多田秀介 「オグロアラダ」
◆02年12月05日◆古典回帰の怪奇小説

「鞠棚小説祭」のクロスレヴュー作品に目を通している読者には、「夏の夜の出来事」多田秀介氏のファンになった人が少なくないと思います。ファンとまでは行かなくても、目の肥えた読者なら、その文才なりストーリー・テリングの才なりに感応し、多田氏に関心を示すでしょう。
 何を隠そうこのボクも、
多田氏のほかの作品を読んでみたいと思っていたところ、今回10作品のレヴューを担当することになり、多田氏のほかの作品を読むのが後回しになりました。
 
多田氏の作品で「これを薦めたい」という方は、メールでも掲示板でも構いませんので、教えて下さい。

 レヴュアを引き受けておきながらこんなことを言うと「けしからん」とお叱りを受けるかも知れませんが、ボクはだんだん他人の作品についてコメントするのが億劫になって来て、〈コメントとスピーチは短いほうがいい〉と思います。(と言いながら、長いコメント書いてますね)
 読者の立場で言うと、中編や長編は敬遠しがちなので、梗概や解説があると助かりますが、掌編や短編はレヴューを媒介にしなくても、直接作品を読めばいいわけです。
 インターネットには小説があまりにも多すぎるので、「この作品が面白い」と紹介してくれるシステムは便利ですが、他人から紹介されるより、自分で探して見つけるほうが、面白いし感動的です。
 面白い物は面白いし、つまらない物はつまらないし、どちらとも言えない物はどちらとも言えない。他人の作品についてボクが言うべきことは、○×△の3つの記号で事足ります。
 読者に目的地を案内するのがレヴューの役割なら、コメントは効率が悪く、それでも人は目的もなく文章を書きます。その答えが
「オグロアラダ」にあります。

「オグロアラダ」は、ミステリー作家が旅先でふと、意味不明の呪文のような言葉を耳にして、気味が悪いけれど気になって仕方がない、そんなとき宿の主人から、この土地でずいぶん前に起きた殺人事件の話を聞かされ、呪文の謎が解けるという、怪奇ミステリーです。
 ホラー、スリラー、サスペンス、ミステリーなど、恐怖を感じさせる作品は、人によって評価が大きく分かれやすいです。恐怖に対する免疫度(耐性)に個人差があり、怖いと感じる人は怖いし、怖くない人は怖くない。コメディアンが観客を笑わせようとしても、笑う人は笑うし、笑わない人は笑わない。それと同じで、読者を驚かせよう、怖がらせよう、泣かせようと作者が意図しても、狙い通りの反応があるとは限りません。
「オグロアラダ」に恐怖を感じる人もいると思いますが、ボクがこの作品を通じて作者に関心を持ったポイントは、古典の名作を彷彿させる文章です。

 作品と関係ない話ですが、数年前の正月、ボクは関西方面に旅に出ました。旅立つ前、仕事で付き合っていた若い人から「どこに行くんですか?」と質問され、
――どこに行くか目的地が決まってるのは、旅じゃなくて旅行だよ。旅っていうのは、どこに行くか決まってないの。「旅に出る」という言い方は正しいけど「旅に行く」という言い方は正しくない。
 そう教えてあげたんですが「それは旅じゃなく、放浪じゃないですか?」などと訊かれ、話が通じないと判断し、対話を諦めました。

 そんなエピソードはさておき、旅には風情があるもので、
「オグロアラダ」の文章には、旅に相応しい風情があります。
 ボクは一読した直後、この風情を読み違えました。なぜならボクが、ウンザリするほど風情たっぷりの田舎に住んでるからです。田舎に住んでる人と都市に住んでる人では、感性や感受性が微妙に異なるものです。
 この作品は、空間的なトリップの感覚だけでなく、タイム・スリップの感覚も味わえます。呪文の謎が解けた瞬間には、幽界に滑り込む気さえする……はずなんですが、ここの書き方がちょっと惜しい。
 タイトルと書き出しに、読者を引き付ける力があり、文章にも、最後まで読者をドライヴさせる力があって、ラストがもう一歩。ここで
「夢虫」が見えたら……というのは冗談です。
「夏の夜の出来事」はラストがいいだけに、実に惜しいです。

 しかし、数年前のボクの旅も、ラストは呆気なくて物足りないものでした。
「オグロアラダ」は、計画的にラスト(目的)に導く「旅行的な小説」ではなく、どこか知らないところに向かう「旅の小説」です。
 旅は道連れ……オグロアラダ……それは小ぶりの……あ、やっぱり怖いかも。★★★