| Zamza 「逡巡」 |
| ◆02年11月28日◆現実の矛盾に目を閉じた人は真実を見るか? |
ボクにとって「いい作品」は二通りあります。一つは、出会った瞬間に鮮烈な印象を受ける物。もう一つは、出会った瞬間に強いインパクトを感じなくても、時間が経ってもずっと覚えていて、ふと思いついて読み返す物。 Zamza氏の「逡巡」は後者です。 「逡巡」は、少年院で少年の更生を受け持つ法務教官・片岡が主人公。母親から受けた虐待が原因で、非行に走った少年・光一に、片岡は「オレは甲子園組だ」と漏らし、光一から野球の投手の才能を引き出します。 この片岡と光一が所属するチームが、軟式野球大会の地方予選で決勝戦に進み、全国大会進出の可能性が濃厚になります。決勝戦を目前にして片岡は、少年院の院長から「勝つな」と命じられます。光一の更生を心から望む片岡は、その命令を承服しかねるけれど、そう命を下さざるを得ない院長の、苦しい胸中も理解できます。 決勝戦に勝っても負けても、規則が立ちはだかり、光一には失望が待っています。 決勝戦を迎えた片岡は、勝利の女神に翻弄されるように、「運命の瞬間」を迎えます。 ボクはZamza氏の作品について、「○△×を付けると全部△」と書いたことがあり、この「逡巡」についても「作品に書かれていない場面、たとえば試合終了後に片岡が、光一に本当のことを話すか話さないか、話すとしたらどういう状況でどう切り出すかという「その後の葛藤」が描かれていたら、もっと引き込まれたかもしれない」と書きました。 この評を書いたときのボクは、どの小説を読んでも「書かれていないこと」が気になり、不満ばかり感じていました。 しかしその不満は「ないものねだり」で、一つの作品が読者の欲求や欲望を完全に満たす必要はないと、いまは思います。 テーマや題材が共通する作品がいくつ書かれても、それぞれが「似て非なる物」で、ある作品に書かれていないことは、ほかの作品に書かれていればいいわけです。既存の作品に書かれていないことがあるから、新しい小説が書かれる、とも言えます。 「逡巡」の片岡は、社会のルールやモラルと、個人の希望の間に立たされ、ただ目を閉じて運を天に任せるしかないような、苦境に立たされます。 苦しみなど誰も望まないし、苦労せずに済むならそれに越したことはない。それでも生きていれば誰でも苦境に直面し、苦労を引き受けざるを得ません。 「逡巡」は、読者にとって、苦境に慣れるレッスンと言えます。苦痛の渦中にある間は、いつまでも抜け出せないような気がしますが、快楽と同じく苦痛も長続きしません。いずれ光明が見えると信じるか信じないか、それだけの違いです。 いつの時代も、子どもの目から見ると親は愚かで、その愚かさが愛情であるとも言えます。子どもに注ぐ親の愛情が切断されることを「親切」と言っていいなら、社会のルールと、それを執行する人間は親切です。 親切は、父親代わりに光一に注いだ、片岡の愛情も切断します。光一が投げた最後の一球に、唇を噛み締めた片岡にとって、切れたものは唇だけではありません。 「キレる子ども」と「痛みを伴う改革」の時代、この国の到る所に「逡巡」があります。 作品に書かれていないことを想像し、それを文章化すると、新しい小説が生まれます。「逡巡」は小説の種を含んだ「実の小説」です。★★★★★ |