竜月の息切れ 
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■少年編

 頭のわるそうなガキが大きな声で「エースをねらえ」の主題歌を歌っている。
 クラスメイトが大勢いる食堂で、話し相手もなく一人で、かきあげの天ぷらそばを
すするのがいやだから、私は売店で買ったパンをここで食べることにしたのに、なぜ
かグラウンドにガキがいる。
 バックネット裏のベンチに腰かけた私に気づいて、その男の子は歌うのをやめたけ
れど、しばらく私と目を合わせたあとにまた、最初から大きな声で歌い始めた。テニ
スコートに立った選手はみんな孤独で、相手選手も審判もギャラリーも私のことをわ
かってくれない、走り回れば風を感じる、空は晴れている、血が出るくらい唇を噛み
締め、がんばって踏ん張ってラケットでボールをジャストミートして、とにかく全力
を出し切ろう、そんな歌だけど、いまの私はがんばりたくない。
 小学校の三年か四年、かな。ピッチャーズ・マウンドであぐらをかいて、大きな声
で歌いながら片手でマウンドの土をつかみ、つかんだ土を一塁側や三塁側に投げる。
ワン・コーラス目の歌詞しか知らないのか、最後の「エースをねらえ」のあとにまた、
歌い出しの「コートでは」が始まる。私もワン・コーラス目の歌詞しか知らない。
 あの少年と同じくらいの歳だった頃、私はいやなことをすべて忘れるくらい無我夢
中になれた。あの頃はボールがよく見えたし、体もすばやく反応した。もうちょっと
がんばれば届く、そんな感じがして、もっと練習しようと思った。練習しても仕方が
ないと、いつからか思うようになった。
 あ。ガキがくしゃみをした。青っぱなが出た。トレーナーのソデではなをぬぐった。
顔をしかめてはなをすすった。のどぼとけが上下に動いた。はなみずを飲んだのだ。
汚い。
 はなみずを飲んで、また歌い始めた。あのガキ、やっぱりバカだ。
 トレーナーの胸に人をバカにしたような笑い顔の、竜のイラストがプリントされて
いる。ベタな色使いでデザインがダサい。なぜ野球場で「エースをねらえ」を歌って
いるのだ。お葬式の帰り道で「アルプスの少女ハイジ」を歌うようなものではないか。
 息切れしたのか、少年は歌をやめ、深いため息を吐いた。子どものため息。見なけ
れば良かったと思ったけれど、見てしまった。
 その日の夜は、田んぼの向こうの雑木林のすぐ上に、月が出た。月光が雑木林のシ
ルエットの黒さを濃くして、蒼い空と地上の境界をきわ立たせる。
 青っぱなを垂らすガキを見たのは、久しぶり。
 私はちょっとだけ元気になり、お風呂で「エースをねらえ」を歌う。


■青春編

 国語の試験で「がりょうてんせい」を「画竜天晴」と書いたのは俺だけじゃないは
ずで、絵に描いたモチは食えないが絵に描いた竜は天晴[あっぱ]れ、見事[みごと]な
物じゃほうびを取らすぞ近う寄れ、とバカ殿様に褒められた画家が大昔いたに違いな
い――とかなんとか四文字熟語の字だけでなく意味まで勘違いしていたら、入学した
高校の国語教師がツルッパゲ、ヤカンのごとくみごとに照り輝くハゲチャビン、腹の
あたりと尻のあたりも服の下にヤカンがあるかと思われるほど出っぱって、あだ名は
ずばりカンテラ――そんなずんぐりむっくりハゲ教師から、レンズがぶあついメガネ
の奥の、開いているか閉じているかはっきりしない細い目で、「てん」は天ではなく
点、「せい」は晴ではなく睛と正され、おめえのようなアンポンタンはオレんとこで
鍛え直してやると言われ――このツルピカハゲ丸教師が実は水泳部の顧問、俺は前年
のそのまた前年に新設された男子シンクロナイズド・スイミング部、略してダンシン
グ部に入部させられる羽目になり、このダンシング部には創設三年目にして早くも奇
妙[きみょう]奇天烈[きてれつ]なセレモニーが先輩から後輩へ伝承されつつあり――
このセレモニーというのが実に男子校的、別名「潜水艦」と呼ばれるもので、競泳用
のパンツを脱ぎ、スッポンポンの全裸でプールに飛び込んで、水中にあお向けの体を
沈めたまま男子の珍宝[ちんぽう]、生殖の片棒、我が部の隠語で言うならP助のみを
水面に立て、ちょうどP助が潜望鏡に見立てられるという蛮行[ばんこう]で、俺の場
合P助のPはポークビッツの頭文字でもあるのだが――それはともかく水中に体を沈
めたまま水面にP助を立てるなら、それなりにP助が張り切る必要があるわけで、張
り切り過ぎるとP助が腹の方に寝てしまい、身体に対し九十度の角度を維持する程度
の張り切り方というのが難しく――セレモニーで自分の出番が来るまで部員は瞑想と
いうか妄想というかイメージトレーニングをやってP助を奮い立たせ、俺の出番が回
って来た頃はとうに日没を過ぎて夜空にまん丸の月が浮かんでおり――月光を見てい
た俺は永井豪の漫画「けっこう仮面」を思い出したが、どうも永井豪が描く女子の裸
体画は俺のP助を奮い立たせる助けにならず、永井豪の裸女画には何かが足りない、
ああ、これが「画竜点睛を欠く」の意味かと納得したが、いまは四文字熟語の意味よ
りP助を張り切らせる方が大事――目を閉じた俺のまぶたの裏に巨乳グラビア・アイ
ドルの込家[こみけ]恵富子[えふこ]ちゃんがFカップのバストをゆっさゆっさと揺す
って現れ、俺は恵富子ちゃんの乳房の間にP助を挟む場面など妄想し、夜空に浮かぶ
まん丸のお月様が恵富子ちゃんの豊乳片割れに見えたりして、P助が危うく潮を吹き
かけ「潜水艦」ではなく「鯨」を披露しそうになったが――恵富子ちゃんの豊乳片割
れに見えたお月様が顧問カンテラのツルピカハゲ頭へと見え方が変わり、潮吹きの手
前でなんとか踏みとどまったP助を身体に対し九十度の角度にキープしようと思うが
潜望鏡は腹の方やら腿の方やら右の腰骨側やら左の腰骨側やらグラグラと揺れて落ち
着かず息継ぎをしたいが水面に顔を出すと敵艦すなわち先輩部員が寄って来て足裏・
脇腹・乳頭などをさんざんくすぐられた挙げ句P助の最もデリケートな部分に筋肉の
炎症によく効く強烈な冷やし系薬剤を塗られ、競泳パンツ姿で女子校までランニング
して、発声練習しているコーラス部の目の前でケヤキの木に登り大声でミンミン叫ぶ
「セミ」という罰ゲームをやらされるので、何がなんでも水面に顔を出すわけにいか
ないが右隣のチバちゃんがついに「鯨」をやってしまうやら左隣のジュンヤがこらえ
きれず水面に顔を出し息継ぎ直後の刹那に「タイタニック!」と叫んだあと両脚をぴ
ったりくっ付け体を真っ直ぐ伸ばして水中逆立ちで沈没シーンを演じてしまうやらな
んだかんだで潜水艦「竜月丸」を自称する俺ももう息切れだ。


■成人編

 テレクラでゲットした人妻の背中に、竜がいた。
 バスルームから出て来た奥さんが、ガウンを脱いで俺に背中を向けた瞬間、奥さん
は姐[あね]さんになり、俺はあっしになった。
 三十五歳と言っていたが尻の張り、膝裏[ひざうら]のH度など、二十代の若々しさ
だ。週刊誌のグラビアでも、アダルトビデオでもアダルトサイトでも、これほど見事
にくびれた腰を見たことがない。窓から差し込む月光が、姐さんの背で舞う蒼い竜を、
妖しく美しく照らし出す。
 竜の尻尾[しっぽ]が踊り出す。上体をひねり顔の右半分を見せた姐さんが、唇の端
を上げて不敵[ふてき]な微笑をあっしに見せる。

――覚悟はええな?

 関西か中国か四国か俺には判別できないが、西の方言で姐さんが言う。足がすくむ
し腰が砕けた。ヴェルヴェットのカーペットが敷き詰められた床に、あっしの膝が崩
れ落ちる。
 セミダブルのベッドの脇にしゃがんだ姐さんは、片膝を突いた足の踵[かかと]に尻
を載せた格好で、臑[すね]を立てた脚の腿が、叢[くさむら]が騒ぐデルタをあっしの
視線から隠す。背筋を緊張させた姐さんの姿勢と所作[しょさ]は、上品で優雅で美し
い。姐さんの手が、高額ブランド・ハンドバッグの中を探る。
 ベッドサイドのテーブルに、精力剤らしいドリンクの、茶色の小壜が五つ並んだ。
五本とも同じラベルが貼られている。「蠍鼈」と赤で縁取[ふちど]られた金色で、燃
え上がる炎を連想させる字が書かれているが、あっしには読めないし、意味もわから
ない。

――これで三日はもつやろ。
 どうやら姐さんは、明後日まで続けるつもりらしい。

――向かいのビル見てみ。わてが眠ったり、シャワー浴びたりしてる間に逃げよ思た
ら、ライフルで頭ぶち抜かれるで。
 窓の向こうのビルはどの窓も灯りが消えている。ちょうどこの部屋の正面にある窓
に、小さな赤い光が見えた。ライフルを構えた人間が、あそこにいるのだ。射程距離
は五十メートル、いや、四十メートルも離れていない。

 セミダブルのベッドに姐さんは腰をかけ、ベッドに掌を突いた右腕で上体を支えな
がら、膝と足首を密着させ、きれいに揃えた臑[すね]と上体を斜[はす]にして、品[し
な]をつくる。床から立ち上がり歩く姐さんも、ベッドに腰かけた姐さんも、左手でデ
ルタを隠し、その羞[はじ]らいが艶[つや]っぽく、あっしはすっかり姐さんのために
命を捨てる覚悟を決めた。

――さっき言うてたあれ、頼むわ。

 ここに来る前にあっしと姐さんは、焼肉屋で食事した。あっしは足裏マッサージを
してやると、いや、こうなったいまではして差し上げると言うべきだが、姐さんに約
束したのだ。整体師に足裏のマッサージをしてもらったことはあるが、他人にして差
し上げたことはない。
 焼肉屋で姐さんは、ヘンな歌を歌いながら食事した。

 ニンニクニクニク、ニンニクニクニク、ビビンバ、サンチュ♪
 ニンニクニクニク、ニンニクニクニク、ビビンバ、サンチュ♪

 姐さんはそのフレーズを何度も繰り返しながら大蒜[にんにく]をかじり、カルビや
ロースを箸[はし]でつまみ、石焼ビビンバをスプーンですくい、サンチュを頬張った。
その歌なに? とあっしが訊くと、昔、テレビでやってた人形劇よお、知らん? い
ややわあ、歳がばれるわねえ、と、愛くるしい瞳であっしを見つめながら、かわいら
しい声で姐さんは言った。

――いだいだいだい…いでで、いでで、いでででで……

 あっしはテーブルの上から茶色の小壜を一つ取り、整体師にやられた事を思い出し
ながら、壜の底を姐さんの足裏にグリグリグリグリ押し付けた。姐さんは声を出して
痛がる。顰[しか]めっ面[つら]で姐さんは笑う。笑いながら、だいだいだい、ででで
でで、と声を上げる。そう言えば昔ポリスが、ドゥドゥドゥ・デ・ダァダァダァと歌
っていた。来日して「夜のヒットスタジオ」に出演したとき、日本語で歌ったような
記憶がある。上体を仰[の]け反[ぞ]らせて痛がりながら姐さんは、秘部を左手で隠し
ている。
 足裏をグリグリやったあと、うつ伏せになった姐さんの肩、腰、腿、脹脛[ふくらは
ぎ]を揉みほぐし、あっしは竜を抱いた。
 上気して桜色に染まったキャンバスで、体をうねらせる竜の息吹きが、ベッドを軋
[きし]ませ、部屋の空気を熱くする。竜の鱗[うろこ]が汗ばみ滑る。陽炎[かげろう]
の向こうで、殺し屋がライフルを構えている。陽光は月光よりも鮮やかに、紅[あか]、
蒼[あお]、碧[みどり]に艶を加える。竜はあっしに絶え間なく挑み、あっしは竜の顔
の辺りを一つ二つ平手で張り、たまらず喜悦の悲鳴を上げた竜の爪が、あっしの背中
を傷つけ、食い込む。息切れがして、脳に酸素が回らない。腰の上で竜が踊る。噛み
付いた竜は、あっしの体から離れない。ああ……昇天。

(了)


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Text written by 火鳥冬星
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