
エビフライ [Novels Menu]
いずみはあつかましい女である。
あつかましい女であるために、というわけではないが、いずみは日頃の努力を怠ら
ない。歯を磨くのに三十分も時間をかけ、化粧と服選びに一時間かける。いずみの朝
ははた目には優雅に見えるが、真剣勝負である。
新聞は一面からテレビ欄まで、すべての面に目を通す。仕事帰りには書店に立ち寄
り、哲学書、文芸書、ビジネス書、語学書が並ぶ棚を眺める。題名を読むだけで、棚
から本を抜いて中身を読むことはないし、本を買うこともない。本の題名を眺めたあ
と、ファッション雑誌を買って店を出る。
テレビはバラエティ番組とコメディ・ドラマを好んで観る。父の為五郎と母の富子
は大笑いしながら観るが、いずみは真剣な目で画面を凝視し、絶対に笑わない。俳優
がドラマで下手な芝居をしようものなら、いずみは険しい顔で舌打ちをして、こめか
みに血管が浮き上がる。
高校に入り、はじめて迎えた冬に、いずみは女優になることを決めた。
高校の演劇部に入ったいずみは、役者ではなく演出を担当した。自分の演技を人に
見せるより、役者の演技を見て、どこがまずいか見てやろうと考えた。本当は劇団に
入りたかったが、いずみが住む人口七千人の町にも、高校がある人口六万三千人の市
にも、劇団がなかった。
高校を卒業したいずみは、人口八十五万人の市にある理容美容専門学校に進学した。
いずみは美容師ではなく理容師になった。理容師の資格を取っておけば食いっぱぐれ
ないという理由もあるし、美容師になって田舎の町で生活に疲れた口うるさい主婦の
相手をするより、理容師になって中学生以下の男の子や髪の毛が薄くなった中高年男
性の相手をするほうが、仕事が楽だと考えた、という理由もあるが、一番の理由は、
父親の為五郎が理髪店を経営していたからだった。為五郎の店は「めじり理髪店」と
いう名で、なぜ「めじり」なのかいずみにもわからない。
いずみは専門学校を卒業し、駆け出しの理容師としてめじり理髪店で働きはじめた
が、女優になる夢をあきらめたわけではない。いずみは怖い女を演じる女優を目指し
た。
女優モードに入ったいずみは、人格が変わる。仕事中、いずみの女優モードにスイ
ッチが入った。最初の犠牲者は高志という名の中学一年生男子で、怖い女を演じるい
ずみにビビッた高志は、椅子に座ったまま小便を洩らし、失神した。
高志をビビらせたいずみは反省するどころか、自分の演技に自信を持った。電気屋
の倉田さんや金物屋の高橋さん、肉屋の下山さんら延べ十三人が、いずみの犠牲にな
り、めじり理髪店の客はバーバー・カワセに奪われた。椅子に座ったまま客が小便を
洩らすたび、為五郎は頭を抱えた。
為五郎はいずみを解雇し、いずみは人口八十五万人の市にある事務機のリース会社
にお勤めすることになった。
OLになったいずみは、駆け出し理容師の頃の失敗とは関係なく、自分の過ちに気
がついた。女優は素と演技のギャップが大きいほうがいい、怖い女を演じるなら、プ
ライベートではかわいい女になろう、いずみはそう考えた。
いずみの頭の中では、プライベートとパブリックが逆転している。会社にいるとき
の自分はプライベートで、家に帰ってから演技の練習をしている自分がパブリックだ
と、いずみは思っている。会社にいる間はかわいい女を演じようといずみは思った。
かわいい女を演じるうちに、いずみは本当にかわいい女になった。電話の応対、帳
簿の記帳と収支計算、コピー取り、来客へのお茶出しなど、何をやらせても失敗ばか
りで、取っ掛かりが遅く、動作が鈍い。ビジネス社会のマナーやエチケット、帳簿の
付け方、コピー機やファクシミリの使い方など、いずみは何もわからず、私語や無駄
口が多い。支店長や先輩社員はイライラして、怒鳴り声でいずみを叱った。
怒鳴られたときもいずみは歯を食いしばり、力ずくで笑顔を作って、おへその辺り
まで深く頭を下げながら「すいませ〜ん」と明るく元気に、大きな声ではきはきと謝
った。真剣に反省している様子が見えないいずみに、上司も先輩社員もムカついた。
パーソナルコンピューターの操作を命じられたいずみは、パソコンの使い方を先輩
に訊いたが「マニュアル見れば?」と言われて突き放された。パソコンが載った机の
下に、マニュアルらしい本が五冊ほどあり、どれを読めばいいかわからなかったし、
中を開いて読んでもチンプンカンプンだった。電源を入れ、やみくもにマウスを動か
し、キーボードのキーを押しているうちに、パソコンから煙が出た。
男性の社員が親切に、パソコンの使い方を教えてくれたが、女性社員はいずみの失
敗を見て底意地の悪い笑顔を浮かべ、女子トイレでいずみの陰口を言い合った。
仕事では役に立たないくせにいずみは、男性社員から食事に誘われると、食事のあ
と会計の前に必ず「ごちそうさまです」と言い、誘ってくれた男性社員におごらせた。
遠慮がちで控えめな女性社員や、男性に媚びるまいと意地を張る女性社員から見ると、
いずみはずうずうしくてあつかましくて、超ムカつく女だった。いずみの頭の中では
ずうずうしさやあつかましさも、女優に必要だった。ほかの女性社員をムカつかせ、
いじめられ、嫌がらせに耐えることも、女優には必要だと考えた。
いずみに対する女性社員の冷たい態度で、社内が気まずい雰囲気になり、いずみが
嫌になってすぐ会社を辞めるだろうと思った男性社員も、いずみと距離を置くように
なった。
ただ一人を除いて。
「あたしって、会社の空気を悪くしてるでしょ?」
営業課長の兼辺寛治にタメ口で、いずみはたずねた。たずねるいずみの顔は笑顔で、
声は明るい。社内の気まずい雰囲気をいずみはものすごく気にしていたが、さほど気
にしない振りをしていた。
「そうだね」
明るい声で寛治はあっさり答えた。上司も先輩もいずみのタメ口に不快感を露わに
するが、寛治はさっぱりあっさり淡々としている。男性社員の中で寛治だけが、いず
みに食事をおごり続けている。
いずみと寛治はイタリアン・リストランテにいる。寛治の通い慣れた店で、本場の
イタリア料理を食べ慣れた料理評論家が、この店について「こんな物はイタリア料理
ではない」と雑誌に酷評を載せた。それ以来、客足は激減したが、寛治のように通い
続ける客もいる。
いずみはペスカトーレ・アラビアータを注文し、寛治はエビフライを注文した。
――この店はね、イタリア料理の店だけど、注文すればシェフが何でも作ってくれる。
ラーメンみたいにスープに手間暇がかかる物は無理だけど、イタリアンの食材を使っ
た料理なら、何でも作ってくれるよ――はじめていずみをこの店に誘ったとき、寛治
はそう言った。
「あたし、クビになるかなあ?」
いずみは明るい顔と声で、寛治にたずねた。
「たぶん、そうだね」
寛治はまたあっさり認めた。
「クビになったらどうしよう」
独り言のように不安を漏らしたいずみに、オレと結婚すれば? と、寛治はあっさ
りプロポーズした。
「え?」
驚いたいずみは言葉に詰まった。とまどって返す言葉を失い、パタパタと激しくま
ばたきをしながら寛治の目を見つめるいずみに、あ、やっぱり彼氏いないんだ? と、
寛治は突っ込んだ。
「なんで?」
「だってさ、オレと結婚すれば? って訊かれて、彼氏がいるなら、彼氏がいるから
ダメってすぐに答えるでしょ。彼氏いないから考えちゃったんでしょ?」
言われてみるとそうだといずみは納得した。
「あたしと結婚したいの?」
そうだね。
「あたしのどこがいいの?」
「半人前のところ」
寛治からあっさり「半人前」と言われ、いずみの頭の中に「ガーン」という擬音が
浮かんだ。そりゃ会社の仕事は半人前だけど、実を言うとあたしはね……と、女優に
なる意志が口から出そうになり、その言葉を呑み込んだ。ペスカトーレ・アラビアー
タもエビフライも、まだ来ない。
「なんで半人前がいいの?」
それはね、もうオレはギスギスした世間が嫌になったの。オレが付き合ってる人た
ちって、みんな神経質で気難しいの。失敗が怖いとか、恥をかきたくないとか、自分
の短所や欠点を見抜かれたくないとか、そういう気持ちがあると思うんだけど、とに
かく他人の視線や言葉に対して、嫌になるくらい敏感なの。人それぞれみんな違うん
だからさ、ズレてるのが当たり前だとオレは思うんだけど、違和感があるとか浮いて
るとか、まるでそれがいけないことみたいな言い方するんだ。違和感があるってこと
は、存在感があるってことでしょ? なんだかみんな、その場の雰囲気に馴染もうと
か、同化しようとか、そういう意識があるような気がするんだ。
とにかくもう、うるさいんだ。誰もやらないような事やる人って、偉いなってオレ
は思うけど、なんでそんなことするんですか? やらなくてもいいじゃないですか?
って、必ず誰か言うんだ。自分に出来ない事を出来る人とか、自分が知らない事を知
ってる人とか、オレは尊敬するけど、そういう人に対して敬意を示さないで、気に入
らねえなあ、なんて、すぐにガキみたいなこと言うんだ。先輩から注意されてムカつ
いたら、その場ではとりあえず、はい、わかりました、とかなんとか言っといて、腹
ん中でバカにしときゃいいんだけど、注意されるといちいち言い返すんだ。
怒りとか悔しさとか悲しみとか、そういう感情はものすごく大切なものだから、た
やすく他人に見せちゃいけないの。何かが気に入らないとか、傷つきやすいっていう
ことは、小心で度胸がない証拠っていうか、自分の器量が小さいってことだから、そ
れを他人に知られちゃいけないの。どいつもこいつも小ぢんまりまとまってるから、
細かい事にうるさいの。
加藤さんはね、うちみたいな会社にいたら窮屈で息苦しくなっちゃうよ。会社の仕
事で半人前ってことは、ほかの事で一人前なんだ。だから、オレと結婚しよう。
オレのこと、カンチって呼んで。
そこまで寛治が話し終えると、ペスカトーレ・アラビアータとエビフライがやっと
出た。
「うわあ」といずみは思わず驚きの声を上げた。寛治が注文したエビフライは長さが
二十センチを超え、太さはいずみの親指の長さほどあった。ペスカトーレ・アラビア
ータが盛り付けられた皿よりひと周り大きな皿に、三尾が載っていた。タルタルソー
スもたっぷり添えられ、オレンジ色と黄色の間の微妙な色合いに揚げられたコロモが、
いずみの目にキラキラと光って見えた。
「一個ちょうだい」と、いずみはあつかましいことを言った。寛治はいつものように
あっさり「いいよ」と答えるだろうといずみは勝手に思い込み、寛治が答える前にエ
ビフライの一つにフォークを刺し、ペスカトーレ・アラビアータの上に載せた。
「あ!」と声を上げた寛治は、珍しく感情を剥き出しにしたリアクションを見せた。
エビフライの太さと同じぐらい大きく口を開け、目をまん丸に見開いて、不服そうに
いずみの顔を見た。
「これで半人前だね」
寛治の皿に残った二尾のエビフライを見たあと、寛治の目を見てにっこり笑いなが
ら、いずみは言った。
寛治ははじめて、いずみを憎いと思った。
「あたし、女優になるの」
食事を終えたあと、砂糖を入れずにミルクだけ入れたコーヒーを口に含みながら、
いずみは両親にも話したことがない秘密を寛治に打ち明けた。「女優になりたい」で
はなく「女優になる」といずみは言った。
天井を見上げ煙草の煙を吐いた寛治は、あっそ、とあっさり答える。その答え方が
いずみには気に入らない。
「信じてないでしょ?」
「信じてるよ」
「あたし、女優になるから、結婚できないの」
いずみからそう言われ、寛治はいずみの顔から視線を逸らし、何かを考えるように
険しい顔で右方向三十度、仰角四十五度を見上げた。寛治の右手の人差し指と中指に
挟まれた煙草が、フィルターのすぐ近くまで灰になる。いずみは寛治の手元まで、指
先で灰皿を押しやった。
「どっか劇団に入ってんの?」
灰皿の底で煙草の火をもみ消し、寛治はたずねた。
「入ってない」
「プロ・デビュー決まってんの?」
「決まってない」
寛治はまた険しい顔で右方向三十度、仰角四十五度を見上げ、いずみの目に視線を
戻し「オーディション受けたら?」と質問形で助言した。「オーディション受けて合
格だったら女優になる。不合格だったらオレと結婚する。それでどう?」
今度はいずみが唇をとがらせ、困ったような顔で考え込んだ。
イタリアン・リストランテを出たあと、人波が足早に駅に向かう歩道を二人はゆっ
くり歩いた。いずみはマリオネットのように爪先で宙を蹴り上げながら、寛治の前を
歩く。対向車のヘッドライトに包まれ左右に肩が揺れるいずみのシルエットを見なが
ら、いつもより遅いテンポで寛治も歩く。
「カンチ!」
急に立ち止まり、寛治に背中を向けたままいずみが声を上げ、振り返って寛治の目
を見た。
「セックスしようか?」
ハーフコートのポケットに両手を突っ込んだまま、いずみが言った。
懐かしいテレビ・ドラマの名シーンが再現されることを、寛治はこころ密かに期待
したが、まさか本当にいずみが再現するとは思っていなかったので、驚いた。
いずみにエビフライを奪われた寛治は、辛子色のセーターの上からいずみのからだ
にフォークを突き刺してやろうかと思ったが、寛治の部屋には白いフォークギターが
あっても、食器のフォークはなかった。
「うちのお父さん、ホントは男の子が欲しかったんだって」
アパート暮らしの寛治の部屋で毛布にくるまり、いずみは話した。六畳の和室にキ
ッチン・トイレ・バスが付いた古いアパートで、狭くて汚い部屋だった。冬になると
寛治はいつも、こたつに入ったまま寝てしまう。今年の冬はこの日はじめて、寛治は
押し入れから敷布団と掛け布団を出した。
「じゃ、オレが息子になればいいんだ?」
婿養子として、いずみの家で暮らしてもいいと寛治は考えていた。寛治にはもう両
親も兄弟姉妹もいない。
年が明けてはじめて書店に並んだ雑誌に、いずみは映画女優の公募広告を見つけた。
ベストセラー小説「あすみ野駅の浮遊霊たち」が映画化されることになり、享年二
十一歳の幽霊・須藤沙紀役の女優が一般公募されている。鬼才と呼ばれるメディア・
プロデューサー、来栖雅の五作目の監督作品だった。
原作を読んだいずみは、この役を演じられる女優は自分以外にいないと思った。
来栖の事務所に応募はがきを送った二週間後、応募用紙が封書で届いた。顔写真と
全身写真を三枚ずつ、正面向き・右向き・左向きで撮影し、書類に貼る必要があり、
応募要項には全身写真について「水着姿」と書かれていた。いずみは寛治に撮らせた
全裸のヘア・ヌード写真を貼った。
書類審査を通過したいずみは、テレビ局の建物にある一室で、面接を受けることに
なった。控え室には自分と同年代らしい女がたくさんいて、テレビでよく見る有名な
女性タレントもいて、みんな美人で殺伐とした緊張感がみなぎり、誰かと目が合った
ら顔の皮膚が切れるんじゃないかといずみは思った。目を閉じて俯き、顔の前で両手
を組んで、お祈りの姿勢をする者もいた。脚を組み、反らせた胸の下で腕組みをして、
意地の悪い目で周囲を睨み回す者もいた。ふてぶてしい振りをしても、組んだ脚の貧
乏揺すりで、緊張していることがわかる。携帯電話の着信メロディが突然鳴り出し、
女たちの視線が一斉にその音に注がれる。
いずみはハンドバッグから文庫本を取り出し、本を読みながら自分の出番を待った。
読み始めてから七ページ目を開いたところで、自分の名前が呼ばれた。
セーターとジーパンを着た男に案内され、面接会場の部屋に入ると、テーブルの上
に並んだ書類にボールペンで書き込みをしていたプロデューサー兼監督の来栖雅と、
原作者の小林横蝶と、荒川輝政役を演じる有名男優の鳴海小生が、鋭い目付きでいず
みを見た。
「エントリーナンバー五十六番の加藤いずみです」といずみは張りのある声で言い、
座れと言われていないのに、三人と向き合う形でセッティングされたパイプ椅子に、
腰を降ろした。
小林横蝶と鳴海小生はテーブル上に積まれた書類の中から、いずみの応募用紙を探
し始め、来栖雅は胸の前で腕組みをして、まばたきもせずいずみの目をじっと見詰め
た。
自分の目をじっと見る来栖の目を見ながら、にらめっこだ、といずみは思った。面
白い顔をして来栖を笑わせなきゃいけないと考えたいずみは、顔のパーツが鼻の頭に
集まる顔をイメージして、口を閉じたまま変な顔を作った。いずみが変な顔をすると、
来栖の顔が一瞬、険しい表情になり、来栖も下唇を突き出して頬を膨らませ、目を剥
き出して、変な顔を作った。来栖の顔を見て吹き出しそうになったいずみも頬を膨ら
ませ、必死で笑いをこらえた。来栖といずみのバトルは三分続き、小林横蝶と鳴海小
生はあきれ顔で、来栖といずみの顔を交互に見た。
「君は……肉体労働の経験はありますか?」
にらめっこを切り上げた来栖が質問し、「ありません」といずみは答えた。
「性風俗産業とか裏ビデオとか援助交際とか、そういう類の肉体労働でもいいですけ
ど」
ありません、と答えようとして、いずみはある事に思い当たった。
「立ち仕事ならあります。わたし、理容師でした」
鳴海が感心したように首を何度か縦に振り、質問しかけた小林横蝶を来栖が制し、
いずみに宣告した。
「じゃ、いいや。今日は帰っていいよ」
いずみは驚き、言葉を失った。
「君、不合格ね」
来栖はあっさりと言い、「ガーン」という擬音が頭に浮かんだいずみは脱力して、
椅子から立ち上がるまで時間がかかった。やっとの思いで立ち上がったいずみは、幽
霊のように生気を失った顔で、何も言わずに部屋を出た。
「へも!」
いずみが面接会場を出ると来栖は怒鳴り声で、部屋の隅にいた「へも」と呼ばれる
アシスタント・ディレクターを呼んだ。「お前、警視庁の村藤さん、知ってるだろ?」
「貴さんですね?」
「貴じゃねえ。下の名前は貢だ」
「知ってます」
「貢さんに頼んで、いまの加藤いずみって子の身辺調査をしてもらえ。来年のドラマ
であの子を使う」と言って来栖は、尻のポケットに入れた財布からクレジットカード
を抜き取り、へもに差し出した。
「村藤さん、いま行方不明になってますよ」
「ウソ? また山ごもり?」
「また、ほかの惑星と交信するつもりかも知れません」
「あの宇宙人、何考えてんだよ。NHK土曜深夜のドラマは観るなって言ったのによ。
しょうがねえな。へも、おめえがなんとかしろ」と言って来栖は、クレジットカード
をへもに渡した。
「へい! がってんでさぁ」とへもは答え、面接会場を出た。
「あんた、この子とやりたいの?」
へもが退出したあと、いずみの応募用紙に貼られたヌード写真を見ながら、小林横
蝶が来栖にたずねた。
「べ、べつにそういうわけじゃなくてさあ」と言い訳がましく答える来栖は、横蝶か
ら二センチ離れた。
「あたしも脱いでみようかしら」
今年でちょうど五十歳になる横蝶の爆弾発言で、来栖と鳴海の血圧が一気に下がっ
た。
オーディションで不合格になったいずみは、兼辺寛治と結婚する覚悟を決めたが、
いずみの父・為五郎が二人の結婚に反対した。結婚するなら旦那は婿養子になるのが
当たり前、婿は床屋で、店を継がなければ駄目だと為五郎は言う。
いずみと寛治は風呂に入った為五郎の背中を洗った。為五郎は寛治に試練を課すこ
とにした。
めじり理髪店と住居を兼ねた建物の裏側は、崖に面していた。崖の上に雑木林があ
る。為五郎は建物と崖の間を指差し「ここんとこスコップで土掘ってさ、そこのコン
クリのU字溝入れて、水が流れるようにしてくんねえか?」と、寛治にドカタ仕事を
頼んだ。スペースに余裕があれば業者に依頼し、ミニ・ユンボで掘ればすぐに終わり
そうな仕事だが、何しろ建物と崖の間は大人が一人しか入れないほど狭い。いずみと
結婚するため、寛治は慣れない肉体労働を引き受けた。
会社が休みの土曜・日曜・祝日に、寛治はスコップで土を掘る。掘った土をネコ車
に放り込み、かつては畑として使われていた庭の一区画に、土を積む。積まれた土は
業者のトラックに積んで運んでもらう。
いずみは寛治を手伝おうとしたが、一人でやると寛治は答えた。いずみは寛治と自
分のお弁当を作ることにして、料理を研究するようになった。お弁当の中には必ずエ
ビフライが入る。
寛治は大量の汗を流しながら、黙々とひたすら土を掘る。固い地盤を掘り起こすと、
やわらかい土に戻る。為五郎の頭は固いが、こころは動く。
テレビのバラエティ番組を観ていたいずみは、小太りで目が細く、眼鏡をかけて前
頭部がM字型に禿げ上がったお笑い芸人を見て、閃いた。
松福亭鶴瓶 ベル突いて工夫よし
しようふくていつるべ べるついてくふうよし
中学生の高志をビビらせたとき高志は、上から読んでも下から読んでも読み方が同
じになる回文に凝っていると言っていた。自分も面白い回文を作りたいと思い、いず
みは新聞の見出しや書籍の題名を読み、いろいろ言葉を組み合わせて研究してきたが、
うまく行かなかった。あれから一年以上が過ぎ、いずみの回文がやっと出来た。
努力は必ず報われる。
三日間、雨が降り続いたあと、いつものように土掘りのためめじり理髪店に行った
寛治は、先週掘った場所を見てがっかりした。崖の上から土砂が崩れ落ち、苦労して
せっかく掘った溝が土砂に埋まっていた。ムカついた寛治はヤケクソになり、溝を埋
めた土砂をスコップで掬い、力任せに放り投げた。
土木はかなわず婿荒れる。
(了)
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Text written by 火鳥冬星
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