
勝手に死んだバッタ [Novels Menu]
1 喧嘩
パンティかショーツかという問題で、また大上君と喧嘩した。
大上正章君は、有限会社魚眼出版の代表取締役社長で、公称発行部数十万部(実
売部数八万部)の隔月刊雑誌『桃色魚眼』の編集長でもある。起業にあたり、会社
社長としても雑誌編集長としてもあるまじき、いかがわしい商売で銭儲けした男で、
十年前から大上君を知っている俺は、税務署と警視庁に知られると大上君が困る、
その秘密を、事細かに把握しているものだから、駄文や悪文の原稿を無理やり、大
上君に買わせている。
俺の原稿は大上君から、これまで何度もダメ出しされてきて、その度に〈言論・
表現の自由〉と〈雑誌の品格〉をめぐり議論してきた。今回は女子の下着の呼び方
について、大上君から「そろそろパンティをやめてショーツにしろよ」と言われ、
俺はムカついたのだ。
俺のほうが年上だし、俺に秘密を握られているから、大上君は二年ほど前まで、
俺に敬語を使っていた。しかし、悠長に構えていられないほど締め切りに追われ、
ケツをまくりっぱなしだった頃から、立場や年齢の上下関係をお水の花道に捨て、
大上君も遠慮なく率直に、俺に物を言うようになり、いまでは互いにタメ口だ。寝
不足のハイテンションでイタリアンな気分になり、「ディアモーチ・デル・トゥ(タ
メ口で話そうぜ)」と、俺が言ったそうだ。記憶にない。
同じ女に惚れた男同士は、親の血を引く兄弟より絆が強い――という説もあるが、
そんなことはどうでもいい。
俺のペンネームは香取犬助――なのだが、やたらめったらすぐ怒るものだから、
『桃色魚眼』編集部で俺は、「熱血カトちゃん」とあだ名を付けられ、さらに「カ
トリ」ではなく「イカリ」と呼ばれるようになった。土建業のアルバイトで職人気
質が入った俺は、物が所定の位置より十分の一ミリずれているだけでも、ムカつく、
神経質で几帳面な性格だ。誤字・脱字やら国語教科書の文法を踏み外した文章やら
には、いささかやかましい。さらに写植会社の版下デザイナーによる惹句(じゃっ
く)の配置が、ピッチ単位でずれているとか、製版会社から上がった色校正で、Y
色が指定と十パーセント違うとか、そんな細かい事にもうるさい。
そんな俺にもサービス精神があって、笑かそう笑かそうと一所懸命に努力してい
るつもりだが、なかなか理解されない。俺の担当編集者(なぜか三カ月ごとに交代)
に原稿を見せると、大爆笑するはずの部分で、まるで請求書でも見るような、険し
い顔をする。
「イカリさん、ちょっとふざけ過ぎちゃいますぅ? ウケ狙ってんのわかりますけ
ど、ツボ外してまっせぇ」と、編集部のナウいヤングから言われるまでもなく、読
者からの人気投票アンケートで、俺のページはワースト記録更新中だ。大上君の愛
娘(まなむすめ)の美唯(みい)ちゃんから「イカちゃん、おっぺけぺー」とバカにさ
れ、今に見てろよ一発逆転と、俺は闘志を燃やしている。
『桃色魚眼』は、性別不問の青年および成年を読者として想定した、グラビア中心
お色気雑誌であるにも関わらず、なぜか「魚眼文学賞」なる賞を主催している。俺
は大上君を脅して選考委員に居座り、言いたい放題のことを言う。簡単に言うと、
憂さ晴らしだ。香取の選考、すなわちカトリセンコウは、煙たいものだと決まって
いる。どうせ才能がある奴は、賞の選考委員から何を言われようと、自分の道を切
り拓くものだ。
それはともかく、俺はパンティが好きなのだ。パンティでなければダメなのだ。
ショーツだと、何やら美唯ちゃんのパンツみたいに、股上が深く、腰布の幅が広い
感じがする。俺は、ナニゲにナニゲがはみ出てないかしらぁなどと、更衣室や化粧
室で、あるいは階段を上がるとき、女子が気になって仕方ないほど、表面積の狭い
下着にこだわる。なんというか、単なる言葉の違いでも、パンティとショーツでは
気合いの入り方が異なる。取材対象への肉迫というか、食い込み具合が異なるのだ。
取材対象にとっては、パンティが食い込むと痛いだろうし、恥ずかしいだろうが、
日本国民の十中八九は、他人の苦痛や恥が好きなのだ。いくら大上君からダメ出し
されても、俺のこだわりは譲れない。
俺も譲らないが、ヤバイ橋を渡ってきただけに、大上君も根性が据わっている。
入社三年目で『桃色魚眼』のメイン・グラビアを担当している朗独本太(ろうど
く・ぼんた)君に、
「大上君は昔、自殺願望と自傷癖があるマゾヒストの女を、セックスの最中に首を
絞めて殺し、事故死に見せかけて、保険金をふんだくったんだ」
と、俺が冗談を言うと、朗独君は顔を引きつらせ、声を顰(ひそ)めて「本当です
か?」と訊いた。大上君と三年間も付き合ってきた朗独君が、そういう冗談を真に
受けるくらい、大上君も只者ではないオーラを振り撒いている。物腰や言葉は穏や
かだが、ヤクザ者のような鋭い目付きを時おり見せる。
若くて気の弱いアルバイトの女の子が、ビビって大上君を避けるようになったこ
とがあり、大上君はいま度のないダテ眼鏡を掛けている。その眼鏡が歌手兼俳優の
大江千里の眼鏡に似ているので、俺は「大上千里眼」と命名してやった。
「お前、足臭いんだよ」と俺が言えば「あんた、口臭いよ」と大上君が答え、「耳
毛を剃れ」と俺が言えば「鼻毛伸びてるよ」と大上君が答え、そうして俺はまた、
しばらく干されることになった。
イカちゃん干されて、スルメちゃんだ。おっぺけぺー。
2 リヴとラヴ
かように俺の性格がねじ曲がり、世間様から疎まれるようになった原因は、ひと
えに、妻の奈芽子から、家庭で虐げられてきたことによる、鬱積にある。
すなわち俺は、公益に資すべき印刷媒体に、駄文・悪文を寄稿することで、夫婦
生活の欝憤を晴らしているのだ。ペラ原稿(二十字詰め十行の原稿用紙)一枚当た
りの原稿料が、二百三十円という、出血大サービスの駆け出しライターだった頃、
俺は先輩新聞記者から「紙は神と民をつなぐ公器だ」と、柔道耳になるほど諭され
た。公器も今では性器を公開する婦女子とともに、爆発的に増え、性器も公器も判
別できない時代になった――ものだから、この国の八百万(やおよろず)の神様の中
でも、スケベの神様は偉大だなぁと納得し、スケベの神様がいる国に生まれてよか
った――と、言いたいところだが、そのスケベが災いして、俺は伴侶の選び方を間
違えたのだ。
女という生き物は、後先の事を考えずにやっちゃって、そのやっちゃい方も、手
加減を知らないものだから、困るし怖いし、可愛いし。言いたい放題は男なら、痛
い包帯になりかねないぞ。DVDだかBVDだかがどうのこうの、と、世間が神経
を尖らすものだから、どこの家庭もカカア天下で、大人の男は居場所がない――と、
こうして苦肉の策というか皮肉の策で、DVすなわちドメスティック・ヴァイオレ
ンスをネタにしたボケの類を、一所懸命にひねり出し、男はつらいよと婉曲的に訴
えても、奈芽子の女郎、鼻を鳴らして、冷笑しやがる。
これからの時代、ボケには冷淡なリアクションでなく、料理番組的に大げさなリ
アクションか、素速い突っ込み、またはノリ突っ込みが望ましい――と、俺が口す
っぱく言っても、奈芽子の女郎、馬耳東風のふてぶてしい態度で、味豆腐のスクラ
ンブル・エッグを淡々と作る。高齢化と国際化が進むと、社会はボケ社会になるの
だ。『さんまのからくりテレビ』を見ればわかるだろ? ゆえに、マジでボケかま
す老人と在日外国人に、冷たくしてはいけないよ――と、啓蒙するため、俺は身を
もってボケかまし、来たるべきボケ社会を睨んだシミュレーションを誘導するが、
この奈芽子という愚鈍な妻、旦那のヴィジョンを理解しやがらぬ。
「あんたにはあんたの道理があるでしょうけど、あたしにはあたしの道理があって、
あたしの道理があんたの無理なら、無理を通して道理を引っ込めなさいよ!」
と、松嶋菜々子ばりの毅然とした態度で、奈芽子が一気にまくし立てるものだか
ら、俺は寝室を出て、リヴィングのソファーでふて寝だ。マクラーレンのF1マシ
ンがプリントされた枕カバーにキスをして、「ユミちゃんラヴィング・ユー」と呟
き、スナックゆかりの気立てのいい娘に、テレパシーで想いを伝える。
ユミちゃんは、いろんな人と話をするのが好きだからぁ、という単純な理由で、
水商売をやっている――と、本人が言っていたが、他の店ならもっと稼げそうなの
に、スナックゆかりで働いているのだから、どうやらその言葉は本当らしい。四十
歳になる前に自分の店を持ちたい、だから、高価なブランド品も買わずに、地道に
コツコツお金を貯めている――と、俺に語った。
「どんな店をやりたいの?」
俺がたずねると、「何がいいですかねぇ?」と、逆に質問された。その時の俺は、
どう答えればいいかわからなかった。
リヴとラヴの両立は難しく、リヴべき時もラヴべき時もどうしたこうした、とい
う教会での誓いは、二年ももたず、八百万の神様に八百万裂きにされ、リヴべきか
ラヴべきか、それが問題だ――とかなんとかハムレったりして、夜明けだ。寝不足
と欲求不満で機嫌が悪いまま仕事をやるから、俺の仕事は評判が悪い。
3 カラオケ
思うに、昭和の時代には、作文を世間一般に公開するのは、プロの仕事と決まっ
ていた。しかし、インターネットが普及してから、素人もお気軽に、作文を世間に
披露できるようになった。
言うなれば、インターネットという公器、読文好きが嵩(こう)じて作文好きに転
じた者にとって、歌好きのカラオケみたいなものだ。
カラオケというのは、歌ってる当人ばかりが自分の歌に酔い、それに付き合う連
中は、聴いてる振りをしながらよその方に意識を向け、ひたすら自分の出番を待つ
――と、大方はそういうものだが、どんな世界にもプロ顔負けの素人がいて、イン
ターネットの作文にも、すごい物がある。
マライア・キャリーだのホイットニー・ヒューストンだの、矢井田瞳だの矢井田
瞳だの矢井田瞳だの、と、ビッグ・ネームの例を挙げるまでもなく、プロの歌手は
歌うことで、自分が心地よさを味わいつつ、他人の耳も心地よくするものだ――と、
この、自分が心地よく、しかも他人の耳も心地よくする歌、というのは、声量や音
程の確かさも無関係ではなかろうが、それが決定的な要因とは思われぬ。石川さゆ
りや岩崎宏美も立派だが、俺はどちらかと言えば、森高千里やhitomiの歌が
好きだ。
などと言うと、奈芽子の女郎、顔だの脚線美だの、歌に関係ないところに惚れた
のだろうと、下衆根性まる出しで勘繰りやがり、その指摘はもちろん正しい。しか
し俺は、ヴィジュアルを見なくても、CDを聴くだけでウットリし、時が経つのを
ウッカリ忘れる。だから、やはり歌声に惚れるのだと思う。が、歌詞だのリズムだ
のサウンドだの、歌声以外の要素に惚れた、とも考えられ、結局、人がなぜ他人の
歌に惚れるのか、分析などせずウットリするだけの俺には、よくわからん。
つまるところ、聴き手が歌い手に抱く感情は、恋ないしは憧れであり、理屈では
割り切れぬもので、歌う阿呆に聴く阿呆、同じ阿呆なら歌わにゃソングソング――
てんで、俺はなんとなく気が合う奴と腐れ縁になり、カラオケに行く。
カラオケはいい。カラオケは歌方の夢だ。自分の歌に酔う歌い手を、冷めた眼差
しで見るシニカル人――というのもいるが、そういう野暮な人の目に構わず、恥も
外聞もなく歌の世界にどっぷり浸かる――と、そんな人がいい。歌いながらぼろぼ
ろ涙を流したり、拳を突き上げて額から汗を流したり――と、そんな大げさなパフ
ォーマンスを見せるほど、思い入れたっぷりの歌がいい。ええいああ、と、もらい
泣きする聴き手は、尚更いい。
てんで、忘れもしない四年前、俺がまだ自由業の個人事業主でなく、会社員だっ
た頃、仕事で付き合っていた腐れ縁の連中六人ほどとカラオケに行き、椎名林檎の
『ここでキスして。』を見事な歌いっぷりで歌う奈芽子が、くねくね腰を振り、あ
ろうことかスカートを捲り上げ、パンティの上から手で股間をさすり、さらにパン
ティの中に手を入れて、もぞもぞ動かし、パンティから抜いた手の中指、それが抜
き差しならぬほど本気の、飾りじゃないのよ涙は、アッハァ、とでも訴えるような、
お情けというかオナ酒というか、困ってしまう液でしとどに濡れ、その濡れた中指
を俺の目の前に突き出して――あたしはあなたの前では顔で泣かないけど、お股は
すっかり泣きじゃくり、シド・ヴィシャスっぽくアナーキーなあなたには、夏色ナ
ンシーのあたしがお似合い、アハン手錠かけちゃうわ、すっとこどっこい――と、
思い入れたっぷりの熱唱で、キス・ミー・ワンサゲンと締めくくるものだから、俺
は成り行きで感情移入と精力移入を強いられ、さらに不退転の決意まで強いられ、
不可逆的に、奈芽子と他人でなくなった。
かつては俺も小説家を目指し、会社の連中に内緒で、こっそりこそこそ、しっか
りしこしこ、小説を書き、文学賞に応募していた。賞に落選して落ち込んでいる時、
奈芽子に原稿を読まれてしまい、「スゴイわスゴイわ、あなた才能あるわ、天才よ、
ブラボー、ハラショー、トレビアン」と慰められ、励まされた。あれがいけない。
奈芽子にそそのかされ、調子に乗って、プロの作文家になろうと本気になって、俺
は人生のレールを踏み間違えたのだ。あぁ、会社員を続けていれば、金策に苦労す
ることもなく、もっとまともな女と幸せな家庭を築いていたに違いない。
勢いに押され、奈芽子と入籍したあと、実は奈芽子は、そうしてカラオケで男を
引っかけ、食いまくる女で、そろそろ一人の男に落ち着きたがっていたのだと、仕
事仲間から聞かされた。どうやら仕事仲間も、奈芽子を俺に押し付けようと、画策
していたらしい。
俺は見事にはめられた、というわけだ。
4 カネコとゲロゾー
「あたしは犬か猫の生まれ変わりなんだけど、どっちだと思う?」
俺と奈芽子が同棲を始め、リヴとラヴがまだ分裂しなかった頃、奈芽子からそん
なことを訊かれた。その頃の奈芽子は、ハングルで犬は「ケ」と呼ばれるから、と
いう理由で、俺を「ケースケ」と呼んでいた。
奈芽子は小学生の頃、犬か猫を飼いたいと、両親に何度もせがんだが、母親の真
知さんが許さなかったと言う。奈芽子が中学生になってから、真知さんはやっと重
い口を開き、ペットを飼いたくない理由を奈芽子に話した。
中学校で毎年恒例の行事になっていたイナゴ取りから、奈芽子が家に帰った後、
風月堂のお菓子を食べながら、真知さんは忘れたくても忘れられない嫌な思い出を、
奈芽子に聞かせた。その日は村から見える山の頂が、厚い雲に隠れていたと、奈芽
子は言う。
「イナゴとぶ 村山雲に 秘められし わが前世の あはれやいかに」
中学生の奈芽子が、そんな歌を詠んだそうだ。俺は散文クッキングは得意だが、
奈芽子のような詩情や歌心はない。だからたまには、奈芽子に嫉妬することもある。
一九六九年、奈芽子は生まれた。その前年まで奈芽子の実家には、カネコという
名の猫と、ゲロゾーという名の犬が飼われていた。
土砂降りの雨の夜、「Bar」という名の酒場の前の国道で、カネコが車に轢か
れて死んだ。その翌日、犬のゲロゾーも、銀杏の悪臭が漂う公園で、死体になって
見つかった。ゲロゾーはジャングルジムに鎖でつながれ、全身傷だらけで、頭蓋骨
が割られ、肋骨や足の骨も折られていた。近所の悪ガキの仕業だと噂されたが、ゲ
ロゾーを殺した犯人は、結局見つからなかった。
カネコとゲロゾーが死んだ十カ月後、奈芽子が生まれた。
母親の真知さんから、カネコとゲロゾーの話を聞かされ、その日から奈芽子は毎
晩、嫌な夢を見るようになった。真知さんはあまりにも話し上手で、その話にあま
りにもリアリティがありすぎて、カネコとゲロゾーの無惨な死に様を奈芽子に想像
させるのに、十分すぎた。
奈芽子は同じクラスの夕青飯夫(ゆうあお・いいお)君に、悩みを相談した。飯夫
君との交換日記に、カネコとゲロゾーの話を書いた。
「ハングルの漢字語を勉強しないか? そういう残酷な出来事を知った時は、古典
語を勉強するといいんだんよ。お天道さまは古典道さまだって、ウチの汚点父さん
がいつも言ってる」
飯夫君は奈芽子に、そうアドバイスした。
「ケワ・コヤンギガ・チュゴッソヨ(犬と猫が死にました)」と書けるほど、ハン
グルをマスターした頃、奈芽子はやっと嫌な夢を見なくなり、自分はカネコかゲロ
ゾーの生まれ変わりだと、信じるようになった。
「犬と猫のあいの子だな」
犬か猫かと訊く奈芽子に、俺はそう答えた。
5 昇華
「イカリさん、本当は才能あるのに、つまんないことにこだわるから、才能が錆び
ついたって、編集長が言ってましたよ」
スナックゆかりでユミちゃんが『恋人はサンタクロース』を歌っている時、朗独
君からそう言われた。
「昔は主役を張れる器だったのに、自分で可能性を狭めて、今では憎まれ役しか頼
めないって。自分と喧嘩するエネルギーがあるなら、それを文学に昇華すればいい
のにって」
昇華? 大上君の好きそうな言葉だな。俺は昇華よりユミちゃんの歌唱が好きだ
けどな――そう答えると、朗独君は笑わずに、呆れたように溜め息をついた。
「峰虫男(みねむしお)さんみたいに、雑誌の埋め草記事は本を出すための営業活動
だって、割り切ったらいいじゃないですか。腰を据えて、本になるような作品、書
いて下さいよ」
生意気なこと言うんじゃねぇ、俺はただの売文屋だ、誰が本なんか出すか――そ
う思ったが、その言葉を水割りと一緒に飲み下した。
歌い終わったユミちゃんが、よろけて床に尻餅をつき、スカートの中の下着が見
えた。
純白のショーツだった。
6 事件
もとより俺は、都の西北・早稲田の隣で、魂を吹き込まれたものだから、福沢諭
吉の肖像画を、早急に財布から排除してしまう傾向がある。
地方出身者の俺は、粋(いき)で鯔背(いなせ)な江戸っ子に化けようと企て、火事
と喧嘩は江戸の華、とか、宵越しの銭を持たねぇ、とか、進取の精神で江戸っ子気
質を取り込んだ。この気質が、北京から日本に来てキャバクラで働き、チャイナド
レスでお酌するヤンヤンから「ランニィ・プォフェイ・ラ(散財させてしまいまし
た)」と言われ、「ケンチャナァ(大丈夫だぁ)」とハングルで答えるような、国
際的に太っ腹の見栄っ張りキャラに発展した。
どうも国際化ってヤツは、大統領の独裁化と、女房の悪妻化と、売文屋の悪才化
を促すようだ――などと、仕事で干されると干しガキ頭で、俺は考える。
それはともかく、銭は天下の回り物、などと思って楽観していた俺は、『桃色魚
眼』に干され、百円単位で家計をやり繰りする生活になっても、大上君がまたいつ
ものように、喧嘩のほとぼりが冷めたら俺に、原稿を依頼するだろう、心配ねぇよ、
わっはっは――と多寡を括り、鷹揚に構えていた。
デザイン事務所に勤める奈芽子も、しっかりお見通しだ。俺に仕事がない時は、
自分が家事をやらなくていいものだから、心配するどころか、生き生きした顔を見
せやがる。
ところが、とんでもない事件が起きた。
『桃色魚眼』の看板ライターと言っていい香川ダムド氏の原稿が、名誉毀損で訴え
られた。
なんでもダムド氏が、実在の人物をモデルにした小説の連載を始め、そのモデル
が風評被害を受け、失業して自殺したという。モデルの人は、小説のモデルになれ
ばモテるだろうと、楽観していたらしい。が、世間の受け止め方は、モデルの人や
ダムド氏の展望と正反対だった――らしい。
俺もその、問題の原稿を読んでみたが、なんで世間の人たちが騒ぐのか、よくわ
からん。俺の原稿のほうがよほど公序良俗に反し、悪意に満ちてるぞ。何ゆえ世間
の人たちは、ダムド氏の原稿で騒ぎ、俺の原稿で騒がん? 俺の作文がダムド氏の
作文より読まれてないからか? なるほど。
で、自殺したモデルの遺族と、大上編集長&ダムド氏の話し合いで、訴訟は和解
で解決した。
ダムド氏は若い頃、妹と二人で建設会社を経営し、何度も修羅場をかいくぐって
きた。地元建設業組合の談合を裏切り、橋の建設工事を請け負った、という逸話も
ある。交渉もお手のものだ。
ダムド氏はこの業界で、ある事ない事いろいろ言われてきたが、ダムド氏に関し
ては俺にも、忘れようとしても忘れられない思い出がある。
魚眼出版がアルファビア出版と軟式野球の試合をやった時、俺とダムド氏がバッ
テリーを組んだ。同点で迎えた最終回、二死満塁の大ピンチ。キャッチャーのダム
ド氏がマウンド上の俺に駈け寄った。
「フォークを投げろ」
そう言ってダムド氏は、ユニフォームのズボンに手を入れ、股間をまさぐり、食
器のフォークを取り出して、俺に手渡した。
「え? これ、投げるんすか?」
さすがの俺も驚いた。いくら俺が大リーグボール3号(つまり、蝶が止まるよう
な超スローボール)しか投げられなくて、アルファビア出版のセーフティバント作
戦にヘトヘトに疲れ、絶体絶命のピンチに立たされているからと言って、食器のフ
ォークなんか投げたら、さすがに相手が怒るだろぉ、プロレスじゃないんだからさ
ぁ――そんな風に訝(いぶか)ると、
「ランナーは関係ない、気にするな。次の一球だ」
ダムド氏には、逡巡のカケラも見られない。いつものように頼もしい笑顔で頷き
ながら、力強く言った。そりゃランナーは関係ないけどさぁ、バッターも審判もビ
ビるだろぉ――と、納得がいかない俺に構わず、ポジションに戻ったダムド氏は、
爽やかな笑顔で審判とバッターに一礼し、ホームベースの向こうで構えた。
あろうことか、バッターの内角にミットを構える。
もぉ、どうなっても知らねぇぞ……ヤケクソになりながらも――食器のフォーク
なんかさすがにバッターのところまで届かねぇよな、ホームベースの手前あたりで
落ちて、ボークでゲームセット、フォークを投げてボークがオチとは、こりゃ一本
取られた、はっはっは……と両チームで笑い合い、ビールで乾杯、という筋書きか
? そうかそうか、ダムドのおっさん、どうせ試合は勝てないと諦めたから、せめ
て笑いを取ろうという魂胆か――そう考え、俺は自分を納得させた。
そういうことなら、派手なパフォーマンスでオチに花を添えよう――と、俺は余
計なことを考えた。それまで軟式ボールをアンダースローで投げていたが、最後は
野茂英雄の投球フォームの物真似を、披露してやる。
グラブの中で、ボールの代わりにフォークを握り、目を閉じて、トルネード投法
で、思いきり、投げた。
刺さった。バッターの尻に――
ダムド氏はそんな人だから、いつか刺されるだろうと思っていた。が、刺されて
もピンチを切り抜ける策士だから、大丈夫だろう――そう俺は楽観し、案の定、法
廷での争いは回避された。訴訟は和解で解決したと、ライターの角(すみ)ジョージ
氏から電話で聞き、俺も胸を撫で下ろした。
モデルの自殺に関しても、ジョージ氏から詳しい事情を聞いた。どうやらダムド
氏の小説が自殺の原因ではなく、もともと自殺を考えていたモデルが、ダムド氏か
ら取材を申し込まれ、ダムド氏に遺書を代筆させたらしい。ダムド氏はそうとは知
らずに、遺書を代筆させられたのだ。
風評被害を受けたという遺族の訴えも、事実ではなく、モデルの突然の自殺で混
乱した遺族の、思い込みに過ぎなかった――らしい。大上編集長&ダムド氏と遺族
の話し合いが始まったあと、自殺したモデルの日記が見つかり、遺族も気づかなか
ったモデルの異常な精神状態が、明らかになった。
訴訟は和解で済んだが、それ以上に不可解で深刻な事態が起きた。
どういうわけか『桃色魚眼』の売り上げが、信じられないほど落ちた。実売部数
八万部だった雑誌が、一万部も売れない――という、出版界の常識を覆す、前代未
聞の事態が起きた。
ダムド氏のモデル小説問題について、テレビや新聞で派手に報道された、という
わけではないし、インターネットでも話題にされていない。不買運動が起きたわけ
でもない。政治家や他の出版社が、何か裏工作を行った、あるいは圧力をかけた、
とも考えられない。原因不明のまま発行部数の八割以上が返本され、製紙会社に送
られた。
当然のごとく『桃色魚眼』は廃刊。魚眼出版は返済の見通しが立たない負債を抱
えることになった。
「大変なことになりましたよ、イカリさん」
「ねぇちょっと、イカちゃん、聞いた?」
「イ、イカリさん、ヤバイっすよ。どうします?」
知り合いのライターから、一斉に電話がかかって来た。俺はイカリじゃねぇよ、
カトリだよ――と言いたくなったが、そんなつまらないことで怒っている場合では
ない。
『桃色魚眼』編集部には、いくら電話をかけてもつながらず、編集部に駆けつけて
みると、すでにモヌケのカラだった。大上君や編集スタッフの自宅に電話しても、
どれもこれも留守番録音のメッセージだ。
それでもどうにか、編集部でバイトを始めて三カ月のオラサバル趙ハナ子と連絡
が取れた。ハナ子の説明で、大上君はじめ編集部のスタッフと、ライターの一部が、
まとまって精神病院に入院したことがわかった。どこの病院に入院したか、ハナ子
に訊いてみると、
「知らないよぉ、知ってるわけないじゃん。それより、あたしぃ、今月のバイト代
もらってないんでぇ、援助してくんない? フェラはゴム付きイチで、ナマならイ
チゴー、アナルはぁ……」
あぁなるほどぉ……って、誰がおめえに金を払うか、バカヤロー! いつかどこ
かで会ったら、おめえをノイローゼにして、精神病院に入院させるぞ、このクソガ
キ!――と、罵りの言葉を呑み込んで、問答無用で通話を切った。
大上君や編集スタッフと、ダムド氏はじめ消息不明のライターの家に電話してみ
たが、何度かけてもつながらない。大上君のカミさんの圭さんや、娘の美唯ちゃん
が気になり、編集スタッフ七人の一人一人の顔が頭に浮かんだ。
お前ら、一体どこにいる? 誰か連絡をよこせ、バカヤロー。
そんな風にイライラしながら、二日を過ごした。ビジネスの勧誘電話や営業・宣
伝の電話が来ると、怒鳴りつけて受話器を叩きつけ、夜中には電話を抱きながら眠
った。奈芽子が何度かリヴィングに顔を出し、俺の顔を覗いては、何も言わずにド
アを締めた。
そうこうするうち、他人の心配をしている場合ではないと気がついた。『桃色魚
眼』が廃刊になると、俺は食い扶持を失う――実際に廃刊になってから、やっと気
がついた。
7 笑う犬の退散
二年前までと同じように、また土建業のアルバイトをやろうかと考えたが、そう
考えた途端、すっかり体力が落ちたことに気がついた。新聞の求人欄や求人情報誌
に目を通しても、だいたい年齢制限で引っかかり、そうでなくても条件が厳しい。
俺が持ってる資格と言えば、ワープロ検定3級で、そんな物では役に立たん。普通
自動車免許もない。
福島とか愛知とか、遠隔地の仕事なら、俺にも出来そうだった。が、過去に、そ
ういう出張の仕事で、ひどい目に遭ったことがある。記憶にあるからトラウマとは
言えないが、思い返すと、暗くて狭くて寒い空間の、あの恐怖がよみがえり、ケツ
の穴が緩くなる。
やはり、人脈を利用するか、都内の出版社や広告会社に、作品を持ち込むしかな
い――そう判断した。
角ジョージ氏に電話してみると、月刊『文家』が「三角関係小説大賞」なる賞を
創設すると言う。その下読みと、パソコンに関する連載コラムを、頼まれたそうだ。
『文家』と言えば、『桃色魚眼』のライバル誌だ。『桃色魚眼』が廃刊になれば、
優れた企画や優れた人材が、ライバル誌に移るのも不思議はない。この業界では、
そうして優れた才能やアイデアが生き残り、どうでもいい物は淘汰される。そんな
システムを知らなかった頃、俺は『文家』の中川将弘編集長と喧嘩して、それ以来、
犬猿の仲だった。
そこで俺は一計を案じ、仙台銘菓「萩の月」と、牛タンの燻製と笹かまをデパー
トで買い、アポイントメントを取って、中川編集長に面会した。編集長室に入って
すぐ、土下座した。目薬で潤ませておいた目を剥き出し、嘘泣きしながら、仕事を
下さいダンナと、情にすがってみた。
「そんな、土下座なんかしないで、イカリさん。頭を上げて下さい」
イカリじゃねぇよ、カトリだよ――そう言い返したくなったが、つまらぬ意地を
張っている場合ではない。
昨日の敵は今日の友とばかりに、中川編集長は懐の広さを見せ、感情的な対立は
水に流れた――ものの、ライター余りのご時世で、ただでさえ仕事が欲しいと訴え
るライターが後を絶たず、こんな時に『桃色魚眼』が廃刊して、陳情処理に苦慮し
ている――と、中川氏はくたびれ顔で言う。
「イカリさん、まだお若いし、お子さんがいないから、勝負で稼いではどうです?
大阪にいい稼ぎ所がありますよ。紹介しましょうか?」
そう言ったあと中川氏は、口元で笑いながらも、鋭い眼光で、俺を見据えた。い
ざとなれば百人ぐらいは人を斬り殺す、サムライの目だ。大上君もヤバイ橋を渡っ
て起業の資金を作ったが、中川氏も何度も修羅場をかいくぐってきた。この業界の
人間なら、誰でも知っている。
俺の目から目線を外した中川氏は、デスクの脇に設(しつら)えられた将棋盤に、
将棋の駒を叩きつけた。
頬の脇を刃物が掠める――そんな感じがするほど鋭い音が、編集長室に鳴り響い
た。俺は不覚にも身震いし、喉を鳴らして息を呑んだ。
盤面を見ると、中川氏は、相手の角を取るか香車を取るかという局面で、長考し
ていたらしい。結局、定跡通り、香を取らずに角を自分の持ち駒にした。俺なら香
を取る。
中川氏は物腰こそ穏やかだが、将棋盤に叩きつけられた駒の音が――甘えるんじ
ゃねぇ、いざとなったら片方の腎臓を売っても書き続ける覚悟で、この世界に入っ
たんじゃねぇのか? この世界は真剣勝負、神経の斬り合いだろ? お前みたいな
腰抜けの負け犬は、目障りで邪魔なだけだから、さっさと出て行け――そう言って
いた。
キャバクラ「赤っ恥100人」に行くと、このごろ流行りのお尻が小さいハニー
ちゃんから「マサヒロ」と呼ばれ、骨抜きにされる中川氏も、仕事においては骨太
だ。接待のやり方を間違えたと、俺は気がついた。
長居をするとヤバイ話になりそうだ――不吉な予感に襲われ、俺は手揉みをしな
がら、精一杯の愛想笑いを満面に浮かべ、すごすごと退散した。
それでも手ぶらで帰るのは悔しいから、渡すはずだった「萩の月」と牛タンと笹
かまをこっそり持ち帰り、家に帰ってヤケ食いしたあと、ベッドに転がった。
その途端、張り詰めていたものが切れた。
あとでわかったことだが、虚脱状態に陥った俺は、一心不乱に部屋の壁に、鉛筆
でお絵かきをしていたらしい。何月何日何曜日の何時何分何秒だったか、時間の感
覚と記憶を消失しているが、奈芽子から差し出された離婚届に捺印したことはおぼ
えている。その頃の俺は、奈芽子が部屋じゅうにガソリンを撒いて火を点けても、
笑いながら炎に見惚れていただろう。自分がどこの誰で、何をやっているのか、俺
はわからなかったのだ。
冷蔵庫の中の食糧がなくなり、俺はやっと正気を取り戻した。
シンクの手前の床に、黒い虫がいた。それを見た瞬間、ゴキブリかと思ったが、
違った。コオロギの死骸だった。
正気を取り戻した俺は、テロルを決行することにした。
8 テロル
テロルラ、テロルラァ♪ と、松田聖子の『裸足のエチュード』の替え歌など口
ずさみ、とにもかくにも二十三本、火焔ビン――の代用品を用意した。
ウチにある壜というと、まだ中身の残った醤油の一升壜くらいで、燃えないゴミ
の日にゴミ捨て場から、壜をいただいて来ようと考えた。が、捨てられた壜という
ヤツ、どうやらホームレスさん方の資金源になるらしく、また手頃な大きさの壜を
見つけるのも難しく、どうにも埒(らち)があかないものだから、ペットボトルで代
用することにした。ペットボトルでは火焔ビンの用を足さない――とも考えられた
が、面倒くさいので手抜きだ。
正気を取り戻してからテロルの決断に至るまで、俺も一応、何をしようか考えた
――役所に相談する。日銭になる職を近場で探す。このまま餓死する。餓死する前
に自殺する。ホームレスになる。犯罪を実行して警察の世話になる。缶コーヒーの
空き缶に貯めておいた一円玉、八百円ばかり、このなけなしの銭を銀行で単位の大
きな銭に替え、宝くじを買う。知人から銭を借りる――と、八通りの可能性を検証
し、犯罪を実行すれば、成り行きで他の七つにもつながりそうだと、見当をつけた。
で、どうせ犯罪を起こすなら、派手に世間を騒がせよう。刃物で誰かを恐喝する
とか、他人の家に忍び込んで、金品をくすねるとか、チンケな犯罪では小騒ぎに終
わり、大騒ぎにならぬ。政治犯だの思想犯だの、大義名分を口実にした犯罪がよか
ろう――てんで、テロルの決行。という結論に至った。
どうせなら、めったやたらに銃弾をぶっ放せば、すっきり爽快、気持ちいいと思
ったが、銃を入手する銭などもちろんない。俺の脳みそは、冗談は扱ってきたが、
銃弾の扱い方を知らない。
で、車を盗んで、そいつに火焔ビンを積み、アメリカンなスタイルで、思いっき
りアバウトかつパワフルに、銀行に突っ込んで、刃物で銀行員を脅し、政治家とマ
スコミ向けの犯行声明を発表する――と、犯行計画を立てた。
で、俺も腐っても売文屋だし、庶民が何事に不満を抱いているかということは、
見当がつく。米国帝国主義への荷担が許せない。消費税率を三%に戻せ。国家が企
業や銀行のツケを払うなら、自分の借金もチャラにしろ。ベッカム様をJリーグで
プレイさせろ。大きな古時計を一家に一つ支給しろ。などなど。
口実はどうでもいいが、こうして人々が不満を抱え、鬱々とした気分の日常を送
る時代には、ハリウッド映画的なスペクタクルをリアライズすると、人々もすっき
りするに違いない――と、俺はすっかり世直しダーティー・ヒーローになりきった。
手ぬぐいに太いマジックで「天誅」と書き、それをハチマキにして、犯行の準備を
進めた。
で、犯行計画を立て、三十本作る予定だった火焔ペットボトルを、二十三本まで
製造した時点で、火焔ペットボトル作りに飽きて、犯行声明を書いてみた。ところ、
なんだか、テロルを実行するのが、面倒くさくなった。
9 遊民のノーサイド
腹減った。ああ腹減った。腹減った。
どうやら俺は、このまま餓死するらしい。それなりに愉快な人生だった。父さん
母さん、ありがとう。こんな俺と付き合ってくれた人たち、ありがとう。ただし奈
芽子を除いて。
と、柄にもなく殊勝な気分で、しんみりしていたらば、ふと、けったいなことを
思いついた。
火焔ペットボトルを製造しているとき、電話料金の督促状が届いたはずだ。ひょ
っとしたら、まだ電話を使えるかも知れない。てんで、受話器を上げてみると、発
信音が鳴る。
メモ帳を開いて俺は、スナックゆかりのユミちゃんが持ってる、携帯電話の番号
を押した。
つながった。
「あ、ユミちゃん?」一カ月ぶりに出した声だった。「あ、ごめん」と断って、受
話器を顔から遠ざけ、咳払いして話を続けた。
「俺だ、俺。あのさぁ、納豆屋やらねぇか?」
人生ゲームはまだ終らない。ノーサイドまで、ダイズを転がしてやる。
ネタを発行できなくなった俺は、薄幸なネタを発酵させることにした。黄金(こ
がね)色に発光するまで。
10 ゲームセット
納豆の糸が何メートル伸びるか、テレビ番組が実験している。十二メートルを超
えた。大したもんだ。人間の神経細胞と納豆の糸、どちらが丈夫なのだろう?
テレビを消してラジオを点けると、泉谷しげるの『春夏秋冬』だ。
今日で全てが終わるって? 今日で全てが報われるって? しみったれた歌だな。
景気づけに、誰かの車のタイヤにフォークを刺して、パンクさせてやろうか?
ふんっ。外に出る気力もありゃしねぇ。
ユミちゃんはやはり賢い娘だった。あんなしっかり者が、俺みたいな奴の、その
場しのぎの下らない思いつきに、真剣に付き合うはずがないのだ。
店の場所は? 開業資金はいくら? 一日当たりどれだけ売り上げが見込めるの
? 原材料はどこで手に入れて、原価はいくら? ヒットするような面白いアイデ
ア、何かある?――ユミちゃんは顔に似合わず、まるで虎のようなものすごい気迫
で、食い付いてきた。俺はしどろもどろで返答に窮し、もうちょっとリサーチして
みるわぁ、はっはっはぁ……と精一杯で答え、通話を切った。
俺はどうしようもなく犬なのだ。鳥じゃねぇから、高い所に昇れねぇ。餌をくれ
る飼い主から仕込まれた芸を、見せる以外に能がねぇ犬だ。喧嘩のエネルギーを文
学に昇華しろ? 消化不良で頭に栄養が回らねぇから、昇華にならねぇよ。
くたばったバッタは、ティッシュペーパーに包まれて、ゴミ箱行きだ。
――何が不良の文学よ。単にIQの低い貧乏物書きが、ハッタリかましてるだけ
でしょ? 不良なんか気取ってたら、そのうち処理されるわよ。もっと真面目に仕
事しなさいよ。大上さんや中川さんは、あんたのこと親身に考えて、せっかくアド
バイスしてくれるのに、そんな風にガキっぽく突っ張ってたら、そのうち誰からも
相手にされなくなるわよ。我を通してどうすんの? 素直になりなさいよ――奈芽
子の言葉がよみがえる。
納豆女に見捨てられ、大豆娘に腰が引けた。策は尽きた。俺のゲームももう終わ
りだ。
最後の最後でフォークを投げ、バッターの尻に刺さって、ゲームセット――あの
一事が、俺の人生を象徴している。
今度は誰の尻に刺さった?
【エピローグ】
そんな風に、賞味期限が切れたような自分の人生を振り返ろうとしたら、電話が
鳴った。
「おおっ! 退院したか?」
朗報だった。
「早かったな。ほかの連中は? みんな元気? 当然だな。一時的なショックだろ
? ダムさんはまだ調子が悪い? え? 豹柄のビキニ着て、だっちゃ、だっちゃ
? そんなこと言ってんの? そ、それは……だ、大丈夫だよ。あのオッサン、そ
んな簡単にくたばらねぇよ。そのうち正気に戻る……と、思うぞ。し、心配すんな
……それよりさ、また本を作るか? とりあえず次の目標は二十万部でどうだ?
無理じゃねぇよ。中川さんにも声かけて、派手な騒ぎを仕掛けるぞ。視覚障害者の
ために、作品の朗読をCD−ROMに吹き込んで、読む小説じゃなく聴く小説をオ
ンラインで出版する、なんてアイデアもあるけど、どうだ? その前に……ごめん、
ちょっと、待って」
受話器を握り締める指に、力が入り過ぎていた。震えた声や鼻水を啜る音を、誰
が大上に聴かせるものか。歯を食い縛り、天井を見上げる。
――何が泣き笑いだよ? お前、関西人だから、泣き笑いなんてすぐに言うだろ
? バカヤロ、俺は泣き笑いじゃなく怒り笑いだって、言っただろ? 俺には血は
あるけど涙はねぇよ――大上がおぼえているかどうか知らないが、俺はかつて大上
に、そう言ったのだ。
大上としゃべっている間に、奈芽子の顔が、俺の脳裏で何度かちらついた。火焔
ペットボトルを作る間に、奈芽子の味噌汁を食いたいと、何度か思った。
――斬るとか斬られるとか、バカじゃない? 男って、なんでそんなに野蛮なの
? 人間以外の動物は、肉を食べるために、命賭けでほかの生き物を殺すけど、食
べもしないのに生き物を殺したり、命を賭けたりするのは、人間のオスだけよ。黙
ってないで、あたしに声をかけてよ。顔が見えない人間より、あたしに愛を求めて
よ、あたしに愛をちょうだいよ。あたしの顔、ちゃんと見て。あたしの声、ちゃん
と聴いてよ――奈芽子が言いたくても言わなかった言葉が、よみがえる。
バカだな。お前のことが気になるのは、調子が悪い時だけだ。お前は俺の腎臓だ
ろ?――俺はテレパシーで奈芽子に伝える――具合が悪くないのに、内蔵を気にす
るヤツがいるか? お前を失ってから、新しい腎臓、手に入れようとしたけどさ。
やっぱり俺の体に合わねぇらしいぜ。お前はまだいい女だ。誰かの体に入るなら、
勝手にしろ。ただし、ちゃんと子種を持った男を選べ。それから、俺より先に死ぬ
な。
オナ酒が染み付いたあの夜のパンティ、置いてってくれたんだな。ありがとうよ。
でも、納豆オムレツはやめておけ。お前はバターを使い過ぎだよ。
「カラオケ行かねぇか?」
俺の提案に、大上の返事はもちろんノーだ。大丈夫。喧嘩する元気が戻ったらし
い。
「ありがとう。カトリ」
オオカミがはじめて俺を呼び捨てにした。入院している間にまた一つ、邪魔な物
を捨てたらしい。
「ありがとうって、何だよ? ふんっ」
鼻を鳴らして、笑いをオオカミに聞かせてやった。
パンティとショーツ以外に、女の下着の呼び方、何かねぇか?――そう訊きたか
ったが、やめた。ペンネームを変えることも言わなかった。
俺の新しい名前は猪狩野鳥助――その名前で本を出す。タイトルは『納豆バター
をパンに塗って』だ。
ゲームは終わらず、やり直しだ。面倒くせぇな、まったく。
(了)
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Text written by 火鳥冬星
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