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雪原のエスカルゴ [Novels Menu]


 その男は野蛮な獣(ワイルド・ビースト)のように乱暴に、私の気取りと自惚れを脱がせた。不意を突かれた私はただ、その男の腕の中でもがき、甘くうずく胸に満ちる潮騒(しおざい)に、なすすべもなく呑み込まれた。
 メランコリーという名のカクテルに、私の舌が痺れたときから、カルナバルのマスカレードは始まっていた。カリブの海の波のように、揺れるブルーのカーテンから、その男は燕尾服を着て現れ、狩りで獲物を追い詰めるときの用心深いステップで、私のテリトリーに足を踏み入れた。
 狩猟者は足音を立てず、風下に現れる。飼い犬は吠えるばかりで噛まないけれど、獲物を狙う狼は吠えずに近づき、一撃で仕留める。
 男のステップに合わせ、私のスカートの裾が床を掃く。ルージュより紅いドレスのスリットから、網に捕われた女豹の肢が飛び出して、片足を高々と上げて指先まで仰け反る私の腰を、男の腕はいともたやすく危うげなバランスで掬い取り、支え切る。重力に逆らって、私の体はしなるように起き上がり、私の四本の指は男の掌に包み込まれ、片足のヒールの爪先を中心に、私の体がターンする。肌を剥き出した背中を男の胸に預け、腰に巻きついた男の腕を右手で掴み、罠に捕われた私が救いを求めて伸ばした手首が、無情な男の手にかかる。百八十度に開脚した私の体を、男は軽々と持ち上げ、地上に落下する私を腿で受け止め、猥褻と優雅のギリギリのラインで腰を絡ませた私たちは、ターンで観衆を魅了する。香港の夜景のように煌びやかなラメのドレスたちが息を呑み、背景に退いて霞む。
 グロスで濡れた唇から、肉料理の食前酒(アペリティーフ)が薫るのだろうか。コパカバーナを口移しする男の襟元から、ジンライムが立ち上がる。前菜に供される殻付きの水棲甲殻類を、指先まで神経が行き届いたデリケイトな手で、器用に殻を剥き、男は丁寧に味わう。私の汗は、ブランデーの香り(フレイバー)とコニャックの(テイスト)がするはずだ。歯が当たるたびに、ゼラチン質の震えが私を襲う。
 私はスイッチひとつで、その時、その場所にいる誰よりも、輝いてみせる女だった。退屈を持て余しデカダンスの夜を過ごす少年(キッズ)少女(キャッツ)を、ハーメルンの笛吹きのように魅惑の世界に導くミューズだった。鎧のような制服姿で武装し、まるでドライアイスのように、触れると痛いほど冷たく固い心を持った男たちさえ、私は興奮させ、可愛らしくおねだりをするペットにしつけ、溶けた(メルティング)バターの香ばしい薫りと、舌を刺激する上品な味を、私は愉しんだ。女たちの嫉妬(ジェラシィ)は、サボテンの棘ほども痛くない。厚苦しいメイクアップがこめかみや眉間からひび割れてゆく様は、痛快だった。褐色に輝く美しい鎧で身を固め、軽やかでしなやかなステップを踏む男たちが、私の護衛兵だった。恋のメソッドとディシプリンをAランクまでマスターした私は、わがままと甘えのライセンスを手に入れたはずだった。
 大和魂(ピュア・ソウル)を失って、たやすく手の平を返す男たちの社交界で、知らぬ間に爛熟していた思い上がりに、私は気づいた。
 その男は、私が想い描いてきた自画像(セルフ・ポートレイト)を、黒焦げにした。私のポートレイトには、奇跡を象徴する光輪(オウラ)や、顔の前に手をかざし、指の間から私の姿を覗き見る尼僧と司祭や、竪琴を奏で私を祝福する天使たちが描かれていた。その男にはじめて出会ったときの不吉な予感は正しかった。男の鋭い眼差しは放射線のように、乳白色の厚い殻に蓋われた私の脳を裸にした。私が寒さに打ちのめされるほど弱いことを、その男は見抜いた。
 肩と背中を露わにしたシルクの紅いドレスを身に纏い、私は雪のベッドに押し倒された。純白のシーツが世界の不浄を覆い隠していた。鮮血の赤は純白に最も似合う色だと、男は言った。寒さも冷たさも(エロス)の痛みで、凍死するときは鮮血のパジャマを着て眠る自分の姿を見て、暗転の闇の中で弾ける光輝に、包まれるのだとも男は言った。
 私はドレスの肩紐を肩から外し、ゼブラの肢で雪原を駈ける半人半獣のメスになった。V字の下着とタイツの黒は、肉食獣の目を惑わせる偽装。私は両手を天にかざし、黒い糸を吐く珍種の蜘蛛の巣網に腰から下をからめ取られる蝶のポーズで、遠い山並みに救いを求めた。白樺並木の向こうに人影が見え、私は白樺が恥じらうほどの大股開きで片足を高々と跳ね上げ、その足を手で支え、もう片方の手を天に差し出し、一本足で立つV字バランスの案山子(スケアクロウ)になった。彫刻のように美しいと男は言った。私は大股開きのまま雪上に倒れ込み、百八十度の開脚で、踵から腿の付け根まで脚を冷やした。純白のシーツに覆われた世界は、私をやさしく抱き止めた。男は私を立たせて雪上に横たわり、私の乳房や股間を仰角で視姦し、太陽を背負う逆行の私をフィルムに刻んだ。足を開いて立つ私は、肉眼で見える最も標高の高い山を跨ぎ、雪山に腰を沈める私は目を閉じて喉を仰け反らせ、その瞬間、風が吹いて粉雪が私の背中や腿を叩き、私は嗚咽の声を上げて泣き出した。
 執事がハンドルを握る四輪駆動車の後部座席で、毛布にくるまり震える私を愛撫しながら、男はサルサのメロディを口移しした。ロッヂの暖炉の前で喉に注ぎ込むホット・チョコレイトの温もりが、胃の壁から私の体に染み込んだ。暖炉の前で私と男は愛し合い、喉を鳴らして唾を飲み込む執事に私は、恍惚に身悶える姿を見せ、自画像が燃やされる嘆きの声を聴かせた。
 硬水で割ったピュアモルトを舌の上で転がした男は、私を売女(ばいた)と罵った。
 熱病にうなされる夜が明け、鏡に顔を写した私は絶句した。瞼が腫れ上がり、目の下の皮が醜くたるみ、(くま)が出来ていた。姿見の前で立ちすくむ私を、男は背後から拘束し、目覚めの挨拶には度が過ぎる情熱で、私の乾いた唇を湿らせた。
 煉瓦の街を走る四輪駆動車は空港(エアポート)に向かい、見苦しい愁嘆場を演じかねない私に、市場や教会のパノラマを見せた。出会ったときと同じように、別れのときはスロウモーションで、男の横顔(プロファイル)が私の網膜に焼き付いた。
 私はまた、悪戯(いたずら)好きな男たちにくすぐられる屋根裏(ロフト)の住人に戻り、無粋(ぶすい)な下界の乱痴気騒ぎにまどろみを破られ、けだるい日々を過ごしている。あり得ない事とあり得る事を区別できずに、他人の言葉を何でも信じる仔猫たちと、赤道直下の陽差しのようにギラギラした瞳で、世俗権力(スノッブ)の仮面剥がしを狙う噛ませ犬たちをからかいながら、私は夜想曲(セレネイド)を口ずさむ。私の着替えと自慰を覗く坊やたちにウインクし、舌なめずりと手招きで夜会に誘う。愛しい者の愛しい物を頬張る夜と、ディルドで仔猫にコネクトする夜が交互に訪れ、大切な部分が腫れ上がるほど雪原に抱かれた記憶が、私の皮膚から奪われる。冷蔵庫でよく冷やしたクリスタルのボトルネックにかたつむりを這わせても、汚辱(ジャンク)が私の視界を(けが)す。
 醜いあひるの子がまた一羽、羽ばたく力を蓄えないまま、摩天楼から飛び降りた。あひるに餌を奪われた白鳥は、ただ衰弱するばかりで、空を飛ぶこともなく死ぬのだと、寝物語で男は言った。
 男から書留の郵便(メエル)が届き、写真が同封されていた。白銀のシーツと戯れ、山脈と契りを交わす私の写真とともに、燕尾服を着た男の膝の上に、青い瞳とブロンドの髪の女が乗り、フォークに刺したエスカルゴを、男の口元に運ぶ写真が添えられていた。暖炉の前で踊ったバレエを、執事が撮影していたことに、私ははじめて気づいた。
 一年後に、男は来る。私は髪を切ることに決めた。

(了)




かたつむり嬢の軌跡 [Novels Menu]


●近ごろTVで見かけるお笑い芸人の演芸は話芸と呼べるものが減り体の動作や顔の造作で笑わせるものが多くなったようで話芸を愉しむなら寄席かラヂオで落語でも聴けばいいのですが何しろ私の耳は人の笑い声が入ると肝心の話が飛び出てしまう特殊な耳でして事情を知らない方からよくお叱りを受けますがこのような特殊な事情を説明しようとすると「弁解するな」「言いわけするな」とまたお叱りを受けますので私は対話なるものをあきらめ言葉ばかりが怒涛のように流れ人と金の流れが淀む世間を観察し世間様でも人間様でもなく神様に願いや祈りを届ける心持ちで殻を背負ってマイペースでのんびり生きる軟体動物がひとの家の窓ガラスにはかない命の軌跡を残すようにだらだらと独り言を垂れ流してばかりいますけれど●それはともかく先日私はにぎやかな盛り場の会合で志を同じくする友人たちにある女についてその女の語調を真似ながら話したところ友人たちから「君の話はまるで酔っぱらいの独り言で酔っぱらいのたわ言も愉快な話ならいいがあれほど鼻につく気取った物言いではこちらが悪酔いして翌朝はひどい二日酔いで困ったよ」と言われたものですからくだんの女についてしらふで話すとして話は長くなりますけれどまあ長話というものは記憶に残りにくいものですしあまりひと様に胸を張ってお話しすることでもなく終わりまで辛抱強くお付き合いいただくのも恐縮で興味があれば記憶機械にでも保存していただき適当なところで区切って再生していただいて構いませんし興味がなければもちろんごみ箱に捨てていただいて構わない話で●前口上はこれぐらいにして本題に入りますと●銘菓・愛上おかきを独占販売する老舗和菓子屋・巳石屋に如月家の第二子として富恵が生まれたのは今を去ること二十七年前の昭和五十年二月六日で二千キログラムをわずかに超える未熟児として生まれた富恵は死産を免れたものの父の丞太郎と母の雅恵が行末を案じる虚弱体質として成育し●三つ年上の姉・華恵に嫉まれるほどの庇護と寵愛を両親から授かった富恵は向こう意気が強く欲しい物があればすぐに手に入れないと気が済まない勝ち気な性格を身に養い●TVドラマや映画で観るロマンスやコメディと現実のギャップにため息ばかりを繰り返し驚くような体験も確かな手応えのようなものもなくただ漫然と時を過ごす日常から外れてみたいと望んだ富恵は塾から家に帰る途中の寂しい道路の片隅で酒に酔った中年男があお向けに横たわり歌を口ずさむ姿を見て十六歳の誕生日を迎えた翌日の平成三年二月七日に家を出て●伝統ある名門校として名高い私立の女子高等学校に在籍し学業成績が同学年で上位から常に二十位以内に入る富恵の突然の失跡に両親も教師も驚き警察に届け出たものの創業百年を超える老舗の暖簾に傷がつくことを恐れた丞太郎は学校に休学の届けを出し警察に内密の捜索を依頼した上で探偵まで雇いそれでも富恵の行方は杳として知れず三カ月が経過して●富恵が失跡したばかりの頃はまた富恵の気まぐれに違いないから三日も経てば戻るだろうと多寡を括り何事もない振りをして音楽大学の声楽科に通っていた姉の華恵にも心の平安を乱される日々が到来し●当の富恵は家を出る十日ほど前に中学時代の友人からテレホンクラブを利用したパトロン探しを聞き及び当時はまだ女子高校生や女子中学生の売春行為が一部の雑誌で取り上げられるばかりで社会問題として騒がれることもなく●外資系保険会社に勤める十二歳上の独身男性と逢引の約束を取りつけた富恵は身なりがよく物腰も穏やかで目がやさしいその男を気に入り四人掛けのテーブルが三十ほど並んだ広い喫茶店の片隅で●家出したばかりで持ち合わせの金がわずかしかなく泊まるところもないという事情を男に話し●男のほうはこれまでテレホンクラブを利用し会社員やフリーアルバイターや大学生の女性と出会い一夜限りの遊びと割り切った付き合いをしたけれど高校生と会ったのは初めてのことで興味本位で会ってみたものの会ったばかりの自分に泊めて欲しいと訴えるこの家出少女には擦れたところがなく良心が咎め●富恵は男から家に戻るよう説得されたものの家は貧しく実の父が数年前に他界し母と再婚した義理の父はアルコール中毒で母に暴力を振るい義父は姉を姦淫して懐妊した姉が先月自殺し義父は姉の代わりに自分を姦淫しようとして母に助けを求めても母は義父の言う通りにしろと言うばかりで怖いからもう家には帰れないと富恵は嘘の作り話を男に聞かせ●家が貧しいと言う割に少女が身に付けている時計や持っているボストンバッグが高額な物だと見抜いた男はまるで視聴者の安直なヒューマニズムに訴え憐れみを求めるドラマのような少女の話が嘘だと気づきながら●同棲していた女と別れて半年が経ち寂しさを紛らわすため女子高校生とのいかがわしい行為を習慣的に妄想してきた男にとっては少女の嘘が疚しい気持ちを打ち消す口実になり目の前にいる制服姿の女子高校生がテーブルに載せた肩肘で頬杖を突きうつむきながらメロンソーダを飲み干したあとのストローを指先でつまみながら舌先で上唇の端を嘗めるかわいらしい仕草を見せるものだから男心に不埒で犯罪的な願望が疼き●男が逡巡する間に富恵は中学三年の夏休みに二つ年上の先輩男子に遠出に誘われその先輩が無免許で運転する車で海岸に行き車の中で下着を脱がされたけれど先輩のほうが不能に陥り神聖な儀式が中止され重苦しい気分で別れたことなど思い出しながら●外資系保険会社に勤める男から性体験を問われた富恵は「ふつう」と答え不通の富恵は嘘をついたわけではないけれど男に普通と誤解させ誤解を上塗りするかのように富恵は財布の中から男根に被せる避妊具を取り出しテーブルに載せて男に見せたあと周囲を見回し●テーブル上の避妊具をひと目から隠すようにまた手で取り上げ「手を出して」と男に言って避妊具を包み込んだ手を男の掌に載せそのまま男と手を握り合い目を見つめ合い●自分が住むアパートに一晩だけ富恵を泊めるつもりだった男は富恵との別れが惜しくなり富恵のほうも家に帰るつもりはなく男との同棲生活を始め男に匿われ庇護される間に将来の役に立ち現在の実収入になるような仕事はないかと男に相談し●男の勧めで外務省や大蔵省の二十代から三十代までの若い官僚が参加する秘密のパーティーに出席し多くの資産家の子息や令嬢と知り合いパーティーのマスコットガールを演じながらリップサーヴィスをトレーニングする富恵は多くの参加者に気に入られパーティーに参加する独身の男からも女からも泊まるところがなければうちにいらっしゃいと誘われ●中学や高校の頃は学校の勉強とTV番組とタレントの話題以外に話題がなく同級生の誰もが無知なので無知で困ったことも恥を感じたこともなく自分が何を知らないか気づかず十六年の人生を生きてきた富恵も年上の者たちと付き合い自分が何も知らないことに気づかされ●高校の同級生には滑舌がわるく間延びしたしゃべり方で「ばかな女のほうが男からかわいがられる」と言う者もいたけれど●富恵がパーティーで出会った者たちは学歴には興味がないものの常識を弁えず教養がない若い女を性行為用の使い捨て愛玩動物と考え●頭のわるい女が尻を振り媚びを見せる間はかわいがっても貪欲に情報を吸収する機能が脳になく情報処理の実務能力でも歌やダンスやスポーツや文芸・絵画などでも際立った才能を見せない女を性風俗業界の仲介人に売り渡すわるい者たちであることを知った富恵はパーティーに参加するときはマイクロカセットレコーダーを太腿の内側に貼り付け小指より小さなマイクロフォンを乳房の谷間に固定し補導された経験のある友人とポケットベルで連絡を取り合い未成年者の話を真剣に聞いてくれそうな警察官の名前と連絡先を教えられ●ついでに新聞社の連絡先も暗記した上で●メモした紙を財布に入れ非常事態に備えたもののその必要がないほど富恵は男女を問わず富裕な者たちの庇護と寵愛を得て国税の一部を受け取ることになり外務官僚が偽造したパスポートで海外に渡航し年間二百日は海外に居る生活を始め●年上の女たちから家事・実務・礼儀作法・遊戯など多くを学び●富恵が知り合った男女はみな交際範囲が広く自分の仕事を最優先し株取引と為替取引と法律に詳しくディベートやディスカッションでは率直かつ理路整然と合理的な思考に基づいて発言し●男たちはナイーヴで純情な男たちと異なり女遊びを心得ていて特定の女に対する執着がなくいついかなるときも自然に女をエスコートできる男たちで●女のほうも視野が広く話題が豊富で男遊びを好み●富恵は社交界の男女から法律と企業経営と外国語を学びながら中国・韓国・台湾・マレーシア・タイ・シンガポールなどアジアの国々を歴訪し●秘密のパーティーではまるで西洋の映画のように誰もが抱擁し合い接吻を交わし合いそこには医師からHIVポジティヴの診断を受け十年経っても発病しないゲイ・アーティストも参加し●愉快な冗談で周りの者を笑わせる陽気なその男にもマウス・トゥ・マウスで接吻する者が多く富恵はその男がHIVポジティヴであるという話も冗談ではないかと疑ったものの信頼できる男女からそれが事実であることとHIVは血管に入ると危険だけれど唾液では感染しないことなど教えられ参加者の中にはゲイ・アーティストと握手さえしない者もいて冗談ではなく事実であることを認めた富恵もはじめはゲイ・アーティストとの身体的接触を避け●「マジョリティだろうがマイノリティだろうが誰とでも仲良くできるわけじゃないさ」とゲイ・アーティストからウインク付きで教えられ●学校では「仲良くしなければいけない」と口うるさく言われてきたけれど無理をして仲良くしなくてもよいのだと富恵は覚り●懇意になったレスビアンのガールフレンドから「あなたは神様のいたずらで間違って女に生まれたのよ」と言われてそうかもしれないと思いながら富恵はしだいに秘め事において愛撫されることより愛撫することに悦びを覚えるようになり●メイクラヴの礼儀作法をレスビアンから見習った富恵は男たちにも自然に慎みと嗜みを見せる令嬢になり●HIVポジティヴのゲイ・アーティストとも自然に体を触れ合い冗談を言い合い互いに相手の悪口を言い合える関係になり●ナイーヴでナーヴァスだった頃には「pretty doll」と呼ばれた富恵の表情や仕草が表現力豊かになり●パーティーに参加する者はみな偏見や差別にも寛容で差別的な発言があっても咎められることはなくその一方でマイノリティが孤立したり排除されたりすることもなく●トラウマが原因で人格に障害と偏りを持つ者や在日外国人や身体障害者やホームレスや戦闘経験者や犯罪で投獄され服役を終えて釈放された者が参加したときには本人が語る体験談に誰もが静かに耳を傾け主催者の代表質問と応答が終われば関心ある者はその場に残り個別に質問し関心がない者はその場を離れ気が合う者とおしゃべりをして●「あくまで情報交換が目的で自己主張の場ではない」と主催者が何度も趣旨を訴えるパーティーではみなジェントルで穏やかな話し合いを心がけている様子でそれでも主催者が訴える趣旨に反して時には感情が衝突する議論が生じることもあり「君は偽善者だ」と誰かが大きな声を挙げ「たとえ偽善的でも目標や理念がないよりましだ」と誰かが言い返す場面も見られ議論が起きても周りの者はどちらかの主張に加担することも自分の意見を主張することもなくただ首を横に振りため息をつき呆れたような憫笑を顔に浮かべ視線を交わし合うばかりで議論が大きな騒動に発展することはなく●富恵はパーティーで知り合った人間との交際であらゆる欲求と欲望が満たされエゴを主張する必要性を失い●他人に自分を見くびらせる愉しみと献身や奉仕の快楽を知り人間を観察し記録する習慣と他人に嫌味を感じさせない程度の慎ましいあつかましさを身につけ弱冠二十二歳で赤坂のタイ料理店「チャオプラーヤ」のオーナーになった富恵の店は客の評判がよくメディアから取材の申し込みが重なるほど繁盛し●ひと前に出て脚光を浴び騒がれることを嫌う富恵はメディアに出ることはなく店長の黒増富雄が富恵に代わりメディアに応対し富恵は週に三日は従業員を装い接客をして自分が経営する店を訪れる客の一人ひとりについて顔と癖と食材の嗜好・偏食を記憶し●容姿端麗で器量もよく官能の天賦に恵まれた富恵は男性客からデートに誘われることもあり富恵は店長の黒増と口裏を合わせ夫婦を擬装し誘いを断り●TV局のアナウンサーになった姉の華恵とも八年ぶりに再会し父の丞太郎も母の雅恵も健在であることを知り公私ともに順風満帆と思われた富恵の人生に転機が訪れたのは一昨年平成十二年の秋で●「チャオプラーヤ」が開店した年に店長の黒増が知人の借金の保証人として借用書に署名と捺印を行いその黒増の知人が一昨年秋に多額の債務を残したまま失跡したことで窮地に立たされた黒増は富恵に相談し●富恵が旧知の官僚に連絡を取ろうとしてもかつての庇護者はみな省庁の内紛に忙殺され官僚と接触すれば公金流用に敏感なメディアの好餌になると覚った富恵は「チャオプラーヤ」の土地・建物と住居にしていた分譲マンションをひとに売り渡し従業員の退職金と黒増が引き受けた債務の返済に充て富恵の手元には五十万円をわずかに超えるほどの金が残り●パーティーで知り合ったブラジル人がアルバイトとして働くパブの二階で南米や南アジアで生まれ日本に住む者たちと共に暮らす生活を富恵は始め旅行会社に勤めるイタリア人女性にエグゼクティヴ・マネージャー・クラスの客を取らせる娼婦の仕事で収入を得ることになった富恵は身の上も身の下も堕落した日常を嘆き悲しむどころか家出してからひと時も息を抜けなかった日常の緊張から解放されたことを喜びロング・ヴァケーションを過ごす気分でスケッチブックにボーイフレンドやガールフレンドの顔を鉛筆でデッサンしながら不足しがちな物と金を節約する不便で不自由な生活を在日外国人とともに愉しみ●「貧乏」と「貧困」を区別した建築家アントニオ・ガウディの言葉に共感し勇気づけられ陽気に振る舞う気丈な富恵も時には気分がふさぎベッドサイドのフローリングで両腕で抱えた膝に顔を伏せて考え込み一時間も二時間もじっと動かないまま時を過ごすこともあり●そんな暮らしを続けて初めて迎えた冬にふと立ち寄った社交ダンスの教室で四十代前半のフォト・ジャーナリストの男性と出会いその男も富恵にひと目惚れして酒場に誘われた富恵は二十六歳十一カ月という年齢で生まれて初めて異性に恋をして●四週間前までパキスタンとアフガニスタンの国境付近にいたという男の筋肉質で傷だらけの皮膚に触れる奇跡と名誉に富恵は身も心も焦がれるほどの情熱で遇し●オーストリアの冬山で男の助手を交え三人で過ごしたヴァカンスの最後の晩餐で男は富恵に「恋は異なもの味なものでのど元過ぎれば熱さを忘れる」「恋は実も種も残さず枯れる花だ」と言い残して別れ●そんな気障な科白にも嫌味のない男はいま欧州各国を訪問しユーロ市場の市民生活を取材していると●如月富恵の話を私はこうして聞き書きしていますが私はいま富恵の下僕のような生活を送り富恵の下僕という身分にこの上ない至福を感じ●椅子に腰をかける富恵の前で土下座をすると富恵は足裏で私の頭を撫で回してくれて「恋は酢の物味の素」と私がくだらない冗談を言えば富恵は直径三十ミリほどの棒を膝裏に挟んだ正座を私に命じ私の腿の上で富恵が足踏みをしてくれて●納豆かけごはんや生卵かけごはんやバター醤油かけごはんやマヨネーズ醤油かけごはんや焼肉のタレかけごはんに漬け物か佃煮があれば十分に満ち足りた気分になる貧しい食生活を送っていた私のために富恵は料理を作ってくれて●台所に立ち料理をするとき富恵は全裸でうつ伏せになった私の体を踏み台にして揚げたての熱い鱚の天ぷらを私の裸の背中や尻にわざと落とすようないたずら者で●私は憎くて憎くて殺してやりたいほど富恵を愛し始め●富恵はいつ私の前からいなくなるかわからない気まぐれな女ですが会えないひとを愛せない私は富恵との生活が一日でも長く続くことを望んでいます。

(了)


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Text written by 火鳥冬星
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