岩舘野良猫 「なにか大切な、なくしたもの」
◆02年11月28日◆なにか身におぼえのある、奇妙なこと

 いつ、どこで、誰が言ったか忘れましたが、
「自分とは、余りである」
 という言葉を目にして、巧いことを言うもんだなぁと、感心したことがあります。
 その頃のボクは、失業して臨時のアルバイトを見つけたものの、トラブルに遭遇して収入を得られず、精神的にかなりまいっていました。失業状態で、自分は余りだと気づかされ、苦痛ではあるけれど、なんとなく肩の力が抜けて息を抜く。そんな感覚でした。

「なにか大切な、なくしたもの」は、失業して、死んだことになっているけれど死んでいない男性が主人公の、ユーモラスな話です。
 主人公の赤松富士男は、まるで幽霊のような存在ですが、本人も死んだことに気がつかないし、周囲の人間にも生きているようにしか見えません。形式的に葬儀が行われるものの、読経する和尚も困惑し、愛人の月美だけが悲しみます。
 人騒がせで、本人も周囲の人間も困りますが、騒動が鎮まると日常に戻り、赤松は定年退職後のように暇を持て余す生活を送ります。

 職場でも家庭でも、赤松は何らかの役割を演じ、愛人の月美だけが赤松の「余り」を知っていたのだろうと思います。その月美が、赤松の肉体的な死後、赤松の息子の英一と交際します。ここにボクは、魂としか言えない無形の何かが、父親から息子に受け継がれる姿を見るような気がします。

 ボクはこの作品を読むと、2年前に亡くなった父を思い、父の死を看取った自分を思い出します。
 就職や転職、職場の移転などで、人は環境の変化を体験します。これは、自分がそれまで慣れ親しんだ世界から異界に移行することであり、異界への移行には苦痛と解放感が伴います。しかし、職場や人間関係は、内面化が可能です。誰でも、それまで親しくなかった職場や人間と、親しくなることが出来ます。親しくなることで苦痛が和らぎ、解放感も失われてゆきます。
 ところが死というのは、絶対に内面化できません。生きている人間が絶対に知り得ない「絶対的な異界」であるからこそ、死後の世界はいくらでも想像が可能です。
 死にゆく者にとっても、死にゆく者を見送る者にとっても、死は苦痛と解放感を伴います。人の死が描かれる小説は、読者に苦痛を意識させるか、解放を意識させるか、いずれかです。苦痛を意識させるのがアイロニーであり、解放を意識させるのがユーモアです。

 失業すると、悔しさ、悲しさ、憤りなどの感情が込み上げ、泣きたくなります。赤松は愛人の月美にだけ、涙を見せます。
 人間に限らず動物は、危機に直面すれば怒ります。何かを失ったときの悲しみは、憤り(攻撃性)を自己以外の対象に向けられずに、自己に内向する感情と考えられます。人間がほかの動物と違うのは、〈危機→怒る〉〈喪失→悲しむ〉という感情のメカニズムを学習し、それを笑いに変えることです。
 たとえば真剣に怒っている人の機嫌をなだめるつもりでからかって、すぐにユーモアが通じれば相手は機嫌を直し、ユーモアが通じないと相手はよけいに機嫌を悪くします。それでも時間が経てば、相手も機嫌を直して納得します。
 失業や死に伴う怒りと悲しみを知らずに、それを笑い話にすれば、不快感を与えるはずです。
「なにか大切な、なくしたもの」が不快感を与えないのは、作者が怒りと悲しみを知りながら、そのネガティヴな感情をユーモアによって、自我から解放しているからだろうと思います。

 といった理屈はともかく、
「なにか大切な、なくしたもの」は、味わい深くて、笑いを誘う、何度読んでも飽きない話です。★★★★★