◆02年11月04日◆勝負師は奇策を弄せず
芸術は高尚であり芸能は低俗であるという感覚を持つ人は現在でも少なくないと思われますが、いつの時代もタレント(才能)は芸術としても芸能としても発揮される可能性があるわけで、モーツァルト、シェークスピア、ドストエフスキー、夏目漱石、三島由紀夫、アンディ・ウォーホルなどは、芸術家であるとともに芸能人でもあったのではないかと考えられます。芸術家であり芸能人でもある才能として、北野武/ビートたけし(以下タケちゃん)が、我々には親しい。
そのタケちゃんを特集したスペシャル番組が過日NHKで放送され、映画はごまかしが利くけどお笑いはごまかしが利かないとタケちゃんが語っておりました。映画は芸術だなんだと勝手に解釈してくれるけど、お笑いはお笑い以上でも以下でもない。映画はリアルタイムで外しても、滑っても、先にはどう転ぶかわからないけど、お笑いはリアルタイムで外したり滑ったりするともう終わり。と、タケちゃんから神託を承った気がしましたが、もちろん映画製作は建築並みにお金がかかるので、コケると不良債務が発生します。自動車免許を持たないボクは、高速道路を造らなくていいからその金を映画に投資しろと言いたくなりますが、高速道路と映画のどちらが公益度と回収率が高いか、ボクには計算も予測も出来ない。
それはともかくWEB小説の作者にも、芸術を敬遠するエンターテインメント偏愛派もいれば、芸能を軽蔑する純文学偏愛派もいて、個々の作者がいかなる派閥や立場にあろうと構わないけれど、「君子は多能を恥ず」と孔子が言い残したように「一意専心」で道は開ける、「Tutte le
strande portano a Roma/すべての道はローマに通じる」と言われるように、一芸に秀でる者は他芸の才にも敏に感応してどこかで交わる、類は友を呼び、朱に交わればシュラシュシュシュ。(こんなこと書くと煙に巻かれた感じがした読者から「詭弁だ」とお叱りを受けるかも知れませんが、カトリセンコウは煙たいに決まっているのだ、わっはっは)
芸術・芸能の区別を問わず芸の世界には「ホンコン・ウイルス」が潜伏していると思われます。お笑い芸人のホンコン(蔵野…なんだっけ?)が、先輩風を吹かして自分より売れている若手芸人相手に「笑いの3原則を言うてみい。ツカミ、本ネタ、オチや!」と酒の席で説教する、今田幸治がギャグにしましたが、ああして先輩風邪を吹かして場を寒くするビョーキの原因をボクは「ホンコン・ウイルス」と呼びます。来年の流行語大賞を狙いますので、みんなで流行らせて下さい。
とは言うものの先人・先輩を侮ったり見くびったりすると痛い目に遭うこともあり、老い先短いお年寄りとカトリセンコウを大事にして下さい、お願いします。(あ…墓穴。まるでオレがすぐに燃え尽きて灰になるみたいじゃないか)
と、いつもながら、いや今回は特に、前説が長くなりましたが、いつかそのうち前説9割・本題1割なんてやってみようかね。
今回紹介するjamano氏は「文学的に育ちが良い」感じがします。人格的に育ちが良いかどうかはわかりませんが「文学的に育ちが良い」ことはjamano氏の文章を見ると一目瞭然、きれいです。滝沢秀明とか小泉孝太郎とか育ちが良い人は顔がきれいで爽やかで好感が持てますね。西川きよしは「小さな事からコツコツと」目を剥き出して張り切って売れましたが、いまは「小さな顔からピカピカと」張り切らなくても時代が放って置きません。もちろん育ちが悪いヤツは張り切らなければいけないわけで、成り上がり叩き上げ唐揚げは貧乏人の憧れ、フライドチキンもチキンナゲットもない時代の少年にとって、唐揚げはクリスマスのご馳走で、西田敏行が杉田かおるから「お父さん」と呼ばれ武田鉄也が杉田かおるから「先生」と呼ばれた時代には、育ちが良くて顔がきれいな男優は周囲のひがみ・やっかみで肩身の狭い思いをしたと思われるけど、男は黙ってサッポロ・ビール派もスカッと爽やかコカ・コーラ派もセレクトできる時代のほうが豊かであるに決まってるし、こういう時代には貧乏人の苦労は、涙を誘う人情話や顰蹙を買う自慢話ではなく、笑い話になればいいけど、燃え尽きて灰になったら笑えないのでhighになるのもほどほどにします。ほどほどにしろよ杉田かおる。
なんだか論旨が理路整然としてないですが、要するに豊かな時代にはTBS安住伸一郎アナウンサーのように小さくてきれいな顔もウケるし、雨上がり決死隊・宮迫やDonDokoDon・山口みたいにデカくておもろい顔もウケるし、江守徹や中尾彬のデカいコワモテもウケるし、デカい顔+小さい顔の中川家には勢いがある。顔がデカくても乳がデカけりゃライド・オン・タイムだ小池栄子。
ちなみにjamano氏は現在、仙台に棲息しているそうで、村山雲氏とともに仙台は本当に学都かも知れないと思わせてくれます。宮城の伊達文士ほくそ笑む。Gacktじゃなくて学都だよ。Gacktもアーティスト的に育ちが良い感じ。
で、なぜ小さくてきれいな顔に言及したかと言うと、jamano氏がライト・ノヴェルについて論じていて、ライト・ノヴェルと呼ばれる小説が、小さくてきれいな顔がウケる時代を象徴している、とボクは考えたからです。(おお、我ながら見事なこじつけ)
偉大な巨匠の時代には、小説家は長編小説(ロマン)によってがっちり世界を構築し、自分の生前や死後あるいは異国、つまり「異界」を想像して「ここではないどこか」を描いてみせる、と、かようなロマン主義が支配的であり、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でロマン主義文学の規範をクリアした村上春樹は、コスモポリタン(無国籍者)を描くことで、民族間や国家間の境界に生じる軋轢を乗り越えたかのように見えたけれど、村上春樹のコスモポリタニズムがアメリカ合衆国のグローバリズムに荷担した印象は拭えず、ロマンそのものが世界の覇権(ヘゲモニー)を志向する政治思想(イデオロギー)に荷担する物ではないかとも考えられる。
現代人は矮小だ、現在の小説は矮小でつまらないと批判されるけど、むしろ「大きな物語」を志向するロマン主義が批判されるべきではないか。「男のロマン」とか「女のロマンス」とか、なんか寒くない?
だいたい日本人は大きな物より、精密機械的なコンパクト・サイズの物を作るのが得意なのだ。巨額の資金を投入して橋や高速道路を造ったけど採算が取れなくて、半導体や精密機械やコンパクト・サイズのクルマで外貨を稼いで埋め合わせしてるんだぞ、わかってるのか建設族議員! 田中角栄も小泉純一郎も「国民宰相」として歴史に名前が残るだろうけど、田中角栄は顔がデカくて、小泉純一郎は顔が小さい。
というわけで技術立国日本には、大きな物語や長編小説より、サイズがコンパクトで精密機械のように技術の粋が詰まっている小説が、合っています。ライト・ノヴェルはお子様ランチだと見くびる中高年文学愛好家もいるでしょうが、言うまでもなく時流の変化に敏感で変化に素早く適応するのは青少年であり、中高年は時流に背を向けて自分の青春時代を懐かしみ「ホンコン・ウイルス」を撒き散らすのです。
さて、jamano氏の「氷雨」は将棋界の新旧交代を予感させる大勝負が描かれた作品で、将棋を知らないボクも面白く読めました。将棋を知っている人が読むと「こういう話はよくある」という感想が書かれたり、ケチの付けどころが発見されたりするかも知れませんが、阿佐田哲也の麻雀小説や(具体的な名前が出て来ないけど)競馬小説みたいに、将棋の面白さが伝わって来る。
大勝負の緊迫感を描くには、文体も構成も弛緩してはいけないし、スキを見せてはいけない。いわゆるネタバレやオチバレを過剰に意識する作者がいるけど、こういう話はお約束でいいのだ。展開が読めても構わない。将棋という題材を選んだ作者のjamano氏は、この作品ではその題材に相応しく、奇を衒わず真っ向勝負。作中に書かれているように、jamano氏はこの作品で「定跡の洗練」に献身してます。棋士が盤上の駒を動かすように、jamano氏はじっくり考えながら一つ一つの言葉を動かす。
老成ぶりを見せるjamano氏は「早熟の天才型」と言えますが、「天才的」であっても「天才」ではない。小説家を志す若者が陥りやすい錯誤や迷妄や誘惑を斥け、ただ小説家として小説を書いている。読者はいまのところ、jamano氏の作品を鑑賞すればいいだけです。
jamano氏は「ローマの道」に向かっている。しかし極東の島国からローマに辿り着くには、父親の世代より大きな橋を架けなければいけない。島国に住む者にとって「ローマ」はやはり「ロマン」なのだ。逆風・横風・荒波に流されず海を渡るまで、jamano氏は何度も「習作」の志に立ち返る。
顔が小さくても胸を張って生きてる人は、視界が大きい。お辞儀の処世術で腰の曲がった老人が、他人の足元を見て威張る。将棋の棋士は常に背筋を伸ばさないと和服に合わない。人を驚かせるような大きな音を立てず、やわらかく駒を動かしても、筋が一本通っている。カルシウムが欠乏すると感情の起伏が激しくなりますね。骨が折れやすいとくたびれやすい。背骨は大事です。子どもたちに尊敬されないだらしない大人は、姿勢を正して「氷雨」を読みましょう。
カトリセンコウには背骨がないです。ドロンパ。
次回は岩舘野良猫氏の「群盲」「視愛」「鏡像」を紹介します。