岩舘野良猫 「群盲」 「視愛」 「鏡像」

◆02年11月04日◆おごれる者久しからず 基本をあなどることなかれ

 昔むかしサッカー日本代表チームの監督に、デットマール・クラマーというドイツ人が就任しました。日本代表チームの選手たちは、世界レベルの高等技術を教えてもらえると期待しました。ところがクラマー監督は小学生レベルの基本プレーばかり選手にやらせます。日本代表としての意地とプライド(と自惚れ)がある選手たちは、クラマー監督のやり方にムカついて、反抗的な態度を示します。クラマー監督は辛抱強く、選手たちに基本の大切さを説きました。クラマー監督の人柄を理解するにつれ、選手たちは基本の大切さに気づきます。クラマー監督に指導された選手たちは、メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲り、フェアプレー賞を受賞しました。

 昔むかしサッカー日本代表チームの監督に、
ハンス・オフトというオランダ人が就任しました。日本代表チームの選手たちは、世界レベルの高等技術を教えてもらえると期待しました。ところがオフト監督は小学生レベルの基本プレーばかり選手にやらせます。日本代表としての意地とプライド(と自惚れ)がある選手たちは、オフト監督のやり方にムカついて、反抗的な態度を示します。オフト監督は辛抱強く、選手たちに基本の大切さを説きました。オフト監督の人柄を理解するにつれ、選手たちは基本の大切さに気づきます。オフト監督に指導された選手たちは、それまでは手が届かない夢に過ぎなかったワールドカップ出場の一歩手前まで迫りました。

 昔むかしサッカー日本代表チームの監督に、
フィリップ・トルシエというフランス人が就任しました。日本代表チームの選手たちの中に、海外トップ・レベルのクラブで活躍中の選手がいて、選手はみな基本プレーの大切さを実感していたため、トルシエ監督は基本の大切さを説く必要がなく、就任してすぐ世界レベルの戦略と戦術を選手に要求しました。トルシエ監督の作戦は、チームの主力選手や日本サッカー協会の偉い人から批判されましたが、トルシエ監督より有効な代案を示せる人はいませんでした。トルシエ監督に指導された選手たちは、日本人としてはじめてワールドカップの決勝トーナメントに進出しました。

 さて、WEB小説作者やアマチュアのライターには、派手な活躍に憧れ、地道な作業を嫌う人が少なくないと思われます。文学賞を受賞してプロになりたい、一発当ててやろう、そう思ったことが一度はあると考えられますが、いかがでしょう? 少なくともボクはそうです。そうして気が逸り、焦って作品を書くと、「拙速」という罠にはまります。
 たとえば野球少年は、豪速球で三振を取る投手やホームラン打者に憧れます。でも、力いっぱい投げれば速い球を投げられるわけではないし、大振りでホームランを打てるわけでもない。投手や打者として成功するためには、大切なポイントがたくさんあるけど、最も大切なのはフォームとコントロールではないかと考えられます。草野球ならフォームやコントロールが悪くても、まぐれで良い結果が出ることもあるけど、プロでは通用しない。レベルが高ければ高いほど、基本が問われます。

 ライターの世界では、フォームは文体で、コントロールは使用文字の正確さです。文法的な間違いや誤字・脱字・重字が多い文章は、コントロールが悪い。音程がわるい歌唱や演奏のようなものです。歌の場合、声量はなんとかなるけど、音痴の矯正は難しい。コントロールが悪い文章を、ボクは
「文痴」と呼ぶことにします。
 草野球の投手は変化球でごまかせますが、プロの投手には直球の球威が必要です。クセがあっても構わない、むしろメジャー・リーグでは、クセ球を投げる投手が歓迎されるようです。でも、肩に力が入った投球と、球威のある投球は違います。
 また、どのスポーツでも、アゴを引けと指導されます。アゴが上がると相手を下目使いで見る、つまり相手を見下す形になりますね。サッカーやラグビー、ボクシングなど、運動量の多いスポーツでは、試合中にスタミナと集中力が切れて疲れて来た選手は、アゴが上がります。
松井秀喜選手が打席に立って構えたときの顔を見ればわかりますが、アゴを引いて上目使いで相手を見据えます。

 前回紹介した
jamano氏は、上に述べた基本をしっかりマスターしていますが、今回紹介する岩舘野良猫(いわだて・のらねこ)氏の「群盲」は、基本を疎かにした作品です。アマチュア小説、言い換えるなら軟式草小説の力作と言えますが、これではプロで勝負できない。
 フォームについては、意識的に整えていると思われますが、コントロールがひどい。シュチュエーション? simulationを「シュミレーション」と書く人もいるけど、siがなぜ「シュ」になるの?「アクセラレータ・ボード」ならともかく「アセクラレータ・ボード」なんて語は、ボクだって意味も発音もわからない。間違っている者が無知な者をバカにすることを「目クソ鼻クソを笑う」と言います。
 何度も推敲を繰り返すと、結局、最初に書いた原稿(初稿)に戻ることがよくあります。そこで、推敲は面倒くさいから推敲しない、という短絡的な発想に陥り、「手抜き」と「合理的」をはき違えるライターもいます。しかし反復トレーニングを怠ると、鋭い鑑識眼を持った読者(編集者や評論家)に不備を見抜かれます。草小説界では無敵でも、プロの世界にはプロの読者(編集者や評論家)がいます。

「群盲」は相生英央(あいおい・えいおう)という男性が主人公の三人称小説に見えますが、三人称を装った一人称小説です。試しに「相生英央」を「私」に置換してみて下さい。一人称で賄える作品が三人称で書かれていることに気づきます。「なぜ一人称で書かないの?」と編集者から突っ込まれそう。
 
篠原ともえ浜崎あゆみ山川恵里佳坂下千里子など、一人称を使わない女性がいますね。彼女たちは自分を「シノハラ」「アユ」「エリカ」「チリ」と称します。このように自分のことを他人事のように語る論法を、ボクは「小娘的自己対象化」と呼ぶことにします。
 この相生英央が「臨界社」という創作サークルに参加し、創作に対する初心者向けの心構えに「なにをいまさら」と鼻で嗤います。「すでに五年以上も文章を書いて」いて「創作のしんどさを身に染みてしって」いる相生には、意地とプライド(と自惚れ)があり、サークルのメンバーを見くびって、テープ起こしは嫌だとほざきます。
「テープ起こし」という作業は、カセットテープに録音したインタビューや対談・座談会などの内容を、レポート用紙やノートに書き写す作業で、ボクも経験がありますが、面倒くさくて根気が必要な作業です。相生には、テープ起こしという地道な作業をやる意欲と根気が欠けています。長編小説を書こうとすれば根気とスタミナが必要で、テープ起こしは根気とスタミナを養う好機ですが、相生はアゴが上がっている。
「群盲」においては最後まで、「臨界社」のメンバーに対する相生英央の見くびりが描かれます。こういう世界では、他人を見くびる生意気なヤツがどこにでもいます(ボクもそうだし)が、相生の見くびり方は露骨で品がない。
 更科青子という女性が相生英央をからかう形で、ソフトに相生をたしなめる場面があります。ここで更科が
「武士は食わねど高楊枝」という故事を引用しますが、かっこつける男に対する皮肉は「据え膳食わぬは男の恥」のほうが鋭い。
「小説家は不遜であれ」とか「小説家は矜持を示せ」と言われますが、「矜持」と「倨傲」は違います。他人を見くびり侮蔑することで自惚れるのは、倨傲であって矜持と言えない。
 いかにもまことしやかな屁理屈が並んでいますが、
「群盲」は「自惚れ鏡」にとどまっています。「愛」という言葉の安易な使用を、ナイーヴに恥じて斥ける相生が、最後に愛について語りますが、この作品ではテーマに焦点が合っていない。
 そこで、他人に向けた侮蔑がそのまま本人にはね返ると思われる相生英央の物語は
「視愛」「鏡像」と書き継がれます。

「視愛」もコントロールが悪く、出版社に持ち込んでも編集者から突き返されそうですが、「小娘的自己対象化」ではなく、三人称で書かれるべき作品になっています。
「視愛」で相生英央は三姉妹と関わることになり、不治の病に冒された次女と恋仲になり、次女の病死により別れを迎えます。
 この
「視愛」を読んで、ボクはなんだか、カラオケで思い入れたっぷりに歌うオジサンの歌を聴く感じがしました。「血友病」が「友血病」じゃギャグですよ。(逆とギャグを引っかけたダジャレです)相生と次女の最後の性交場面が長めに描かれていますが、ここは大幅に削ったほうが良くなると思います。
 大昔
「星菫派」と呼ばれた人たちが「愛と死を見つめて」というテーマを好んで書き、山口百恵三浦友和の難病恋愛ドラマがバカウケした時代もありましたが、あれを意識的に狙ったんでしょうか? 違うか。

「群盲」「視愛」で描かれる相生英央は、ネガティヴな感情が怒りや暴力として解放されることなく、侮蔑や嫌悪という、怒りや暴力より弱いけど、それだけ持続的な感情に抑制されています。誰か都合のいい相手にバカヤローとかウルセエとか怒鳴っちまえばスッキリするのに、スッキリさせないで、ネガティヴな感情をずっと抱え込んでいる。この性格の由来が「鏡像」で解き明かされます。
「鏡像」から、相生英央はAC(アダルト・チャイルド)であることが読み取れます。AC(アダルト・チャイルド)というのは「アルコール中毒、ギャンブル中毒、仕事中毒などの親から子ども時代に傷つけられた人」で、相生英央は暴力的で怒りっぽい父親みたいになりたくないから、怒りを抑圧していると考えられる。
「父親みたいになりたくない」という心理は、父親の呪縛から解放されていないわけです。過剰に暴力的な父親への反発が、暴力を過剰に抑圧する性格を形成する。怒らない人は聖人君子みたいで尊敬されるけど、周りの人間は、実は尊敬の念より、いつキレるかわからない、キレたらどうなるかわからない、そういう恐怖で、ACとの親密な関係を避けます。

 そして
「鏡像」においては、この相生英央3部作がどのように構想されたか、種明かしが行われ、作者の創作論が書かれます。作品の中に自作の解説が入っているわけです。ネタバレを過剰に意識するのもどうかと思うけど、作中でネタバラシをやられると、もっとガッカリ。
 
三島由紀夫「仮面の告白」で、こういう小賢しいことをやりましたが、学生の頃にはボクも「仮面の告白」を面白いと思ったんですが、いま読むと非常に不愉快なんです。
 作者の
岩舘氏には申し訳ないけど、ボクは【nobody】という小見出しが付いてる部分で読むのをやめました。文痴にイライラしながら、この先に何があるか期待しながら読み進んだのに、どうしてくれるんだバカヤロー!
 イヤミをたくさん並べるより、怒鳴ったほうがスッキリしない? 感情を解放しましょう。人間が頭の中でこしらえた理屈なんて、いつかは破綻するに決まってる。でも「バカヤロー!」の一言には、いくら言葉を費やしても語り尽くせない、愛情(情報)が含まれているのです。
 というワケで、完読レヴューは最後まで読んだ人に任せます。面白い小説は、完結していなくても面白い。読者は楽しめるところまで楽しんで、最後まで律儀に付き合わなくていいのだ。

 念のため断っておきますが、相生英央=
岩舘野良猫氏かどうかわかりません。小説の登場人物は物の見方や考え方が作品に固定されるけど、生きてる作者は物の見方も考え方も変化します。
 むしろ作者の
岩舘氏は「これはただの作り話で自分のことじゃないよ」と言いたがってるようにも思えます。そう考えると、文痴も見くびりも、相生英央のことであって自分は違う、と作者は言い逃れできます。春宮氏と同様、岩舘氏も演技する作者と言えるかも知れませんが、どうせなら「不愉快な虚像」ではなく「魅力的な虚像」を描いて欲しいです。
「群盲」「視愛」「鏡像」の3作品は、小説を書く人の勉強にはなるかも知れない。

 あ、なんだか酷評になっちゃった。なんだかんだ言って、途中までは良かったんですよ。面白い方向に転ぶんじゃないかって、期待しながら読んで……野球に喩えると、応援してるチームが僅差で負けてたけど、逆転できそうな雰囲気だった、でも、7回に大量失点で勝負が決まった、という感じ。敗因は、不調ながらなんとか抑えていた先発投手に代わって、監督がリリーフ登板しちゃったこと、ですかね。

 小説は、会いたい時にいつでも会える、先生であり、友人であり、恋人である――この自論から言うと、この3作品はボクにとって反面教師です。人間は忙しすぎると機嫌がわるくなるし、仕事が雑になる。ヘタでも、遅くても、丁寧な仕事のほうが好感が持てるし、信頼できます。
 スペインのファリャ(火祭の人形)職人、
ビセンテ・アグジェイロさんは言いました―Hay que vivir mas tranquilo.(人はもっとのんびり生きなければいけません)
 
夏目漱石は45歳から小説を書き始めたのだ。

 次回から
「マイッタナ鞠棚」シリーズに突入します。