業を希望する。学生はよけいなことに好奇心を示して
よけいなことをやって作業を遅らせるかもしれない、修復なのに解剖をやるバカが
いるかもしれない、ナントカ博士の説によると、とかなんとか言い始めてエムバー
マーのやり方にケチをつけるかもしれない、生半可な知識があるクソ生意気なガキ
より、何も知らない人間を使ったほうが、作業が円滑に進むかもしれない、そうい
うことはよくある、そう考え、オレは自分を納得させた。兵士が銃を担いでいる場
所では、本を読んで頭に詰め込んだ理屈や能書きは通用しないのだ。
 応接室か談話室に使われていたのだろう、隅に鉢植えの観葉植物が置かれた四十
平米ほどの小さな部屋の中央に、学校の運動会で使われるような粗末な長テーブル
が二つ、密着して並べられ、白い布で覆われ、その上に首から上と両腕がない女の
遺体が置かれ、オレを含めて四人の男がテーブルの周りを囲んでいる。遺体はある
程度整形されているが皮膚はひどい色だし、ババアがこの女に何度も刃物を突き刺
したのか、胴体も下半身も縫合だらけだ。ここは死体の腐臭より防腐剤や香料やホ
ルマリンのにおいがきつくて、はじめてここに入ったときオレは頭痛と吐き気に襲
われ、死臭よりひどいにおいだと思った。死臭は鼻や口を圧迫する感じだったが、
薬品のにおいは鼻の奥に突き刺さる。死体の修復は病院の手術室で行われると思っ
ていたのに、こんな場所でやるなんて、国連軍兵士がライフルを担いで警備してい
る割にずいぶんいいかげんだ。腐敗の進行を防ぐせいかテーブルの四隅の脇にボン
ベが置かれ、ボンベの口から伸びたパイプの先端の、メガホン状の噴出口から冷気
が噴き出し、ゴム手袋の下に軍手をはめていても遺体に触れると冷たさが、痛みと
して手に感じられる。オレも緑色の手術服とキャップ、マスク、ゴム手袋の着用を
命じられ、自意識が貧乏労務者から外科医に成り上がったオレは、オウサカ教授の
隣に立ち、三人の医師の指示に従って手術の道具を手渡し、香料やホルマリン・パ
ウダーを遺体に擦り込む。人間の死体に触れるのはさすがにいやな気分で、やはり
こういう仕事は専門家がやるべきだと思った。屠殺される牛や豚と変わりない、そ
う思い込むことにした。異常なことをやっているのにリラックスした雰囲気で、テ
レビドラマの手術シーンで見るような緊張感はない。オウサカ教授は親切に、手術
で使う道具の名称や、人間の身体の部位の名称を教えてくれて、手塚治虫の「ブラ
ックジャック」をオレは思い出した。あの漫画に出て来る病名はみな特殊で、手塚
治虫の医療の知識はかなりいいかげんだと、オウサカ教授は笑いながら言った。オ
レの背後には水槽があり、その中で遺体の頭部と、肩から指先まである右腕と、左
腕の肘から手首までの部分、それに左手が、ホルマリン漬けになっている。納棺の
とき胴体はミイラみたいに包帯を巻いて覆い尽くすが、首から上と手だけはきれい
に整形する、日本ではだいたい死体は火葬されるから、エムバーミングはあまり必
要とされない、せいぜい看護婦が濡れた布巾で死体の汚れを拭き取って、口の中に
綿を詰めるとか、葬儀屋が棺桶の中にドライアイスを入れるとか、一般的にはその
程度だ、欧米ではエムバーマーはステイタスが高い、オウサカ教授からそう聞かさ
れ、日本ではどうでもいい仕事だからオレたちみたいな素人が手伝っても、許され
るのかもしれないとオレは思った。胴体を包帯で巻くなら、肉片とか骨片とか臓器
の破片とか、あんなに苦労して探さなくてもいいじゃねえかよ、とオレは不服に思
ったが黙っていた。こんなことやらなくてもいいじゃねえかと思うのは、毎度のこ
とだ。
 どうしてオレたちみたいな素人が、こんな医療行為を手伝わされるんですか? 
休憩時間にオレは思い切って、オウサカ教授に訊いてみた。教授はマスクをはずし
て鼻から息を漏らし、疲れて、呆れて、何かを諦めたときのような弱々しい微苦笑
を顔に浮かべ、首を左右に振って答えた。
「どうしてだろうね。ワタシにもわからない。通常なら考えられない、ただ」教授
は眉間に深い縦じわを寄せオレの目から視線を逸らし、ゴム手袋を手から抜き始め
た。「異常な事態が、この国で進行している」
 異常な事態? いったい何が? オレは知りたくなったが、教授は笑いながらオ
レの肩を手で叩き「心配するな、大したことじゃないよ」と言ってオレに背を向け、
部屋の出口に向かった。
 新宿のビル爆破事件も、五人の老婆が二十三人を殺害したこの事件も、十分に異
常だ。これからまだ何かが起きるのか? 心配するなと言われると、ものすごく心
配だ。

   ★ ★ ★

 現場に手配されて二週間が経過し、最後までやれそうだと確信した。人間はどん
な環境にも慣れるし、いやな仕事というものはない。逃げたくなるほどいやな現場
というのは、そこにいる人間がいやな人間なのだ。ここにはいやな人間がいない。
いやな人間がいないというより、いいとかいやだとか、そんな感覚が消えるのだ。
ただ、生きている者と死んだ物という区別があるだけで、個性とか人格とか個体差
が意識から消えてしまう。死体と向き合っている間の自意識は、オレではなく、我
々だ。我々は遺体を修復する、我々は作業を開始する、我々は死者の冥福を祈る、
そんな感じだ。自己顕示欲とか自己主張は、外国人とか殺人鬼とかわかりやすい他
者が存在しない、均質で平面的な共同体で発生する、ここには死者という他者がい
る。死体は、大学教授だろうが兵士だろうが労務者だろうが、ただの生き物だと実
感させる。生命は尊いとか、殺された人間が可哀相だとか、そういう道徳観や感情
とは違うレベルで、たとえば炎を見たらそれに手を触れないことと同じくらいシン
プルに、身体のメカニズムが死を拒んで生命を欲求する。生きている人間が傍にい
なかったらオレは、ヘラヘラ笑いながら、部屋の中にある物を手当たりしだいに集
め、積み木みたいな事をやってたんじゃないかと思う。こうして死体と向き合って
いたら、どんなに人間関係をウザイと思ってるヤツも、人間を好きになるだろう、
そう思った。
 死体の修復が進むに連れ、死体への愛着がオレに湧いてきた。フェティシズムっ
てヤツだろうか? ガキの頃、図工の時間に手間と時間をかけて本立てを作ったと
きの感覚だ。夢だか幻覚だか心霊現象だかわからないが、眠ったあと夜中に何度か
女の幽霊みたいなヤツが現れた。最初は驚いたが、オレたちを怖がらせるとか驚か
せるとかいう感じではなく、何かぞっとするようなことを言うわけでもなく、ただ
現れて、オレの体の上に乗って、オレの顔をじっと見る、それだけだった。どうせ
金縛りで体が動かないし、何も出来ないという諦めもあったが、その頃のオレは作
業中、女の死体に香料やホルマリン・パウダーを擦り込むときスケベなことを考え
るようになっていて、こうやって魂の抜け殻になった体を魂の承諾もなくオレの汚
い手で勝手にマッサージしたら、セクシャル・ハラスメントに霊魂が怒って、夜中
に化けて出て来るかもしれない、そう考えていたので、その、夢か幻覚か幽霊かわ
からない女が現れたとき、やっぱり出て来た、ごめんなさい、仕事なんです、きれ
いに体を修復しますから許して下さいよと、心の中で女に平謝りして、その女の目
が人形みたいに大きくてタレントの平山綾を思い出したから、ヒラヤマアヤにヒラ
アヤマリ、と語呂合わせの下らないダジャレを思いついた。どういうわけかオレに
は、パニックになりそうな非常事態に遭遇すると、場の空気がヒマラヤ並みの寒さ
になるほど下らないことを思いつく癖があって、夢か幻覚か幽霊かわからないその
女もあまりの下らなさに呆れるのか、消えてくれる。不気味で、気味がわるいこと
はわるいが、たとえ幽霊でも自分の体の上に女、それも目の大きさだけは平山綾に
似ている小ジャレた、プリティ・ファッショナブルな女が乗っていると思うと、性
腺が刺激され、実際にオレは一度だけ夢精した。三十六歳という年齢で夢精したこ
とがオレには恥ずかしくもあり、誇らしくもあった。
 オレとナカタニはそうして夢だか幻覚だか幽霊だかわからない存在とも親しくな
ったが、アラン二等兵とも親しくなった。言葉を交わしたことは一度もない、目を
合わせるだけで意思が通じる。朝、死体修復の作業場に入るとき、アランはオレの
冴えない顔を見てニヤリと笑い、顔をそむける。クソ意地の悪い野郎だ。作業を始
めてしまえばいやな気分は消えるが、朝、作業場に入るときはいつも、ひどく憂鬱
な気分になる。
 オレとナカタニは班は違うが、昼食は一緒にとる。一階の調理場で、パートタイ
ムのおばさんたちが料理を作ってくれる。もともとこの建物は、かつては一階と地
下一階がコンビニエンスストアの総菜や弁当を作る工場だった。メシはタダだしメ
ニューは豊富だし、服や髪に染み付いた薬品のにおいさえなければ、最高の食事だ。
 昼休みにメシを食ったあと、オレはナカタニを連れてアランの所に行った。日本
とフランスの友好関係を深めるため、からかってやろうと思ったのだ。オレたちが
メシを食っているときもアランは、ライフルを担いで作業場の入り口に立っている、
時間をずらして昼食をとるらしい。
「ヘイ、アラン」と声を掛けてオレはナカタニを指差し「ヒー・イズ・ジダン、ア
イム・プティ、ユー・ノウ?」と英語で言ってみた。ナカタニは頭髪が薄いし、オ
レは長髪を後頭部で、ゴムで束ねている。
 フランス国籍の黒人兵士は呆れたような顔で、目を閉じて首を二度ほど横に振り、
何も言わず作業場の中に消えた。くだらないジョークにがっかりしたのだろうか? 
フランス人だからといって、ジダンやプティを知っているとは限らない。ひょっと
したらアランはサッカーが嫌いなのかもしれない。
「やっぱ、はずしたじゃないすか。カトリさんのギャグ、寒いんすよ」と生意気な
ことを言うナカタニに「うるせえ、このハゲ、フランス人はプライドが高いから日
本人をバカにしとるだけじゃ」と答えながら、フランス代表チームが一点も得点で
きずに予選リーグで敗退した去年のワールドカップを思い出した。去年の今頃はに
わかサッカー・ファンが日本に急増し、あの熱狂と喧騒に嫌気が差してサッカー嫌
いになったヤツもいた。騒ぐ連中を嫌うならともかく、サッカーを嫌いになるのは
お門違いだが〈坊主憎けりゃ袈裟まで憎い〉ってヤツだろう。熱くなっている連中
には冷ややかな視線と水を差すような言葉が必要だし、やかましい連中に対しては
誰かが〈うるさい〉と言うべきだ。みんなで騒いで、みんなで熱くなって、みんな
で浮かれて、みんなで盛り上がって、さあこの一体感をみんなで楽しみましょう、
とかなんとか社員旅行の宴会レベルの知的水準で、雰囲気を楽しむだけのアホな連
中がいて、たかがサッカーの試合なのにナショナリズムだのファシズムだの大げさ
なことを言い出す連中がいて、オレは人が大勢集まる場所が嫌いだから、という理
由もあるが本当はチケットを買う金がなかったから、テレビで試合を観戦した。コ
ンピューター会社に勤めていた頃、日本人から行儀の良さが失われた、なんて嘆く
ヤツがいたが、日本のサポーターは世界中の人間に行儀の良さを示した。行儀の悪
さまで世界標準にならなくていいのだ。世界を知らないままこの国でしか通用しな
いシステムに適応したサラリーマンが、変化に適応できないから、年寄りみたいに
嘆くのだ。ワールドカップの期間中も、インドとパキスタンとか、イスラエルとパ
レスチナとか、ワールドカップに出場できなかった国同士の武力衝突が起きた。女
たちは戦争やサッカーがなくても強くて元気でいられるが、攻撃的な本能を戦争で
消費することを禁じられた男たちは、サッカーと格闘技とギャンブルがないと、セ
ックスで女を喜ばせることが面倒くさくなるくらい、元気がなくなるのだ。世界中
のどんな国でも、自分の国の言語や文化や思想を守るためバイタリティを消耗する
のは男で、女と子どもは自分の欲望に正直だから、経済大国と軍事大国とサッカー
強国の言語と文化と思想を欲望する、五十八年前の戦争で日本がアメリカに勝って
いたら、アメリカ大陸にたこ焼きやお好み焼きやギョーザのチェーン店が進出して
たのに、日本がアメリカに負けたから日本がハンバーガーの店だらけになって、英
会話スクールだらけになって、どいつもこいつもウインドウズとかマッキントッシ
ュとかアメリカのブランド品を欲しがって、パソコン・スクールだらけになった。
他国の言語や文化や思想というのは、そういう形で入って来て、国家がそれを排除
しようとすれば、麻薬で外貨を稼いで軍備を増強するしかない、などと支離滅裂に
大げさなことを考えていたら、作業場からアランが出て来た。
 ヘルメットを脱いだ黒人の顔に、赤いビニールテープが貼られている。目の下と
眉毛の上に、横にテープが貼られ、目と目の間に縦に細長く、X型にテープが貼ら
れている。その顔を見た瞬間、アランが愛のあるユニークでユーモラスな親日サッ
カー・ファンであることを理解した。いつも肩からぶら下がっているライフルがな
い。
「アイム・ミヤモート」
 アランはそう言って、親指を立てた右手の拳を突き出し、真っ白な歯を剥き出し
てにっこり笑った。オレはこめかみの血管が膨らむのを感じながら眉間に縦じわを
寄せ、奥歯を噛み締めながら力いっぱい笑ってやって、首を縦に振って柄の悪い声
で「ウイ、ムッシュゥ、オーケー、オーケー、ユー・アー・ミヤモト」なんて言い
ながら、アランと同じように親指を立てた右手の拳を突き出した。宮本のフェイス
ガードは黒だ、赤じゃ韓国のキム・テヨンじゃねえかよ、と思ったが、細かいこと
にケチを付けないことにした。オレの人生は泣き笑いではなく、怒り笑いばっかり
だ。
「なんか、サッカーやりたいっすね」
 呆れたようにオレとアランの顔を見ていたナカタニが言い出し、「そうだね、な
んかボールの代りになる物ねえかな」とオレはナカタニに答え、アランと肩を組み
「レッツ・プレイ・サッカー、ルック・フォー・ホワット・インステッド・オヴ・
サッカーボール」「オ、ナァイス、グッダイディイア」なんて言葉を交わしながら
作業場の中に入り、サッカーボールの代用品を探した。
 三人じゃサッカーにならないが、リフティングなら出来る。
 ライフルは無造作に、修復中の死体の上に載っていた。アランのヘルメットでい
いか、そう思ったが実際に手に持ってみると、軍用のヘルメットは思いのほか重く、
こんな物を使ったら足も頭も痛くなると思った。もっとやわらかい物がいい、ほか
にないだろうかと部屋中を見渡して、ちょうどいい物が見つかった。

 水槽の中でホルマリン漬けになっている、スキンヘッドの男の頭部に、オレの視
線は釘付けになった。

(了)


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Text written by 火鳥冬星
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