作:火鳥冬星
(前頁)
二十五
七時過ぎに仕事を切り上げ、待ち合わせ場所に向かった。広瀬通りを駅とは逆の方角に
向かって歩き、フォーラスの所で一番丁のアーケード街に入った。
定時に退社した侑子は、一番丁通りに面した喫茶店で待っていた。向かいの席に私が腰
を降ろすと、読んでいた文庫本を閉じて、バッグにしまおうとする。
「なに読んでたの?」
私が訊くと、「村山由佳(」と侑子は答えてから「さん」と敬称を付け加えた。そのちょ
っとした間に、何か感じるものがあったが、その感じは、言葉で捉えることが出来ずに、
すぐに消えてしまった。
「エンジェルス・エッグ?」
当てずっぽうに訊いてみた。『天使の卵(』なら、私も読んだことがある。「そう」と侑
子が答え、ちょっとした嬉しさと拍子抜けを同時に感じた。
「いま、アユタの料理のメニューを見てて、ああ、食べたい、なんて思ってた」
照れ臭そうに侑子が言う。料理のメニュー? そんなのあったっけ? アユタって……
ああ、主人公の名前……そうだっけ?――などと考えさせられた。ハルキとナツヒだった
か、ハルヒとナツキだったか、女二人の名前はあやふやながらも記憶にあるが、主人公の
男の名前はさっぱり覚えていない。
二時間前に同じ職場にいたのに、会社を離れて、こうして密会していると、ただの男と
女になる。若かった時分、やはり同じ職場で働く女に惚れた時は、こんな切り替えは出来
なかった。分別が身についたのかも知れないし、ずるくなっただけかも知れない。
注文したコーヒーを飲んで、店を出た。
歩きながら私は侑子に、国の名前と首都の名前の覚え方を講釈した。「どこにいるかと
思えばカナダにおったわ――で、カナダはオタワ」とか、「ブルンブルンGカップの婦人
ブラ――で、ブルンジはブジュンブラ」とか、「ボツやな、がんばろうね――で、ボツワ
ナはガボローネ」とか、「まだ助かる、あんたな、なんぼ――で、マダガスカルはアンタ
ナナリボ」とか――そんな益体(もない話で間をつないだ。侑子に覚えてもらおうというつ
もりはなく、単に私が言いたかっただけである。それでも侑子は感心したり笑ったりして、
調子を合わせてくれた。
国分町(の繁華街から少し外れた場所にあるバーに入った。ずいぶん前、高田に案内され
て、二人で話をした店で、一年以上も足を運んでいなかった。店の佇(まいは変わっていな
かった。高田とはカウンター席で飲んだが、この日はテーブル席で侑子と向かい合った。
「今日はもう食べない」と侑子は言い、メニューにはただ目を通しただけで、カクテルだ
け注文する。私もそれほど腹が減っていなかったので、つまみになるような物――タコの
カルパッチョやムール貝のなんとかなど――それとビールを注文した。
「ほんとは食べたいんだよね。食べちゃえばいいじゃん」
ダイエットのために我慢している侑子をそそのかした。
「いや。今日はもう駄目」
きっぱりと侑子は言うものの、オチがあった。
「さっき、ケーキ食べちゃったし」
そんなやり取りで、侑子がダイエットしているなら、私も煙草を減らそうかと考えたが、
自分からそれを言い出すのはやめておいた。
「今日は、ネタはないんですか?」
カクテルのグラスが空いて、二杯目を注文した後、侑子が言う。会話が途切れて、何を
話そうかと考えていたところだった。
テーブルに両肘を突いて、組んだ両手に顎を乗せ、身を乗り出すような前屈みの姿勢で、
侑子にそう言われて、考え込んだ。いまのシチュエーションに合ったネタはないかと、頭
の中を探ったが、すぐには出て来ない。ここを出たらホテルに行って、思う存分に侑子の
体を愛し、麗子にはどのように話を切り出そうか――と、スケベな事ばかり真面目に考え
ていた。笑い話のネタなど、すっかり頭から抜けていた。
「ああ……んーと……寿司屋のネタならあるけど」
「何? やって」
リクエストされて、言わなければよかったと後悔した。しかし、やるしかない。
「ええと……寿司屋の客と、店主の会話」
お題を言うと、「天使?」と侑子がボケる。「天使じゃないよ、店主だよ」と突っ込ん
で、どさくさまぎれに「天使は君や」と、侑子には聴き取れないほど声を落として、ぼそ
っとこぼした。「え?」と侑子に訊かれて、「いや、だから、寿司屋の客と店主の会話ね」
とごまかした。
話の流れを整理し、覚悟を決めて、「うん」と声を出した。侑子は含み笑いで口角を左
右に引き、何が出てくるか待ち構えるように、私の目をじっと見る。プレッシャーを感じ
ながら、一人コントに入ることにした。
「じゃあ、寿司屋の客と、店員の会話」
お題を繰り返してから、小噺(を始めた。
「大将、いい体してんねぇ。なんかスポーツやってたでしょ? 当ててみようか? いつ
も酢飯(を握ってるだけに、テニス……なんて」
“手に酢”と“テニス”をかけた駄洒落である。侑子はふっと鼻から息を抜いて、失笑気
味に軽く笑う。私は続けた。
「いやぁ、お客さん、テニスはやったことないですけどね。でも、テニスと言えば、握っ
てみたいネタがあるんですよ」
「ほう……なんだい?」
「シャラポワ」
「おいおい、それは寿司屋じゃなくても握ってみたいだろう。しかし、なんだね、ここの
寿司を食べたら、スポーツ選手はケガに泣かされるね。魚介類が病みつきになって、肉離
れ……なんて」
「お客さん、馬刺しありますけど、どうです?」
「おお、じゃあ、握ってもらおうか」
そこで締めて、テーブルに目を落とした。照れ隠しに頭を手で掻いた。しゃべっている
間は侑子の顔をまともに見られなかったが、笑い所でちらりと目をやっては、反応を窺っ
た。侑子は笑ってくれたが、上手くないと自分でもわかった。文章にするとそんなにひど
くはないが、しゃべってみると言葉を噛んでしまう。
「落語家さんみたい」
そう言われてみると、確かに大喜利(のネタぐらいにはなりそうである。しかし、人前で
披露するほどの自信はない。
「いや、しょせん、素人のネタだから」
「あ、それで、馬刺しを注文したら、さだまさしが出て来るんだ?」
二週間前、焼肉屋で話したネタに、侑子がつなげる。
「ああ……そうそう」
そこにつなげるつもりはなかったが、調子を合わせた。
「それから、マッサージ?」
「そうそう」
それも考えていなかったが、そういうことにした。それから続きを思いついた。
「そんで、店主が言うんだよね。うちは、寿司だけでなく、人の体も握ります――なんて。
まぁ、それがオチです」
そんなオチも考えていなかったが、話の流れでこじつけた。
「あとは?」
侑子はさらにリクエストする。
「ああ……じゃあね、スピードワゴン風のネタ。スピードワゴン、わかる?」
「うん。わかる」
「じゃあ、男と女の会話ね」
「うん」
侑子の相槌(で、芸人モードに入った。
「あれ、その携帯電話、古い機種じゃない?」
「そうなの。機能がイマイチなんだよね」
「きのうはイマイチでも、今日の君は最高さ」
オチを決めたところで、左手の指を鳴らした。私は右手は鳴らせないが、左手は鳴らせ
る。すると侑子が、お約束通りに「あまぁい」と言う。言ってくれなければ自分で言わな
ければいけないと思っていたので、ほっとした。
「あとは?」
侑子はさらにリクエストする。ほかにも考えていたものがあったような気がするが、思
い出せない。
「もうないよ。おしマイケル」と、ピン芸人・マイケルの決めネタでお茶を濁した。
「ええ……」と侑子は不服そうな声を出し、上目遣いのなじるような目で私を見る。「勘
弁して」と私が言うと、「しょうがないな」と引き下がった。
「あ、じゃあ、これは?」
即興のネタを思いついた。手元にあったカルパッチョの皿を、ビールジョッキの上にの
せ、それを指差して突っ込んだ。
「おいおい、サラブレッドがジョッキーに乗ってどうすんねん!」
侑子にはそれが一番受けた。
●
立町(のホテル――ちょうど二週間前に初めて情事を交わした所よりも、大きなホテルに
入った。
部屋に入って抱擁しようとすると、それまでまったく拒む素振りのなかった侑子が、顔
を逸らして、私の体を押し返そうとする。
「どうしたの?」
問いかけると、俯いていた侑子が顔をあげ、目を合わせる。
「ん。なんでもない。ごめんなさい」
侑子の瞳に怯(えが感じられた。
「なんか、気になることがあるなら、言って」
私が促すと、侑子は首を横に振り、目を閉じて顎をあげる。疑念を覚えながら、私はそ
の唇に口づけた。背中に回った侑子の手が、しがみつくように私の肩をつかむ。
ソファーに腰を降ろし、テーブルにあったルームサービスのメニューを見て、急に食欲
が湧いてきた。バーではあまり空腹を感じなかったのに、おかしなものである。
「なんか、腹が減ってきちゃった。頼んでいい?」
「いいけど……なんか、変」と侑子も笑う。
そう言いながら、侑子もピラフを注文した。私はカレーライスを頼んだ。
ルームサービスを待つ間、侑子はバスルームに入り、シャワーを浴びて、バスローブに
着替えて出て来た。テレビをつけて手帳にメモを取っていた私は、鞄に手帳をしまい、席
を立った。侑子のほうに歩みかけたところで、チャイムが鳴った。
ドアの前に、キャスター付きの配膳台が置かれていた。まるで配膳台が自動で勝手に部
屋に入ってきたような感じである。
テーブルの近くまで配膳台を押し、載っていたピラフとカレーライスの皿を、テーブル
に置いた。侑子は冷蔵庫の前にしゃがんで、中を覗いている。
「ビールでいい?」
そう訊かれて、私もそちらに歩み寄り、侑子の背後で屈んで、中を覗いた。
「これ」と言って、自分の前にバスローブ姿でしゃがんでいる侑子の襟元に手を入れ、乳
房に触れた。「やっ!」と声をあげた侑子が、私の手をはねのけ、腕で胸を隠しながら、
床に倒れ込んだ。握られていたビールの缶が、手を離れ、腿に当たってはね返り、床を転
がる。半笑いのふくれっ面で睨む侑子の顔を認め、目線を落として、唾を呑んだ。バスロ
ーブの裾がめくれ、なまめかしい太腿を覗かせている。私の目線に気づいた侑子が、慌て
て裾を直し、「もう、やだ」となじる。
災難から身を守るように、背を丸めて床に寝転んでいる侑子と、真顔で目を合わせた。
不意を突かれたように侑子の顔が強張(り、怯えるように瞳がうろたえる。床に膝を突き、
覆いかぶさるように体を寄せると、「なに? いや」と侑子が声を出す。肩に手をかける
と、びくりと痙攣(する。まぶしげに目を細め、観念したように肩を開いて、手を床に投げ
出す。
掌で膝頭を包むように、脚に触れた。侑子は曲げていた膝を伸ばし、背(けていた下腹(を
私に向け、身を任せるように目を閉じて、顔を背ける。ローブの上から乳房に掌を押し当
ると、は、と唇のすき間から息を吐き、薄く開いた瞳で私に目線を流す。指先で顎を撫で
ると、固く目を閉じた侑子が、あ、と吐息で濡れた声を吐き、口を開いて顎をあげる。口
を重ねて、舌を差し込んだ。
「ん……」
出る……せっかくのいい雰囲気を、ぶち壊す物が出そうである。
侑子が目を開け、何事かと不審がるような目で、急に唇を離した私を見る。
はっきり、それとわかる音が鳴った。屁が出た。
あ、と声を漏らした侑子が、がっかりしたように顔をしかめながら、私から顔を背け、
大きな溜め息を吐く。
「ごめん」
「もう……ここは、笑いを取るところじゃないでしょう」
「すまん」
笑いを取るつもりはなかったが、笑うしかない物が出て、二人で笑った。
「これ、けっこう辛いな」
「ほんと?」
「この辛さは……辛さは寿明(」
侑子は吹き出して、「なんだそりゃ」と言う。
「このスプーンの長さは……長さはまさみ?」
「長さはまさみって……そんなにちっちゃくないじゃない」
「いや、うちのテレビで見ると、こんなもんだよ」
「なに言ってんだか……あ、じゃあ、唐沢(寿明のモノマネやって」
「え……唐沢? ええと……」
――などと、ルームサービスのカレーとピラフを食べながら、唐沢寿明や長澤(まさみに
ちなんだ冗談を言ったり、侑子からモノマネを無茶振りされて窮したりと、他愛もない話
をした。
ちょっと間が空いたところで、侑子が思いがけないことを言い出した。
「ハルミさん……怒るんじゃない?」
ハルミ? 誰だ? 侑子の顔に目をやったが、侑子はピラフに目を落としたまま、こち
らを向かない。
「ハルミって……」
渡辺さん?
「飲み屋のおねぇちゃん……ハルミさんていう人でしょ?」
飲み屋のおねぇちゃん? あ、あ……。
「ごめんなさい」と侑子が謝る。「ケータイ……見ちゃった」
ああ……。
「携帯電話……見たんだ?」
「うん。つい」
「え……いつ?」
「この前。土曜日」
土曜日……ああ……先週の土曜日、松島に行った時、ファミリーレストランに入った。
そこで私はテーブルに携帯電話を置いたまま、トイレに立った。あの時か。
しまった、携帯電話を見られたか……と、苦々しい思いをしながら、侑子の言う「ハル
ミ」が誰のことなのかわかった。おそらく侑子は、「晴夏」という字を、「晴美」か「晴
見」と読み間違えたに違いない。
――ということは、私の携帯電話を覗いてみたものの、名前をちらりと見ただけで、よ
く確かめないまま、すぐに閉じたのではないか。メールの内容は見ていない――とは限ら
ないが、見られてまずい物は……。
明日香(の写真? いや、明日香の写真が送られて来たのは、あの後だ。
いずれにしても、侑子は晴夏の名前を知らない。麗子と話した時に晴夏の名前が出たが、
侑子には聞かれていなかった。
「ああ……いや、そんなんじゃない。向こうは怒らないよ」
「まだ付き合ってるんじゃないの?」
「うん。まぁ、付き合ってるって言うか……いや、その、恋愛関係とか、そういうのでは
なくて、なんて言うか……向こうは、誰でもいいって言うか……」
「誰でもいい?」
「うん。あの……俺以外にも、付き合ってる男が何人もいて……」
「ああ……」
「まぁ、なんて言うか……どうでもいい、と言うか……」
「どうでもいい?」
侑子はいぶかるような顔をする。「どうでもいい」は語弊があると気がついた。
「あいや、どうでもいいっていうのは、乱暴な言い方だけど、なんて言うか……」
言い澱んだ私に、「体だけ?」と侑子がはっきり言う。私は自分の浅ましさをとがめら
れているような気がした。
「体だけって言うか、あの……」
なんと言えばいいのだろう? 私が二の句を継げずにいると、侑子が突っ込む。
「あれですか? あの……援交(……とか……」
援交……援助交際。一種のエッチ奉公である。そういう事にしてしまえば、それで話は
済むかも知れない。しかし、それを認めたくはない。実際、私と晴夏の関係は、援助交際
ではない。
「うん、まぁ、それに近いものはあるけど、金のためとか……うん、そう、金を払ってど
うにかって、そういうのではないです。なんて言うか、ある意味、病気みたいなもんで」
「病気?」
「うん。まぁ、ぶっちゃけて言うと、彼女は……好き者というか」
言った後で、しまった、と思った。侑子は、私と晴夏の間に肉体関係があることを知ら
ない。さっき侑子が「体だけ?」と訊いたのは、鎌をかけたに違いない。私はそこで否定
しなかっただけでなく、「好き者」なんて、明らかに肉体関係を認めるようなことを言っ
てしまった。
まずいと私は思ったが、侑子は驚いた様子もなく、腹を立てているようでもない。そん
な事だろうと思っていたのだろうか。
「二股(……なんですね」
侑子が言う。二股……嫌な言葉である。
「わたしが、麗子のことを、加藤さんに相談したから……悪いのは、わたしですよね」
侑子は、私ではなく、自分を責めるようなことを言う。
「いや、それは、違うよ。僕は、あなたのことが、ずっと……うん、ずっと、気になって
た。食事に誘ったのも、その……あなたが……あなたを、抱きたかったから」
胸のわだかまりを吐き出すように、私は言った。侑子が固まった。(続く)
(次頁)
Text written by 火鳥冬星
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