はいておしまい 
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                            作・カトリーヌ冬星

 シャワーのお湯で泡のぬめりを洗い流しているとき、刺激に満ちた生々しい夜の
ご馳走が脳裏によみがえり、指先で疼きに触れると、そこが過敏に反応した。あの
夜、ブラックペッパーをまぶしたローストチキンの肉汁が、あの人の口からはみ出
ているのを見つけ、頬笑みかけた私は瞬間的に凍りついた。あの人にハンカチーフ
を差し出した女の、横顔とうなじに、私は嫉妬した。背中がきれいなあの女は、あ
の人の鼻先で吐息を匂わせ、陰謀を密談していたに違いない。
 あの女のことを思い出すと、自分の嫉妬心を意識させられ、自己嫌悪に陥りそう
になる、だからなるべくあの女のことを思い出したくないのだけれど、バディとの
思い出には、あの女の面影が付き纏う、それはきっと私とバディの関係に、未来が
ないという警告なのだ。終りは、いつも必ず、当たり前のように来る。
 私はいまコタツに入り、髪の毛先から雫を滴らせながら、白い服を着た演歌歌手
をテレビで見ている。何かを考えようとして、何を考えようとしたか忘れてしまっ
た、それは取るに足りないことだったような気もするし、早急に結論を出さないと
手遅れになる問題だったような気もする。こうして困難な問題をやり過ごし、安楽
な方向に流れることで、私は自分を見失った。お風呂上がりの柔軟体操をやらなく
なったし、足元から突然大量の蛭が這い上がる、あのいやな幻覚を見ることもなく
なった。
 私は実物の蛭を見たことがない、でもそれは確かに蛭だった。蛭の幻覚を見るよ
うになった頃、紐のついた靴をはいているから靴紐が蛭になる、最初はそう思った、
でも紐のない靴をはいているときも蛭を見て、蛭は足の指の間の毛細血管から出て
来る、体のなかで蛭が生殖活動を行っている、そんな風に考えた。どうしてそんな
理屈になったかわからない、でもとにかく中学の頃の私は、自分の体のなかに蛭が
いると信じていた。幻覚が見えると膝から下の感覚が失われ、全校集会のとき急に
幻覚が始まり、地面や体育館の床に座り込むこともあった。幻覚を見るときは予兆
のようなものがある、悪寒が来て、自分を取り巻く物が急にゆらゆらと揺れだし、
距離感がおかしくなって平衡感覚を失う、その予兆に気づいた私は、予兆を感じる
と目を閉じ、全神経を集中して、白い服を着た男を想像する、その男の顔は見えな
いし、なぜ白い服なのかわからない、でもとにかくその男が現れ、目を開けると、
臑やふくらはぎにまとわり付いていた蛭が消滅する。
 幻覚と想像に私は、多くの時間を奪われた。誰かに言われたわけではないけれど、
自分の心は冷たいと思い、それは蛭に熱を吸い取られるからだと考えた。精神科医
に相談しようかと、真剣に考えたこともあった、でも、日常生活や対人関係にあま
り影響がないので、幻覚について私は、誰にも話したことがない。
 コタツに入りテレビを見ていると、脳細胞が冬眠してゆく感じがする。箱からシ
ガレットを一本抜き取り、口に咥える。髪の雫で煙草が濡れた。
 こういう投げやりな気分のときに限って、あの人は奥さんとお子さんのものだ。
今夜は吐くまでお酒を飲む。明日は重役出勤だ。

 人々はバディをパトロンと呼び、私を愛人と呼ぶだろう、でもバディが私のダデ
ィなのではなく、私がバディのマミィなのだ。
 私は信じられないような額のマネーを運用する個人投資家に雇われた、密室のカ
ウンセラーであり、エンターテイナーでもある。体に蛭を飼っている以外、どこに
でもいるふつうの女で、アイデンティティは子宮の奥にある。
 私にとって、お酒を飲むことと本を読むことと親しい人とのおしゃべりは、健康
で文化的な最低限度の生活に必要な、ごく自然の営みで、安いお酒を飲み過ぎると
嘔吐感に襲われるように、消化できない言葉を嘔吐する、それがふつうだと私は思
っていた、でもそれがあまりにも多くの人を驚かせるから、私は嘔吐しなくても済
むように、消化しにくい言葉をなるべく体に取り込まないことにした。私の体に入
る言葉は、おびただしい数の精子に似ていて、脳に着床して生き延びる言葉は一度
の対話で、一つしかない。
 私が吐く言葉にも、きっと棘があり、毒がある。私の器量は、何もかも拒むほど
小さくはないけれど、なんでも許せるほど大きくもない。刺激的で挑発的なポーズ
と視線と言葉で、常に自分をアピールしないと、すぐに飽きられて忘れられる世界
を私は生きた、そこには不快と不安と恐怖がありふれていて、絶え間なく訪れる悲
観的な想像を振り払うように私は体を動かし、その動きが煽情的で、艶めかしさを
人に感じさせても、私はただ自分の体の中に貯まってゆく粘液質のいやな濃い情念
を、体の外に出していただけだった。
 私が生まれ育った家には、おばあちゃんがいなかった、だから私の家族はみな、
知恵足らずだった。中学の家庭科の授業で、私は家事をしてはいけない女なのだと
自覚した、私が家事をすると火事になるのだ、そう気がついたとき初めて、足元を
這い上がる蛭を見た。母は料理が下手なくせに食事のことしか頭にないような人で、
不規則な生活に耐えられないようだった。父も母も謝罪が好きで、感謝を伝える言
葉を持っていなかった、「ありがとう」と言えばいいときに「すいません」と言う
人たちだった。
 幸福な家庭に必要なのは、愛情や思いやりではなく、手間を惜しまないことだと、
母の料理で私は知った。仕事で忙しかった母は、家事については横着なところがあ
り、一人暮しを始めた頃には料理に意欲的だった私も、母に近づいている。
 私は恩を仇で返す悪い娘で、我慢と苦労と悩み事で笑わなくなった母の、暗い顔
がいやだった。母は笑わないから、貧乏神と厄病神に取り憑かれていた。怒りや悲
しみで歪んだ女の顔は醜い、それは器量の問題で、人は笑おうと思えば笑えるし、
笑おうと思わなければ笑えなくなる。よく笑う女は福を呼び、笑わない女は災いを
呼ぶ。もしも何かの間違いで、私が人の親になったら、恩を返さなくていいからお
金を返しなさいと教育する。
 世間では国際化が進んでも、病気で寝たきりの父は白菜化とウンコ臭い化が進ん
でいたし、家族の中で一番気丈でしっかり者の妹の、独裁化が進んでいた。
 私の成績は悪くなかった。学力偏差値が異常に高くて、小学校まで神童だった、
というのは嘘だけど、クラスの人たちや先生とあまり関わらなくても済むように、
勉強熱心な振りをした、でも、努力した記憶はない。先生を安心させておいて、陰
でこそこそ一人で煙草を吸ったり、万引きしたりする不良だった。ほかの子とつる
んで悪い事をすると目立ち、学校や警察にバレて、面倒臭いことになる。学校の先
生や警察の人が自分の人格に介入することが、私はいやだった。髪型や服装を注意
されるのはいいけれど、性格についてとやかく言われたくなかった。内面なんか見
なくていいから、外見だけ見ていて欲しかった。
 高校の頃の私は自意識過剰で地味で、男は女の体にしか興味がないと本気で信じ
ていて、それは正しかった。小説家になりたいと私は思い、国語の先生から古典の
名作を五十冊読みなさいと教えられ、十冊ほど読んで私は、自分が無知で頭が悪い
ことに気づかされた。無知で頭が悪くても、困らないし、恥ずかしくないけれど。
 本を読むときは行間を読みなさいと、先生から教えられた、でも行間には何も書
かれていないし、書かれていないことを私は読めない。書かれていないことを読め
る先生は、生徒がいじめられている現場を見ても、見えないようだった。

 猥褻な行為を好きになったのは、大学に入ってからだと思う。誰が初めて教えて
くれたかおぼえてないけれど、それはいつからか食事や入浴や排泄や化粧と同じ日
常の営みになり、やりたい時に何でもやらせる淫乱な女を男は好むと気がついた。
異常で変態的で破滅的な行為ばかり想像し、性行為のプロフェッショナルになるこ
とにした。古典の名作を五十冊読む代わりに、五十人の男とセックスしようと考え
た。五十人の男とセックスすることは五十冊の本を読むことと同じくらい難しいこ
とで、トルストイの「戦争と平和」を最後まで読もうと思っても、三十ページほど
で挫折した私は、男たちとの交際でも忍耐を強いられ、挫折を繰り返した。
 性行為のプロフェッショナルになるには、問題がいくつもある。女とお金が集ま
る場所には、暴力的な男たちと警察も集まるし、妊娠と性病の問題もある。フィジ
カルとメンタルのコンディションを調整するため、出費もかさむ。高収入の仕事は
リスクとコストも高く、不安定で危険な状態で私の神経は過敏になり、いざとなっ
たら花瓶で人を殺すぐらいの覚悟を決めた。
 小説家になりたいと言う男と、週に四回セックスしていた頃、小説を読むことは
コレステロールが貯まる料理を食べることと同じくらい、不健康なことだと私は気
がつき、節度ある読書を心がけるようになった。
 活字中毒に冒されたあの男も、貧乏神と厄病神に取り憑かれ、暗い顔ばかり私に
見せた。深刻ぶって、哲学的なことや宗教的なことを生真面目に考えていたけれど、
体を動かして働くのがいやだから、言葉を詰め込んだ頭の中で、怠惰の言い訳を考
えていると、私は思った。
 理屈はいくらでも作れるけど、一人の人間が生きる現実は、一つしかないのだ。
私の高校は一九七〇年代にデザインされたダサいブレザーの制服だったから、セー
ラー服でコステューム・プレイをしたいと言われても困るし、桃色の小さな乳輪が
好きだと言われても、比較的サイズが大きくて色が濃い私の乳輪は、どうにもしよ
うがない。バストがEカップで乳首がアッパーで、ウエストが五十センチ台で太股
がムチムチしていて、足首回りが十八・五センチの女が、ミニスカートを捲り上げ
て気合い十分の食い込み力士パンツでお尻を振ったら、どんな男も悩殺できると、
男を見くびり、思いあがっていた私をたしなめるようなことを、あの男から言われ
たけれど、私は思いあがりをたしなめられるより、ココア色の乳輪を舐められるほ
うが、集中力と意欲と向上心が高まった。
「オレをバカにするのはいいけど、小説をナメるんじゃねえぞ」
 真剣な顔でそう言われ、この男は本物だと思い、私は別れることにした。いつか
成功するかも知れないけれど、少なくとも十年は苦労すると見積もった。成功して
有名になって長者番付に載るような作家になったら、また寄りを戻せばいいやと虫
のいいことを考え、夢や才能や愛や誠意や責任感がなくても、私の衣食住を賄える
くらい、お金に余裕のある男を探すことにした。
 お金儲けの得意な男が、私は好きだ。父と母から私は、貧乏は悪だと学んだ。こ
の国ではお金で買えない物はない、思い出も愛情もプライドも、善意も良心も健康
も、お金があれば手に入る。この国の人たちはお刺身やお寿司のような生モノが好
きだし、カップラーメンやレトルト食品のようなインスタント食品が好きだから、
お笑いみたいな生モノ文化やマンガみたいなインスタント文化がウケる。手間と時
間がかかる物より、手っ取り早く消化できる目新しい物が売れる。昔も今もみんな
ハイカラな物が好きで、小説とか絵とか映画みたいに手間と時間がかかる物は、国
産品より輸入品のほうが上等だと思っている。あの頃は、芸と商才がある男は、小
説や絵や演劇をやらずに、ミュージシャンかお笑い芸人を目指していた。芸も商才
もない男は、ラテン系かガテン系から、地道に努力すればいいのだ。
 小説家志望の男と別れ、援助交際をやめてマッサージ・パーラーで働いていた頃、
エステティック・サロンのネイリストから、あなたセックス好きでしょ? あけす
けに訊かれて私は顔が熱くなり、耳や頬が赤くなるのを感じながら、その女から口
づけされ、三日間だけ沖縄で過ごし、ヌード写真のモデルになった。あけっぴろげ
の気持ちいい時間を私は過ごした。キャメラマンは、比較的サイズが大きくて色が
濃い私の乳輪を気に入ってくれて、私の胸を掌で撫で、乳首を固く尖らせた。私は
表情の作り方や煽情的なポーズを知らなかったので、いやらしい言葉と愛撫でいや
らしい気分を盛り上げてもらった。ネイリストは口元がゆるい女で、ゆるくて肉厚
の唇に、男たちは欲情すると私は知った。写真にはオブジェが写っただけで、旅行
から戻ると淫乱な私と猥褻な行為も、ネイリストや男たちの名前も、私の記憶から
消えていた。ネイリストはデリケートな部分にリングをピアッシングしていて、リ
ングにチェーンを付けて引っ張られながら下半身に入った異物で、臓器の内側を擦
られると、宇宙のファンタジーを体験できると言っていた。
 やっぱり誰でも、生モノとインスタント物が好きなのだ。生春巻を頬張りながら
私は確認した。生モノは中りやすいから、お医者様と親しくしておいたほうがいい
ことも、思い知った。
 私は年上の男の人が好きで、自分を好きになってくれた人が好きという気持ちを、
お金や物で表してくれることに、抵抗を感じなくなった。罪悪感や自己嫌悪より、
危ない、怖い、そんな気がして、危ないことや怖いことが私は好きだった。いつか
刃物で刺されるか、ヤバい薬を注射されて海に沈められる、そんな風に考え始める
と怖くなり、怖いから殺される前に自分で死のうかと考え、そんなときに飲むウイ
スキーのビール割りが妙に美味しくて、恐怖を吐瀉物と一緒にトイレに流し、そう
して私は、恐怖は脳に寄生する細菌で、アルコールで消毒できると気がついた。
 きっと私は頭がイカれているから、人がゴミを分別するように、神様がいつか頭
のイカれた人間のクズをひとまとめにして、処分する日が来るだろうと思っていた。
毎日毎日ゴミ収集車に詰め込まれていやになっちゃった生ゴミさんが、ある朝ゴミ
集めのオジサンと喧嘩して、海に逃げ込んでお魚さんたちと乱交パーティーの日々
を過ごし、結局は元に戻った、そんなお話を考えた。
 努力も忍耐も根性も敬遠していた私が、プロポーションと柔軟性の維持に努力し、
忍耐力と根性を養った、あの頃の私にとってセックスは、スポーツと同じで、甘や
かされて育った私は厳しいことを言われるより、褒められて自惚れさせてもらうこ
とでやる気が出た。感じなくても感じる振りをして、感じる振りをしている間に本
当に感じて来て、感じているのか感じていないのかわからなくなることもあったけ
れど、とにかく私は自虐的と言えるほど、男にとって都合のいい女だった。
 キモい男にはたくさん会ったけれど、ヤバい男には会わずに済んだ。私は運が好
い。
 寂しさも退屈も知らなかった私には、愛が要らなかったのだ。私は愛という言葉
を、心の貧しさや卑しさを偽る方便だと思っていた。愛という言葉が目や耳に触れ
るたび、嘔吐感を覚え、冷たいお酒や石や金属で、痙攣する臓器を冷やすようにな
った。コルクを抜いたロゼのワインが腐り、薔薇の花が枯れ、絶望の日々が続くの
だろうと、薄暗い光の下、いつも人生の終りを想像していた。
 鎖骨のすぐ下で揺れるシンボルの石は、ガーネットからチャイナ・ブラッドのル
ビーに変わった。素顔と実名に戻るとき、罪の双丘の谷間で十字架が、私の胸に痛
みを響かせる。
 私は人間だから、過ちと罪を犯し、後悔する。悔い改めて少しは他人を幸福にし
たいと思うけれど、何をどうすれば他人が幸福になるかなんて、私は知らない。

 皮膚がまだシャワーの水を跳ね返していた頃、私も脚光を浴びる日を夢みていた。
数え切れないほどたくさんの虫が寄って来て、その頃の私は、自分が輝いていると
錯覚していた。私が輝いていたのではなく、私の身につけた装飾品が、光を反射し
ていただけだった。
 自分のポテンシャルを最大限にパフォーマンスすること、私はそれだけを考え、
私にとってそのパフォーマンスは、シンガーのライヴ・パフォーマンスに似ていた。
私はタレントであり、演出家でもあった。私のなかに白い服の男がいて、姿見とほ
かの女を見る私の目は、男の欲望を意識していた。更衣室は、マニキュアのように
べっとり粘り着く、情念の匂いがした。
 いやなことがあっても私は笑った。口を左右に伸ばし奥歯を噛みながらにっこり
笑った。そうやって本心を偽って笑っていると、ほかの子やお客様が笑わせてくれ
て、作り笑いが本当の笑いになる。とにかく笑って、意地でも笑って、何がなんで
も笑って、デタラメに笑って、私の笑顔が見たいからと言ってお客様がお店に来て
くれて、私もお店も儲かった。
 ただ笑うだけでなく、感情をわかりやすく表現すればいいだけだと、私は気づい
た。頬を膨らませて唇を尖らせたり、顔を伏せて掌で目をふさいだり、服の胸元を
手で掴んだり、お客様から離れるように肩を動かしたり、そんな芝居がかったボデ
ィ・ランゲージが、言葉より有効なのだと、私は気づいた。本当にいやだから「い
やだ」と言っても信じてくれないお客様に「いやだっつってんだろ、このエロオヤ
ジ!」と怒鳴りたくなったら、女は黙ってとにかくビール。
 エンターテイナーは、内面の葛藤や舞台裏の醜い諍いを、観客に見せない。悪口
や暴力は観客を笑わせるおふざけで、本気とおふざけを区別できないお客様のため、
ヘルプの子や常連のお客様とネタ合わせしておく。おふざけのマナーとエチケット
を心得たお客様は、たとえ不愉快な思いをしても、不満や苦情や憤りを訴えない。
気に入らなければ何も言わずに店を替えるだけで、この世界では、お客様も神様で
はない。評判の悪いお客様には、その振る舞いに相応しいサーヴィスがある。いや
がらせにはいやがらせが、暴力には暴力が。
 ゴールドかプラチナのカードを店員に見せなければ、試着できないドレスのよう
に、私は男たちが気安く手で触れることの出来ない、芸術品だった。鑑賞が許され
るだけで誰かの所有物にはならないし、市場で取り引きされることもない、それで
も私を所有したがる男がいた。はした金で性急に、商談を進めようとする野暮な男
を、私たちは諭吉様と呼び、プライヴァシーやシークレットを穿鑿したがる男を私
たちは、照美と呼んだ。
 指名の数と売り上げ金額で、女の価値が決まる世界で、私は上から三番目に定着
した。ポテンシャルを最大限にパフォーマンスしても、三番目にしかなれないのは
ちょっと悔しかったけれど、ほかの子とお客様を奪い合うのがいやで、無理をして
まで、自分を気に入ってくれないお客様に気に入られたいとは思わなかったし、お
店の看板を背負わなくていいポジションは、居心地が好かった。
 好きになってもらうだけで喜んでいた私は、好かれることが当たり前になり、お
客様を選ぶ生意気な女になった。自分を好きになってくれる男なんて、いくらでも
いると思いあがり、お客様への感謝が薄れた。国会議員の選挙に立候補したら、当
選するんじゃないかとさえ思っていた、というのは嘘だけど。
 私の体に触れたのは、サクセス・ストーリーを語れる男だけだった。ストーリー
は嘘や作り話でも構わない、でもたやすく見抜ける嘘や誇張や脚色に、私はペナル
ティを課した。見え透いた嘘や作為は好ましくないけれど、景気のいいデタラメや
ホラ話は、私を陽気にする。節度を弁えた男たちに悪戯を許し、意地悪をしてあげ
る、遊戯のルールは日毎に変わり、男たちはルール変更に戸惑いながら、戸惑いさ
え愉しむように、優雅で自然な物腰で、果敢に私のペナルティ・エリアに侵入を試
みた。
 思い上がって調子に乗って浮かれてはしゃぐ上機嫌の私を、常連のお客様やほか
の子がますます増長させ、私はエンターテイナーとして内面の葛藤を見せないよう
に努めたけれど、パフォーマンスと素顔のギャップで、肩凝りと腰の痛みがひどく
なった。私は寂しい、愛が欲しい、総理大臣と大統領のバカヤロー、そんなことを
人気のない場所で叫びたくなった。
 一定量のストレスが体内に蓄積されると、私のなかに棲む蛭が、出産を始める。
蛭が見える予兆に襲われるたび、私はゲームを中断し、化粧室で全神経を集中して、
白い服の男を想像した。白い服の男を想像すると、コーヒー豆みたいな乳首がアー
モンドになり、目を閉じている間に汗がお化粧を溶かし、意匠で隠した私の素顔を
デフォルメして、下着を濡らす。
 私のプロフェッショナリズムは、接客から性行為に戻りかけていた。セックスし
ないで話をするより、セックスしてから話をするほうが、余計な気を使わなくてい
いと思い始めていた。愛されたいと私は思った。お金も言葉も要らないから、愛さ
れたいと私は思った。いつもそばにいて、キスしたいときにキスしてくれて、抱か
れたいときに抱いてくれる人が欲しかった、それは誰でもいいわけではなく、私が
知っていた誰でもなかった。
 以前のように危ないことや怖いことを愉しめなくなった自分に、私は気づいた。
ため息を漏らす私の顔を見て、寂しいの? そんなことを訊くお客様がいて、私は
どう答えればいいかわからず、曖昧にリアクションした。
 私は寂しかったのではなく、虚しかったのだ。私自身も、私を取り巻く環境も、
生モノの新鮮さを失い、干からびていた。私は乳がデカいから着物は似合わないけ
れど、干物なら似合いそうだとさえ思った。私はきっと、スパイスと甘味が欲しか
ったのだ。迷いと、何かを待ちわびる思いで、うまく笑えなくなり始めた頃、バデ
ィと出会った。
 バディだけが、私のゴールネットを揺らした。垢抜けない小娘がまだ、ドン・ペ
リニヨンのピンクがピンドンと呼ばれることを、知らない時代だった。
 私がいたお店ではピンドンを、味覚と嗅覚の敏鈍を試す、リトマス液として利用
していた。三度目か四度目のオーダーで、ボトルの中身を入れ替えた物を出す、そ
んなトラップもゲームを愉しむ作法の一つで、バディの舌は最初のテストで、トラ
ップを見抜いた。
「クリュグはないの?」
 バディからそう訊かれ、私の頭の中で正解のチャイムが響いた気がした。私もド
ン・ペリニヨンよりクリュグが好きで、マネージャーはクリュグを取り寄せていな
かった。
 店に来ても女の子を指名しない彼が、私を指名したとき、彼に狙われている予感
が確信になった。うろたえることも緊張することもなくお客様のあしらい方を心得
たはずの私が、彼の隣に座った瞬間、うぶな小娘のように身を硬くした。私が咥え
たシガレットに彼が火を点けてくれて、ライターとグラスを握る彼の指に、私はデ
リカシーを見た。この指にいじられて私は恥ずかしい音色を奏でるのだ、恋する神
経が、彼のチューニングに身を任せた。
「君にはインテンシティを感じる」
 ロベルト・カルロスのペナルティ・キックのように、私の目を覗き込む彼の声が、
力強く響き、私の不意を突いて、殻でガードしていたソウルに触れた。ディストー
ションとエコーを効かせたエレクトリック・ギターの爪弾きが、きらきら輝いて見
えるように、彼の口からお星様がたくさん出て来るのが見えた。生々しい体験の予
感に、私の瞼と頬が引きつった。彼の口から初めてその言葉が出た瞬間、私の耳に
はイン・テンスティに聴こえた。
 イン・テンスティ? 男たちにゲームをコントロールされたことのない私が、ふ
くらはぎの筋肉が浮かび上がるほど、身を硬くした。私は笑顔ではなく真顔だった。
瞼を閉じればすべてを受け入れるほど、スペースだらけの私に、気絶するほどセク
シーな低い美声で、ラストパスが飛んで来た。
「そう。君は強い女性だ」
 答えたバディの顔を見て、切なさという感情を私は知った。

 どんなに経験が豊富でも、新しい恋はいつも初恋で、神様というプロデューサー
は私にも、ガール・ミーツ・ボーイ物語の主役を与える、それは心の準備も打ち合
わせも段取りもなく突然やって来て、主役が舞台から降りるまで続く。意地悪な神
様は、キャスティングも台詞も教えてくれない、どれほど場数を踏んでもハッピー
エンドではなく、悲喜劇で幕を閉じる。始まりも展開も、どこかで読んだことのあ
る陳腐なお話、それでも心踊るのはなぜだろう?
 シンガポールのホテルにチェックインするまで、バディはお行儀のいい人だった。
離陸を待つ飛行機の中で、やっと私にキスしてくれた。プライヴェート用の携帯電
話だけ持参した私は、部屋に置いてきたお仕事用の電話に入る、伝言やメールが気
になり、少しだけ憂鬱な気分になっていた。バディも疲れている様子で、夜の私た
ちは微妙にずれていた。
 ローライズの際どいビキニで脚色した体を、デッキチェアに預けながら、私はバ
ディの平泳ぎを見た。彼の腕が、水面に弾き飛ばす水滴は、真珠に見えた。全裸で
沖縄の海を泳いだときのように、背中と腰骨の下で結んだピンクの紐をほどき、あ
られもない姿で私が水の中に入ったら、この人はどんな顔をするだろう、そんなこ
とを考えた。ゆっくりとプールを横切る彼の肩が、規則正しく水面に浮かび、その
映像が私にとってのインテンシティになった。お説教好きを惑わせる便利な呪文を、
私はまた一つ手に入れた。
 その年のクリスマスを告げるコールは、ピンドンではなくディンドンで、私たち
のカレンダーは世界より三日早かった。
 バディにエスコートされて参加したパーティーは、分別のある大人たちを、無邪
気で無遠慮な子供に変えた。なぜ奥様ではなく私がパートナーなのか、訝しがる私
にバディが答えた通り、参加したカップルはみな、いかがわしさを纏っていた。ク
リスマス・トリコロールのコステュームで、ペナルティ・エリアをラッピングした
私は、煌びやかなドレスや蝶ネクタイとハグを交わした。
 ネイルをエメラルドのグリーンに染めた私の手を取り、空いた掌を泳がせ、フロ
アの中央に指先を向けた紳士から、ワルツに誘われた。戸惑う私のアイ・コンタク
トに、バディは寛大な微笑で答えた。私のコステュームが、腰に添えられた紳士の
掌に、紅い薔薇の花びらを感触させたのだろう、ダンスを終えて礼を交わし合った
あと、紳士の掌が私のヒップをさり気なく撫で、スカートの裾にあしらった白い羽
毛を二本の指で軽くつまんだ。
 踊りの最中、その紳士は私の耳元で、口説き文句を囁いた。野暮な言葉は私の耳
を素通りして、跡形も残らない。世界が終わるまで待っててね、テレパシーで私は
紳士に答え、バディの元に戻ろうとしたそのとき、きれいな背中を私に見せつける
女とバディが、絶望的なほど素敵な笑顔で、言葉を交わす光景を目撃した、その光
景に私は息を呑んだ。女の白いドレスが、絵葉書で見た険しい雪山のように、私の
前に立ちはだかっていた。眩暈がするほど、女の瞼と唇とうなじがまばゆく輝き、
バディは女から受け取ったハンカチーフで、口元にこぼれた脂を拭き取った。
 ジェラシーは、私の顔をフグにする。膨らんだ頬に溜まった罵りを、私は吐き出
さずに呑み込んだ。罵ることは出来るけれど、バディとその女を罵倒できるほど、
私の言葉には力がない。罵倒にならない罵りは、自分の恥を晒すばかりで、人に痛
快を感じさせずに不快で終わる。私が尖らせた唇は、不発の核弾頭だった。
 世俗的で下品なショート・コントを機に、パーティーは狂乱の時を迎えた。
 ジャズ・バンドのピアノがセンティメンタルなメロディを奏で、タキシードを脱
いでマイクを握った男が、フロアで匍匐前進しながら、バラッドを歌い始めた。濃
紺のチャイナドレスを着た女がその男の足元に歩み寄り、スカートのスリットから
太股を露わに見せ、男のズボンの裾をヒールで踏みつけた。ズボンがずり下がり、
男のお尻が半ばまで見えたところで、女が片手でズボンのベルトの部分をつかみ、
男のお尻を剥き出しにした。
 呆れた私の視線はバディを求め、フロアから顔をそむけた瞬間、私の目に、得体
の知れない異物が飛び込んだ。
 ビールかけが始まった。

 上機嫌の私は、パラダイスで戯れる天使だった。サンバを刻むスネアドラムとピ
アノの音が、難聴気味の私の耳で残響していた。襟元とスカートの裾にあしらった
白い毛は、疲れ切って萎んでいた。ホップとアルコールをたっぷり吸った赤いコス
テュームを、バスルームでバディが丁寧に剥き、狩りの合図に猛々しい本能を呼び
覚まされた野人が、フルーツの皮を剥いて果肉の汁を、私の舌に刷り込む。くすぐ
りの笑いが発情の切なさに昇華して、摩擦の熱に血がたぎる。ハリウッド女優の流
儀で私は情熱になり、生物の営みを激しく求めた。好き、愛してる、もっと、抱い
て、強く抱いて。摩擦を欲しがり、体が破裂するほど力強い愛撫を求める私は、髪
の先から爪先まで、煩悩だった。鼻の奥に突き上げる声が、瞼を閉じた目の隙間か
らこぼれる。恥ずかしい声がタイルとガラスに反響し、私の骨を踊らせ、肉を滑ら
せる。口に含んだマイクロフォンに声を吹き込むと、音はバディの口から出る、そ
の音色がガラス張りのスタジオ中に響き、私の下腹に内蔵されたアコーディオンが、
自動演奏を始める。野性の目を見開いてバディの目を見詰め、掌で頭を撫でられ、
おとなしく目を閉じる。口の中で膨らむ果実が、生け簀の魚のように元気な生き物
になり、痙攣する。はしゃぎ回るやんちゃな坊やを乳房で押し潰し、舌先で頭を撫
でると、生意気な坊やは私の顎に唾を吐きかけた。お仕置きで私がインテンシティ
に噛み付くと、バディはアザラシの鳴き声に似た呻きをあげた。生々しさに飢えた
下腹が、生命を宿したがり、インテンシティという名の都市を孕みたがった。ガー
ネットのゲームを余裕たっぷりに愉しむだけだった私のソウルは、溶けて出口から
止めどなくこぼれ落ち、苦痛の悦びにあえぐ私は、サン・トワ・マミーの旋律を聴
いた、それは歌ではなく旋律だ。強情で猛々しい硬物を臓器に呑み込んだ私の脳が、
雷雨と荒波に翻弄された。四つ足の獣にメタモルフォーゼした私は、背後から押し
寄せるグルーヴにわななき、エメラルドのグリーンに染めた爪で白いシーツを握り
締めた。ポップなリズムに浮かれたサクソフォンが、リードの恥ずかしい音を鳴ら
す。世界の破滅を思わせる大震災で、地球がカオスの混乱を迎え、大地に亀裂が入
るほどの烈震が、激しく乳房を揺らして痛める、痛い痛い痛い、ダイナマイトの火
薬が匂って、洟水とよだれと涙が出る出るデルタが波で砕け、獣道で蹂躙される自
分の姿が見えた、私が私を犯している、私はバディ? 違う、私は白い服を着た男
だ。私は私の悶えを見て、私のあえぎを聞いて、苦痛にもがき苦しむ少女を犯す喜
びに哄笑をあげる。
 蛭がいた! 泣かないことを誓った私は、憐れな自分と再会し、涙も洟水も流れ
るままに任せ、目を開けるとバディがいた。
 マグマに落下する感覚の中で私はバディにしがみ付き、私たちは唇と腰を重ね、
バディのリードでタンゴを踊り、私のリードでサンバを踊った。鉛の先端が豊潤な
岩陰をヒットする、そこ、そこを突いて。私の海をサーフするバディは、いちばん
高い波のチューブから、空中に弾け飛ぶポイントを探し当て、背面でダイブする私
の背中が虹を描いた。深海に沈み眠れる森で永遠を過ごした私を、陽射し注ぐ部屋
に口づけで呼び戻したバディは、演歌を口ずさみ私を笑わせた。
 あの夜が、フリーズされた私のソウルを、解凍した。
 男の力ややさしさが、女を酔わせるわけではない。自惚れさせてくれる男との、
特別な夜にだけ、女はソウルを歌う。

 朝食は抜いてもいいけど、私のなかに入れた物は抜かないで。
 そんな台詞を言えばよかったと、後で思いついたけれど、バディのキスで目覚め
た私は、ただ嬉しくて、恥ずかしがる女だった。
 刺激に満ちた生々しい夜を祝福してくれたのは、神々と天使たちとバディだけで、
お義理の代わりにお金を絆に、人としがらむ世界の水を、オーラで弾いて来た私に
は、それだけで十分だった。
 私はバディの側室になった。露出を控えたスーツを着て、バディのスケジュール
を管理する。お受験のサバイバル法を坊やに調教するマミィの眼鏡が、私の装飾品
に加わった。
 額に汗を浮かばせながら、郵便物を届け、私が伝票に印鑑を押すと慌しく立ち去
るメイル・ボーイに、私の天邪鬼が恋をした。女には、胸やお尻や脚にも視覚があ
り、坊やの視線の温度を見逃さない。その子の爪の先に詰まった黒い垢を目で捉え、
膝の上で爪切りをしてあげる光景を、私はイメージした。お互い名前をおぼえ合っ
た頃、私はそのお兄ちゃんを呼び止め、チップの代わりにキスをした。冬なのにシ
ャツ一枚で外を走る、若い男の乾いた唇に、唇を押し付けて離したあと、チップだ
から気にしないでね、坊やの瞳を覗き込みながら、囁いた。気にしないでねと口か
ら嘘を吐き、近いうちにいやらしい事をしましょうねと目で伝え、この子は夜に淫
らな私をイメージすると確信した、私の乳房がまた、一人の坊やの枕になる。硬直
した坊やは大きく息を吐き、はにかみで顔をほころばせ、しおらしくお辞儀して逃
げるように立ち去った。坊やの耳が頭の中に残像し、ここに来たときは既に赤かっ
たのだと、私は気づいた。
 私の顔から視線を逸らしてばかりの坊やは、可愛らしいほど鈍感で、唇を尖らせ
たウインクの合図を見逃してしまう。鈍感な男は私を、秘密に触れたがる女教師に
する。恋の傷と、罪の意識が、デリカシーの始まりだから。
「明日、残業どう?」
 私からたずねることもあれば、バディからたずねられることもある。
「お得意様? 新規?」
 吐息が匂う距離までバディに近づき、スーツの下のオプションについて、お伺い
を立てる。
「明日は君に任せるよ。なんならゼロ金利でも構わない」
 冗談めかしてバディがそう答えた翌日、私の下腹を覆う布は、ストッキングだけ
だった。

「だめじゃない。なんであんなことするの?」
 あられもない姿で、肘掛けの付いた懐の深い椅子に抱かれた私は、組んだ脚を苛
立たしげに揺すり、メンソールの長い煙草を人差し指と中指で挟んだ手の、小指の
爪を噛んでみせる。クールなダディの分身が、剥き出しの私の腰を冷やす。失禁し
てみせたら、目の前で伏せの姿勢を取り、おあずけを命じられた犬が、切ない鳴き
声をあげるだろう。
 摩天楼の表面がまだ世界の光源を反射する時刻、取り引き先のオフィスに向かう
エレヴェーターの中で、バディの掌が私のスカートの中で動いた。声を出して悪戯
を叱ったら、軽蔑の眼差しを向けそうな人がいた。私を困らせて喜ぶバディは、会
社に戻る車の中で、卸し立てのブラウスに皺を作った。
 私に対しバディは、口数は少ないけれど手数が多い。器用な手先で、信じられな
いような事をする。
 下のフロアにはもう誰もいない。私は犬の肩に片足を乗せる。犬の鼻が敏感に動
く。
「匂う?」
 私の足はくさい。足裏マッサージの先生が、私と顔を合わせるたび嫌味を言い、
まるでお仕置きでもするように、肝臓や心臓のツボを面白がって痛めつける。最近、
足のくさい子が増えてるんだよね、そう言って先生は私に、水虫に効く薬を教えて
くれた。私の足のにおいは薬で治らない、水虫ではなく蛭が、そこから出て来るの
だ。
「い、いい匂いがします。感激で涙が出そうです」
 吹き出しそうになるのを私は堪える。私とバディのお遊びは、笑った方が負けだ。
「あなた非常識だわ。いいかげんにしなさい」
「いいかげんにします」
「あなたみたいな男、マザコンの男根主義者って言うのよ」
「私はマザコンで男根趣味です」
「ふざけないでよ。不愉快だわ」
「不愉快です」
「あなた全世界から嫌われてるわよ」
「嫌われてます」
「あなたってほんと恥知らずね。プライドないの?」
「恥知らずでプライドないです」
「ダサい人」
「ダサいです」
「ダサいしクサいしキモいし、他人に迷惑ばかりかける汚物よ、あなた」
「汚物です」
「あなた田舎者でしょ?」
「田舎者です」
「あなた、都合が悪くなったら、あたしを捨てるでしょ?」
 犬がバディに戻り、返答に窮する。私は新しいシガレットに火を点ける。
「……捨てません」
「嘘おっしゃい。あなたみたいにわがままで無責任な人、死んだほうがいいのよ」
「死んだほうがいいです」
「あなたこうして、現実から逃げるんでしょ?」
「逃げます、逃げます」
「あなた人間失格ね」
「失格です」
「あなたは豚」
「豚です」
「おかしいわね。どうして豚が人間の言葉をしゃべるのかしら?」
「フガッ」
 私は椅子から立ち上がり、一度おろした片足をまた豚の肩に乗せ、聖水が噴き出
す真実の口を二本の指で開いて見せつけながら、上目遣いで私を見る豚の鼻先に、
煙草の煙を吹きかける。濃厚なルージュでフィルターをべっとり汚した吸い殻は、
豚の背中ではなく灰皿に押し付けた。
「足をお舐め」
 豚は私が差し出した足の爪先を口に含み、鼻を鳴らす。くすぐったくて吹き出し
そうになり、やめさせた。
「あらあら、豚だと思ったらお車ね。小さなブーブーだこと。ママ乗れるかしら?」
「ブーブー」
 バディが伏せから四つん這いに姿勢を変え、私はその背中をまたいで、背骨に恥
骨を押し付ける。
「どうすれば動くのかしら? こう?」
 私は平手で、小気味のいい音が立つほど強く、バディのお尻を張る。
「ブー!」と悲鳴にも似た声をあげ、背中に私を乗せたバディは、四つん這いで床
を這う。
 そしてバディは赤ん坊になる。無我の幸福に笑うのだ。
 私が髪留めを外すとき、お仕事はお遊びに切り替わる。昼の私は貞淑で従順なキ
ャリアウーマン、夜の私は破廉恥なサディストの母親、どんな男にとっても理想の
女は、そういうものだと決まっている。
 お仕事とお遊びに飽きると私は、小説を書きたくなるので、小説を書かなくても
済むように、お仕事とお遊びに夢中になろうと心がける。私とバディは毎日のよう
に唇を重ね合い、バディの掌が、私の乳房やお尻の形を整える。
 一日に一度でいいから、口づけの手間を惜しまなければ、きっとすべてがうまく
行く。たとえ心が触れ合わなくても、体が触れ合えば私は、蛭の幻覚を見なくて済
む。
 口づけは、不機嫌を治すお薬だから。

 私はバディに、メジャー・リーガーのバリー・ボンズのフィギュアをおねだりし
て、その合成樹脂製の偶像にバディ地蔵と名付け、デスクの片隅に常備している。
お地蔵様はどことなく、K1ファイターのボブ・サップにも似ている。人の視線は
私に痛みを感じさせるほど、熱くなったり冷たくなったりするけれど、お地蔵様の
視線はいつも穏やかで温かい。
 私はバディにもう一つおねだりした。バディの奥様とお子様が写った写真を、カ
ラーコピーさせてもらった。
「恋は澄み切った湖で、愛は泥沼だ」
「恋する者同士は相手のオナラを聴いて喜び、愛する者同士は相手のオナラを許せ
ない」
「俺は家族のこと以外なら、何でも知っている」
 そんな冗談でバディは私を笑わせる。私を笑わせる冗談は、本当のことに決まっ
ている。
「仁志から打った落ち球が、左〜に〜沈ぅむぅ、これでぇいいのだぁ、これでぇい
いのだぁ、ボンボンバリボン、バリボンボン、天才ヒッター、バ〜リボンボン」
 機嫌がいいときのバディはそんな替え歌を歌い、私を呆れさせる。私を呆れさせ
る冗談は、口づけや足ツボ・マッサージと同じくらい、私の肩凝りに効く。
 私は弱い女だから、いつも身構えていないと、醜念と呼びたくなる粘着性の微粒
子を、ソウルに吸い込んでしまうのだ。泣かないこと、怒らないことを誓った遠い
昔の私の殻にも、亀裂が入って、幼女の私を、人の目に晒すことがある。
 いつか幻滅や失望が訪れ、修羅場を迎えるとしても、私の記憶には、楽しかった、
気持ちよかった、それだけが残る。その記憶に残る楽しさや気持ちよさを反芻しな
がら、私は笑顔を絶やさない可愛いおばあちゃんになるのだ。
 バディとプレイを始める前、椅子に載せたお地蔵様に、彼の奥様とお子様の肖像
を立て掛け、床に正座して肖像に向かい、両手を合わせて拝む、そうして奥様とお
子様の健康と幸福を祈る私に、バディは理解できないと言いたげに、呆れた顔と仕
草を見せる。プレイの最中、お地蔵様と家族の肖像が、デスクの上で私とバディの
愚行を見ている。

 不埒で不遜な私は、蛭の幻覚から自由になった。きっと私に寄生していた蛭が、
バディの体に移動したのだ。蛭はたぶん不健康で弱い人間が好きなのだ。言葉やお
金を取り引きする世界は、人を衰弱させ不健康にして、病気を蔓延させるに決まっ
ている。男にも更年期障害があると誰かが言っていたけれど、バディも時おり、不
安神経症と躁鬱病の症状を見せる。大丈夫よ、心配しないで、私は百通りの言葉で、
バディに伝える。
 大丈夫よ、心配しないで、あなたいつもベストを尽くしているじゃない、そんな
にがんばらなくていいのよ、ね? ふつうにやってればそのうち状況が良くなるわ、
あなたに出来ない事は誰にも出来ない事だもの、うまく行かなくても誰も責めたり
しないわ、ね? ほら、わたしの目を見て、ああだめ、そんな悲しい目をしないで、
ほら、いい子だから、ね? あなた、いい男なんだから我慢しなくちゃ、出来るで
しょ? 素敵よダーリン、自分を信じて、ね? ほら、やれば出来るじゃない、あ
なたもっとビッグにならなきゃいけない人でしょ? ね? 元気出しなさい、大丈
夫よ、自分を責めちゃだめよ、反省する男は最低よ、そんなことを言って私はバデ
ィの傷を癒し、私以外の誰もバディを傷つけないよう、きつい言葉で私がバディを
罵るのだ。
 この人と世界には私が必要だ、そう実感させてくれるから、私は弱気なバディが
好きなのだ。奥様ではなく私に、バディが可愛らしさを見せた日の夜は、アルコー
ルで消毒しなければやりきれないほど、胸が痛む。いくら待っても、悪魔は来ない。
 脳ばかり刺激され、頭に昇った血が固まりやすい男は、下半身を刺激してあげな
いと血の巡りが悪くなる。私は正義にお尻を向け、破滅を呼ぶ火に潮を吹きかける。
私のお尻に咲いた菊は、不毛な争いの犠牲に捧げ、魂を鎮めるシンボルだ。私の核
は、査察の指を受け入れて、命の泉を湧かせる。私の冷たい心を溶かすのは、賢さ
や力を誇りたがる男ではなく、くさい足をくすぐって、笑わせてくれる男だ。
 平和の丘を覆い隠すブッシュを、私は剃った。
 運命を司る神が女なら、うちのめしたり、突きとばしたりせず、くすぐって気持
ちよくすればいい。腸詰めのソーセージは燻されて、イヴのワインに慰撫される。

「あ、そうそう、そうなんですよ! ちょっと聞いて下さいよ!」
 慎みのない叫び声に、携帯電話を耳から遠ざける。ナツコからの電話だ。
 ナツコは私から五番目の恋人を奪った女で、その男と別れたあと、私の体内時計
は昼と夜が逆転した。オフの日の夜、ブルージーンと薄化粧でコンヴィニエンス・
ストアを出たとき、偶然ナツコと再会した。
――あーコウちゃんの元カノじゃん! 元気ぃ? 飲み行こぉ。
 アルコールが入ってご陽気なナツコは、あつかましいことに私を居酒屋に誘い、
その居酒屋で私たちは血より薄いけれど水より濃い、日本酒の絆で姉妹になった。
失恋と失業とストーカーの三重苦に直面していたナツコは、私の部屋の居候になり、
私のお店で働くことになった。
 テンションが高いナツコは、テンションもペンションもマンションも高くてクッ
ションでパッションのローションがマスターベーションのモチベーションにテンプ
テーションなんですよぉとかなんとか、五十二歳の恋人から教えられた早口言葉で、
私を偏頭痛にする。酔っ払って他人に絡んで自己嫌悪して、酔っ払って他人に絡ん
で自己嫌悪して、酔っ払って他人に絡んで自己嫌悪する女だ。恋人のキンタマにホ
クロを見つけたぐらいで、いちいち私に報告する女だ。はじめて私の部屋に来たと
き「クリムゾン・キングの宮殿」のCDジャケットを見て「やっぱりパンクとムン
クは叫びだわぁ」と言った女だ。キング・クリムゾンはパンクでもムンクでもない。
暗い音楽を聴いて何が悪い? ええジャマイカ、ええジャマイカ、ええジャマイカ、
タモリが言いそうなギャグを思いつき、私はレゲエを踊りたくなった、というのも
嘘。
「聞いてます? 聞いて下さいよ」
「聞いてるよ」
 ナツコの話は聞かなくてもわかる。一定量のストレスが体内に蓄積されると、仕
事のこととか付き合っている男のこととか、何か都合のいい口実を見つけ、私に甘
えるのだ。ベロンベロンに酔っ払ってベロンベロンに舐められると、男のわがまま
許しちゃう性格なんとかしたいと言いながら、ベロンが好きでマンチェスター・ユ
ナイテッドを応援しているわけではなく、やっぱりワールドカップ以来のベッカム
様のファンだ。ってゆうか自分的にはやっぱなんかとりあえず超イケてないってあ
りえないみたいなぁとナツコは私の部屋で愚痴をこぼし、テレビ・タレントの物真
似で私の機嫌を窺う。自分、痔のせいで加藤あいになり損ねたぁ、メッチャムカつ
くぅとボヤくナツコの顔は、首を傾けて見ると加藤あいに似ていないこともないけ
れど、出痔の痛みを堪えるナツコを見ていると、本当に気の毒で可哀想で、でもナ
ツコがいないとき、ナツコの苦しそうな顔を思い出して私は笑うのだ。きっとナツ
コも、足がくさくて出身地の訛りを隠すパイパンの義理の姉のことを、誰かに話し
て笑っている。私たちは底なしのマネーゲームではなく、底ぬけ脱線ゲームと垢ぬ
け脱毛ゲームと腰ぬけ脱腸ゲームを遊ぶ。
「別れたほうがよくない?」
 三カ月ぶりに私の部屋に来たナツコは、お色気たっぷりにおのろけを振り撒いた
うえ、急に真顔で、もののけみたいな顔で、そんなことを言い出した。腿の毛が濃
い五十二歳の恋人と別れ、三十五歳の実直な独身会社員からプロポーズされたばか
りのこの女は、小姑に転身したのだ。フィアンセは「笑っちゃうほどキンタマが大
きい人」だそうで、つまりキンタマが大きく見えるほどチンチンが小さいというこ
とで、嫁入り前の娘がキンタマなんてはしたない言葉を使っちゃダメよと私がたし
なめたら、舌を出してはにかんだ、その小娘が、生意気にも私の葛藤を見透かした。
この女は私のTシャツにゲロを吐いた前科を、すっかり忘れている。エゴもエロも
テロもゲロも、作り直せる物だけ攻撃するなら許すけど、命ある物を狙うな、バカ。
 甘い物を食べたい、不意に私は、そんな感覚にとらわれた。
「プリンとかりんとう買って来て」私はナツコに命令する。
「ええ? 今からぁ?」不服そうにナツコがたずねる。
「そう。今すぐ」
 ここから一番近いコンヴィニエンス・ストアまで、歩いて十分、私は財布から千
円札を二枚抜き、卓袱台に置いた。
 ちぇえ、パシリかよぉ、外さみぃしぃ、この高飛車女ぁ、とかなんとか文句を言
いながらコートを着たナツコが部屋を出たあと、睡魔が来た。
 コタツから出るのは寒いけれど、私は気合いを入れて立ち上がり、紐に吊るして
いたジョギング・パンツをはき、本格的に寝る態勢に入った。
 もはやこれまで。田舎に帰って小説でも書こうか。二つ折りの座布団に落とした
頭に、そんな思いがよぎった。

(了)


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Text written by カトリーヌ冬星
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