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今夜の番組チェック

みねふじお 「夢虫」
◆02年11月21日◆夢を食う虫の不気味さ 人を食う作者のユーモア

 ボクの記憶が確かなら、
みねふじお氏はどこかで「長い話を好まない」と言っていたような気がします。

 優れた短編小説や掌編小説は「洗練」されています。この「洗練」とは、説明(エクスキューズ)を可能な限り排除することです。
「日本人はいつも説明不足だ」という意味のキャッチコピーが、何か大きな賞を受賞したと記憶していますが、説明不足の反動で、説明過剰の人が増えてきたような気がします。説明不足も困るけれど、言葉数がやたら多すぎても、やはり何を言いたいか伝わりにくい。
 言語と貨幣は、コミュニケーションの媒介物として、共通性があります。不況によって、お金を出して物を買う消費の快楽が充足されないと、口出し・言葉出しで代償したくなる。小説家が論説家に転向するのも、一種の経済活動と言えるかも知れない。

「夢虫」は、恋人あるいは女友達から、夢を食べる虫の話を聞いた男が、ある日本当にその「夢虫」らしき物と遭遇する話。

 かなり前「耳にピアスの穴を空けて神経が飛び出た」という、デマか実話かわからない噂話を聞いたことがありますが、
「夢虫」を読むとやはり半信半疑になります。〈こんな虫いるわけない〉と思う反面〈いや、これは何かの寓話かも知れない〉とも考える。
「幻想小説」や「怪奇小説」の効用は、このように「思う(信じる)」と「考える(疑う)」の間の揺れをかもし出すことにあります。

「癒し効果」を研究する自然科学で、よく「1/fゆらぎ」という言葉が使われますが、違和感や恐怖の体験がしだいに癒しに変化することで、個人の感性は豊かになります。怖さや不気味さは、可笑しさや微笑ましさに転じることもあり、ユーモアがある作者の作品には、その変化が読み取れます。
 たとえば
「夢虫」における次の一文。
「……俺の夢って何だったんだ?」
 そして最後の一文。
「頭をもたげ、俺を見る夢虫。」
 この一人称作品の語り手は、のっぴきならない精神状態にありながら、何か、自分を他人事のように客観視しているところがあります。これは一人の人間の内面で、親が子どもを見るように、超自我の視点で自我を見るもので、この視点の切り替えがユーモアの本質と言えます。

 ユーモアは、多くを語らず(説明せず)考える(疑う)こと、つまり哲学が、その源にあります。
「リング」「らせん」という怪奇小説の名作を書いた鈴木光司は、学生時代に哲学を勉強したそうです。
「夢虫」は、寡作なみねふじお氏のユーモアが発揮された佳作です。★★★