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幽霊芸能人の話 


作:火鳥冬星

     一

〈ネタに食い付く読者は好きだが、作者に噛み付く読者は嫌いだ〉
 ホームページの掲示板に私が書いたコメントを、晴夏(はるか)が読んでいたらしい。そう言えば
そんな事を書いたと、晴夏から言われて思い出した。
「人は噛まれて強くなるって、有名芸能人が言ってたよ」
 何やら忠告めいたことを晴夏が言う。
「有名芸能人て、誰が?」
 私が突っ込むと、うまいところに晴夏が落とす。
「松島トモ子」
 ライオンとヒョウに噛まれた事で有名な芸能人の名前を出され、私は返す言葉もなく苦
笑した。してやったりと言わんばかりに晴夏がほくそ笑む。
     ●
 晴夏はキャバレークラブ――いわゆる「キャバクラ」で働いている。
 キャバクラは飲食店だが、客は飲食物よりも淫色の匂いに惹かれて来る。接客する女子
は、世間では「キャバクラ嬢」と呼ばれているが、ここでは「キャスト」と呼ばれている
そうだ。普段は人目を惹かない女子も、華美な装いでめかし込んだら、見惚(みと)れるほどの(いろ)
(つや)が出る。男の客を相手に女として振る舞い、ロマンスや情事を夢想させながら、のぼせ
上がる客ほどには熱を上げずに営業に勤めるのがキャストである。キャストの衣裳の中身
に客が興味津々なら、キャストは客の財布の中身が気になる。かと言って、中身を見て人
の心が変わるわけでもなく、男前の客には女の心映(こころば)えで身を寄り添わせ、醜男(ぶおとこ)でも金払い
のいい客には営業と割り切って付き合い、「嬢」の振る舞いを忘れて情を通わせるのは店
の外。店ではただ、酒を飲みながら話をするだけと決まっている。
 キャバクラと言っても、東京・六本木や大阪・ミナミで繁盛しているような豪勢な店で
はない。ここは仙台・国分町(こくぶんちょう)である。
 晴夏はデビューして二ヶ月足らずである。あどけない顔でグラマーで、性格が明るく、
しゃべれば面白いことを言うと来れば、人気が上がって指名も増える。
 この「フィッシュ愛クラブ」の店長である高橋訓行(たかはしのりゆき)水沢(みずさわ)晴夏を紹介したのは私である。
と言っても、私はこの業界のスカウトではない。高橋と私は高校時代の同級生で、私が高
橋に晴夏の面倒を見てくれと頼んだのである。
 私と晴夏の関係は、後で詳しく述べるが、世間にはいかがわしい関係と見られても仕方
がない。何しろ晴夏は二十一歳の小娘であり、私は四十二歳の中年男である。実際、いか
がわしい関係である。知らない人には親子だと嘘をつけばいいのだが、高橋は私が未婚で
あることを知っている。それでも高橋は心得たもので、私が電話で「何も言わねで預がっ
てけろ」と頼んだら、余計なことを何も訊かずに、とにかく面接しようと請け合ってくれ
た。
 面接すれば即決である。晴夏をほかのキャストに紹介すると、キャストたちの眼から(いな)
(ずま)が飛び交ったそうである。キャバクラは女の戦場である。
 などとわかったようなことを言ってみたが、実を言うと私がキャバクラに入ったのは、
これが初めてである。私はもともとあまり酒を飲めないし、初対面の女性と話をするのも
苦手である。晴夏の仕事振りを見に来ただけで、それも私の一存ではなく、人に頼まれて
来たのである。このあたりの経緯についても後で述べる。
     ●
「ハルカさん、御指名です」
 男の店員が晴夏に声をかけた。晴夏は「はぁい」と返事をして、「指名入っちゃった」
と私に言い、アユミというヘルプの娘に「お願いしまぁす」と後を任せて席を立ち、右手
のほうに消えてしまった。晴夏は店でも「ハルカ」という名で通っている。
 アユミはおとなしいのか遠慮していたのか、ずっと黙って私と晴夏のやり取りを聞いて
いた。いや、聞いていたのかいなかったのかわからなかったが、晴夏が席を立ったあと、
「何か書いてるんですか?」と訊いてきたので、聞いていたらしい。
「小説を書いてるんですよ」
 私が答えると、「え、そうなんですか。すごぉい」とアユミが言う。
「いや、別にすごくないです」
 謙遜(けんそん)ではなく率直な実感として私がそう答えると、「そんなことないです。すごいじゃ
ないですか。ああ、だから頭いいんですね」とアユミが言う。小説を書く人は頭が良いと
いうのは昔の事で、いまではバカでも小説を書くのだが、お世辞やお追従(ついしょう)で客を喜ばせる
のが接客女子の務めであろう。とは言えアユミの顔を見ると、心ないお追従でもなさそう
で、尊敬しているかどうかはともかく、興味は示しているようだ。
 見たところ、アユミは晴夏よりずっと年上らしく、落ち着いている。目を惹くほどの美
人ではないが、一緒にいると気が休まると思われる。雰囲気が女優の酒井若菜(さかいわかな)にちょっと
似ている。頭に「キャ」が付くクラブより、縁側や旅館で浴衣姿で寄り添ってくれたらい
いと思うような女である。

 アユミが「頭いいんですね」と言ったのは、私と晴夏のゲームを聞いていたからだろう。
ホームページの掲示板の話題が出る前、私と晴夏は「国名―首都卓球」というゲームをや
った。一人が国の名前を言い、もう一人がその国の首都の名前を答えるゲームである。あ
るいは首都の名前を言ってから、その首都がある国の名前を答える。「ブルネイ」と言え
ば「バンダルスリブガワン」と答え、「アスンシオン」と言えば「パラグアイ」と答える。
バハマとハバナ、アンドラとアンゴラ、ルアンダとルワンダ、セントジョンズとセントジ
ョージズなど、紛らわしい名前がいくつかある。国名だったか首都名だったかわからなく
なることもしばしばある。スリランカの首都は「スリジャヤワルダナプラコッテ」とやけ
に長くて覚えにくいが、四・四・五に音を区切ると覚えやすい。四・四・五と言えばお笑
いコンビ「レギュラー」の「あるあるネタ」がそうである。三回くらいでコツつかむ、優
しくされると好きになる、太った男子の胸を揉む、ブサイクなのにいい匂い、スリジャヤ
ワルダナプラコッテ――と、笑いのネタにはならないだろうが語呂は合う。私はアフリカ
大陸と東ヨーロッパ、中東あたりがうろ覚えで、晴夏は中南米とオセアニアが苦手である。
 晴夏がアユミもゲームに誘ったが、アユミは顔と手を横に振り、お二人でどうぞ、とい
うような手振りをして、(けん)に回った。国名と首都名が頭に入っていないと、面白くないゲ
ームである。
 晴夏が席を立ってから、こうしてしゃべりだしたところをみると、どうやらアユミは口
下手ではなく、ただ遠慮していただけらしい。私と晴夏の話に入れなかったとみえる。

「どんな小説書いてるんですか?」
 アユミがもっともらしいことを訊いてくる。
「小説というより、コントですかね」
 私が真面目な顔で答えると、「コント?」とアユミがオウム返しに訊く。
 実際、私が書いているのは、コントのような物である。以前は犯罪小説を書いていたが、
冗長な会話文が多くなり、犯罪小説ではなく漫才小説になってきて、いまではコントに落
ち着いている。文芸コントは舞台で見せる演芸コントと違って、受けているのかいないの
か、客の反応がわからない。こうして人と対面すると、ネタを披露して反応を見たくなる。
 私は自分の作品で使ったネタを思い出し、手を振って「違う違う」とアユミに言った。
何が違うのかわからないアユミは、きょとんとした顔をする。
「君はそこで、ほんと? と訊かなあかんねん。そしたら僕が、コント、と答えるから、
君は、コントかよ! と突っ込むねん」
 私がボケ突っ込みの初歩を指南すると、急に関西弁でしゃべられたアユミは、戸惑った
様子で苦笑しながら「えぇ?」と不服そうな声を出す。そうしてためらう素振りを見せな
がらも、私の目を覗き込むように顔を近づけ、「ほんとですか?」と振って来た。
「コント」と私がボケると、アユミは台詞(せりふ)を棒読みするようにフラットな調子で「コント
かよ」と言う。私はずっこける動きをして、「そんな突っ込み方あるかい。テーブルに顔
ぶつけそうになったわ。ちゃんと声張って、手の甲でわいの肩を叩くんや」と、手振りを
交えながら注意した。するとアユミは照れ笑いしながら、不服そうに唇をとがらせる。
「あかんね。見本見せたろか?」と私は言って「(とし)はいくつ?」とアユミに訊いた。「二
十六です」とアユミが答える。「ほんと?」と私が振ると、アユミがお約束通り「コント」
と返す。私は「コントかよ!」と突っ込みながら、(てのひら)でアユミの胸をさわる振りをした。
 不意を突かれたアユミは「やっ!」とはしゃいだ声を出し、肩と腕で胸を隠して、私を
睨んだ。睨んでいるが笑っている。
 女性のバストはペナルティ・エリアである。そこをさわる振りをすれば、シミュレーシ
ョンの反則である。イエローカードならぬエロカードを出され、エロカード二枚で退場、
本当にさわればレッドカードで一発退場――というルールはないが、キャストのバストに
触れるゲストはワーストである。あしらい方を心得ていない女子は、客がさわれば騒ぐか
退()がる。さわらせて稼ぐ女もいそうだが、それも金を使わせる算段とみれば、罰金を取ら
れるのと変わりがない。
「真面目そうな人だと思ったら、エッチですね」
 アユミは、私の会社の経理の渡辺(わたなべ)さんが、経費の使い過ぎを(たしな)める時のような口調で言
う。
「エッチというより、スケベェですかね。サラリーマンは基本的にスケベです。サワリー
マンとも言いますから」
「サワリーマン?」
「そう。ついでに言うと、僕はカワリーマンらしいです。変わり者ってよく言われます」
「変態ですか?」
 そうストレートに訊かれると、私は返答に困ってしまう。変わり者と言っても、性癖が
変態というわけではなく、パーソナリティがちょっと変わっているという意味なのだが、
性癖が変態的かどうか訊かれたら、変態的なところもあると答えるしかない。だからと言
って「変態です」と答えたら、アユミが引くかも知れない。
「いや、その辺は、ケース・バイ・ケースということで」
 苦し紛れにそう答えると、アユミは鼻で笑って「進んでないですね。空けて下さい」と
グラスの酒を勧める。

 そうして話が途切れそうになったかと思えば、アユミが「カワイーマンなら、カワリー
マンでもサワリーマンでもいいですけど」と言う。変態でもスケベでも可愛いところがあ
れば許せるということか。うまいことを言うものだと思って私は「ああ」と感嘆し、「つ
いでに言うと、顔いいマンならいいでしょう?」と振ってみた。アユミは口角を上げて笑
みを見せながら、返答に(きゅう)したように首をかしげる。
 私は少し考えてから「ふだんは真面目なんだけどね。今日、君と出会って、キューピッ
ドの矢がここに刺さったみたいなんだ」と胸を指差しながら言い、「ふだんはクールなん
だけど、君のようにきれいな女性の前では、フールになるんだ」と駄洒落(だじゃれ)をかぶせた。
 アユミも乗ってきた様子で、「あまぁい」と、お笑いコンビ・スピードワゴンの井戸田(いとだ)
(じゅん)の真似で返す。
 私は調子に乗って「今日のTBS株はどうなってるかわかんないけど、僕の心のラヴ式
私情では、いま、君のラヴ価がぐんぐん上がってる」と言った。IT企業の楽天が、テレ
ビ局のTBSの大株主になったという話題が、テレビと新聞を賑わせている。株とラヴの
掛け言葉が伝わりにくいかも知れないと思ったが、どうやらうまく伝わったようで、アユ
ミは今度は「うまぁい」と返して、胸の前で拍手した。
 私はさらに「あっ」と声を出し、(うつむ)いて頭と胸を手で押さえ、急に具合が悪くなった振
りをした。「どうしたんです? 大丈夫ですか?」とアユミが訊いてくる。私は「発作(ほっさ)
襲われたようだ」と言い、顔を上げてニヤッと笑って「恋の(やまい)のね」と言った。
 するとアユミは、今度は顔をしかめて「うざぁい」と言う。
 私は驚いた。アユミの返しは「あまい→うまい→うざい」の三段落ちである。「君、な
かなかやるじゃない」と褒めてやったら、アユミはなんのことやらわからない様子で首を
ひねる。どうやら狙った返しではなかったようだ。返しが三段落ちになっていると説明し
てやると、アユミは「ああ」と納得したように声を出し、掌を口に当てて笑い出す。

「もうひとネタ教えてやろうか」
 私が言うと、アユミは首をかしげて「なんですか?」と訊いてくる。
 私は立ち上がって、「こうやって」と掌で座席を指しながら「お座り下さいって言って
みて」とアユミに言った。アユミも立ち上がろうとするので、「あ、君は立たなくていい
よ」と制した。
「お座り下さい」
 アユミは私が言った通りにした。
 私は黙ってアユミの手を握った。
 アユミは驚いた顔で私の顔をじっと見る。その瞬間、私は何を言おうとしたか忘れてし
まった。次に言うべき台詞が頭から飛んだ。
 私は落ちやすい男である。女性と目が合うと、すぐに恋に落ちる。コンビニエンススト
アやファーストフード店の店員、銀行やローン会社の窓口係にも、すぐに恋をする。目が
合っても恋に落ちなかった女性は、私の会社の経理の渡辺さんぐらいである――というの
は冗談だが、恋に落ちると私は瞬間的にエレクトして、あっという間に射精してしまうの
で、私は常に女性の生理用ナプキンをペニスにかぶせている。近頃の生理用品はかぶれに
くいが男の性器にはかぶせにくい――というのももちろん嘘だが、そのときアユミと目が
合って、恋の予感が目から掌に駆け抜けた。
「どうしたんですか?」
 アユミから言われて、私はやっと(われ)に返った。「あ、うん」と答えて目を逸らし、何を
言おうとしたか思い出そうとした。
「そうそう。えーと、ここで、君が、突っ込まないと」
「えー、なんて?」
「うん、だから、オスアリ」と私は台詞を噛んでしまった。「オスアリ?」と訊くアユミ
に「違う違う」と答え、とりあえず体勢を立て直すことにした。握ったアユミの手を離し、
席に座ってグラスをつかんで、水割りを喉に注いだ。
 テーブルに置いた煙草の箱を手に取り、一本抜いて口に(くわ)えると、すかさずアユミがラ
イターで火を点ける。私は手振りで謝意を伝えた。アユミは私のグラスを手に取り、氷を
入れる。
 気を取り直して、私は説明した。
「あ、だから、お座り下さいって君が言うでしょ? そうしたら、僕が君の手を握るんで、
君が突っ込むんだよ」
「うん。なんて?」
「だから、おさわりじゃなくお座りって」
「ん?」とアユミは()に落ちないような声を出したが、すぐに「あーあー」と納得したよ
うな声をあげ、「おさわりじゃなくお座りね。なんだぁ、そっかぁ」と言った。
 気を取り直した私は、アユミの言葉尻をとらえて「なんだぁそっかぁ?」と訊き返し、
「なんだぁそっかぁこんなぁさっかぁ」と、リヤカーを引いて坂を登る身振りを交えなが
ら、節をつけて言った。明石家(あかしや)さんまがテレビのトーク番組で、出演者の発言の言葉尻を
とらえて茶化(ちゃか)すような調子である。アユミは弾けたように笑った。

 一段落して間が空いた。何を話そうか考えていると、アユミが何か思い出したように笑
い出し、「おかしい」と独り言のように言う。
 私は真面目な顔をした。真面目な話をしたくなった。真面目な話というのは身の上話の
ことである。樋口一葉の『にごりえ』で、結城朝之助がお力に尋ねるようなことである。
生まれはどこだ、親はどうした、目当ての男はいるか――と、根掘り葉掘り訊いて素性(すじょう)
洗い出してみたくなる。産地――すなわち出身地を知り、育てた人の苦労を知れば、『ど
っちの料理ショー』の出演者が食材の有難味(ありがたみ)を噛み締めながら悦に入るように、話を聴く
身にも熱が入る。産地の話、故郷の話にはセンチメントが含まれていて、産地メンタルと
私は呼ぶ。
 目を上げて話しかけようとしたら、声がかぶって目が合った。互いに照れ笑いをした。
「何?」と訊いたら、アユミは「あ、いえ」と笑ってごまかし、「なんですか?」と逆に
私に話を促した。
「いや、あー、えーと」と口ごもりながら私は考え、「じゃあ、クイズ出します」と、本
心とは違う方向に話を逸らした。「クイズ?」とアユミは乗ってきた。
孫悟空(そんごくう)猪八戒(ちょはっかい)沙悟浄(さごじょう)、知ってる?」
 私が確かめると、アユミが(うなず)いた。私は続けた。「三人がテストを受けて、一人だけ満
点がいました。さて、誰でしょう?」
 アユミは真面目な顔をして首をひねった。私は失敗したかと思った。もっと簡単な問題
にすればよかった。最初は簡単な問題から入って、だんだん難しくしていくのが、クイズ
出題の鉄則である。相手に考える時間を与えると、会話が止まってしまう。キャバクラで
は一つのテーブルにキャストが付くのは時間的に限りがあるので、時間をロスするわけに
はいかない。とは言え、出てしまったものは仕方がない。
「えー、なんだろ。わかんなぁい」とアユミが考え込む。「それって、お話を知らなくて
もわかりますか?」
「うん、わかる。とんち問題だね」
「孫悟空は(さる)で、猪八戒は(ぶた)で、沙悟浄は河童(かっぱ)ですよねぇ」とアユミは言い、突然、私の
耳元に顔を近づけ、こしょこしょと何か(ささや)いた。聴き逃した私は「え? 何?」と訊き返
した。
 アユミは今度は私の肩に手を置いて、耳元で「沙悟浄ですか?」と囁いた。今度はちゃ
んと聴き取れたが、アユミの胸が私の二の腕に触れてドキッとした。わざとそうしたのか
不慮の出来事なのか定かでないが、こういうたぐいの当たり(さわ)りには胸がときめく。
 私は何食わぬ顔で「理由は?」と訊いた。アユミは「河童だけ架空の動物だから」と言
う。「残念。そういうことじゃないんだな」と私が答えると、「ヒントください」とアユ
ミが言う。私は「三人の名前をひらがなで書いてみるとわかるかも知れない」と答えて、
「テストで満点ということはどういうことでしょう?」と付け加えた。

 そこへ晴夏が戻って来た。戻って来るのが早すぎるのではないかと思ったが、気に留め
ないことにした。「お待たせぇ!」と晴夏ははしゃいだ声を出し、私の左隣に座る。「お
かえりぃ」とアユミが手を振りながら声をかけた。
 数的不利に戻ると、私は攻撃重視から守備重視に作戦変更せざるを得ない。さっきまで
は左サイドの晴夏だけをマークしていればよかったが、今度は右サイドのアユミも気にな
る。晴夏は私の意識を自分のバストに引き付けておいて、急に高い所に話題を切り替える。
高い所というのは、靖国問題とかドイツの連立政権とか、新聞の最初のほうに載っている
ような話題である。右に振ったり左に振ったり、話は政治的にサイドがよく替わるうえ、
男としては高さのあるツートップのバストが気になるものだから、話に集中できなくなる。
「なんだ、お前、戻って来たの?」
 私は晴夏に邪険(じゃけん)に応じた。「え?」と晴夏は私から肩を離して「戻って来ないほうがよ
かった?」と言う。「うん、もうちょっとでアユミちゃんを落とせるところだったのに」
と私が嘘をつくと、晴夏は頬を膨らませて、私の二の腕をつまんでひねった。「(いだ(い痛い」
と濁点付きで声を出したら、「人はつかまれて強くなるって、有名芸能人が言ってたよ」
と話を戻す。
     ●
 そうしてその日は、アユミからクイズの答えが出ないまま、私は「フィッシュ愛クラブ」
を出た。
 出がけにアユミが「次までクイズの答えを考えておきますんで、御指名お願いしますね」
と言い、「正解したら賞品ください」とちゃっかりねだる。私は高価なブランド品を思い
浮かべながら、恐る恐る「何がいい?」と訊いてみた。「なんでもいいですよ。お気持ち
で」とアユミが言う。「じゃあ、婚姻届にサインと捺印(なついん)をして持ってきます」と私が冗談
を言うと、アユミは笑いながら「いいですよ。本気なら」と言う。
 最後にアユミが、また内緒話(ないしょばなし)をするように、口元に手を添えて私の耳元に顔を近づけ、
「女は突っ込めませんから」と囁いた。その時はなんのことだかわからなかったが、後に
なってから(しも)ネタだと気がついた。
 店の看板には「愛」の上に「eYe」とルビが振ってある。Yの上半分のVはハートマー
クで、眉間にハートがある目許にも見えるし、女性のバストにも見える。「クラブ」のス
ペルは「Club」ではなく「C-Love」である。「Fish eYe」とは魚の目か? 変な名前で
ある。(続く)

(次頁)



Text written by 火鳥冬星
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