山田亮「ダイアモンドの犬」

◆02年10月27日◆弱さを憎んで自壊する「ガラスの犬」

 いわゆるヤンキー、暴走族、チーマーと呼ばれる人たちは、徒党を組んで一般人を威嚇しますが、上から抑えつけられることを嫌うだけで、根は善良な人が多い。もちろんそのまま極道を歩む人もいると思いますが、結婚して子どもが出来て、手に職をつけて働く喜びを知ると、立派な仕事をやる人が多い。他人に迷惑をかけ、怖がらせるので、彼らのグループ活動は非難されますが、どのグループも、どの人も、同類というわけではありません。
 ただバイクに乗るのが好きで、峠を攻めるだけのグループや、威嚇にとどめておくグループはいいけれど、オヤジ狩りやホームレス狩りをやる連中は犯罪集団です。リーダーが人間に対する暴力の快感を求めて、グループを組織すると、遅かれ早かれグループそのものが自壊します。テロリズムは中東、アイルランド、東欧、南米だけの話ではなく、どの国の青少年にも普遍的に潜在している。

 
山田亮(やまだ・りょう)氏の「ダイアモンドの犬」は、オヤジ狩りを実行するテロ集団リーダーの一人称小説で、ピカレスク(悪漢)のヴァイオレンス物です。
 現代の優れたピカレスク小説として、
トマス・ハリス「羊たちの沈黙」村上龍「イン ザ・ミソスープ」が挙げられますが、オヤジ狩りのリーダーは殺人鬼と較べるといかにも矮小。
 
山田氏のタッチは、ペンキやスプレーで壁に描かれた絵のように荒々しい。村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」について吉本隆明が「ペンキ絵のようで、小説家はこういう描写を嫌悪すべきだ」と評したことを思い出します。
「ダイアモンドの犬」は、重箱の隅を突付くようなアラ探しをしなくても、あらら、あらら、あらららら、とアラが一目瞭然です。短編小説としての完成度や洗練度を問うなら「嫌悪すべき」作品です。パンク・ロックが騒音にしか聞こえない人は、この作品のディストーション(歪み)に不快感を覚えるかも知れない。ボクはパンクが好きだし、面白さを感じなかったら、このコンテンツで紹介しません。
 ええと。ネタバレってヤツに配慮したほうがいいですね。以下の文章は、作品を読んだ後に読んでもらえるといいです。

「ダイアモンドの犬」の語り手は、警察官の耳をライターで炙りながら、自制心自制心自制心と自分に言い聞かせる。これは危機感を煽られるどころか、滑稽です。人は自制心が足りなくて発狂するわけではなく、過剰に自制すること、過度に自我を抑圧することで、発狂します。
 この語り手ははじめから心理が倒錯し、精神が歪んでいます。解放するべきものを抑圧している。この青年は何かを隠しています。
「強者」という言葉が使われますが、この概念も
ニーチェとは逆。ニーチェにおける「強者」は身体的な強者ではありません。徒党を組んで人を傷つける者は、ニーチェに言わせると「強者」どころか「末人」です。人は誰でも「末人」として生まれ、子どもの残酷さ、青少年の野蛮さを乗り越え、あらゆる生命を肯定して「人間」になる。「ダイアモンドの犬」における「猿」もニーチェの「末人」にあたります。
 この語り手が、
中上健次の小説を読んだかのように書かれていますが、中上の小説を読んだ男が徒党を組み、オヤジ狩りをやるなんて、いかにも怪しい。オヤジ狩りをやっていた者が中上の小説を読み、自分の矮小さを恥じて堅気になるなら納得できるけど。
「ダイアモンドの犬」ではまるで、中上が描いた暴力を、読者が真似するかのように読めてしまう。テロ集団のリーダーが、中上の小説を引き合いにして、暴力を正当化しているように読めてしまう。これも歪んだ精神の倒錯心理によるもの、それが破綻して自壊に終わることを、作者の山田氏は書いてるんだけど、中上作品の読者を見くびっている印象を受けます。
 自壊に気づいた語り手が「ナカガミケンジは俺を笑うだろうか」と問いかけます。
中上健次が生きていて、この作品を読んだら、おそらく冷笑し、山田氏の腰が立たなくなるほど、酒を呑ませるに違いない。

「ダイアモンドの犬」は、「犬」が集団で「猿」を襲う「犬猿の仲」の寓話として読み取れますが、「犬」も「猿」と同じくニーチェの言う「末人」であり「人間」になりきれていない。「猿」の弱さを憎むのは、弱い自分を憎んでいるから。「光を浴びれば、その角度によってきらきらと輝く」と語り手は独白しますが、要するに自分に光を当ててくれと、情けを求めている。脚光を浴びるどころか、刑務所か精神病院に収監されるのがオチです。「犬」が癒されない傷を抱えていること、精神が腐敗していることは、容易に想像できますが、ダイアモンドは傷つかない。集団で「猿」を襲う「犬」は、自我も意志も精神も、ダイアモンドどころか、ガラスのように脆い。
 ガラスが人を傷つけることはよくあるけど、ダイアモンドが人を傷つけることは滅多にない。この作品のタイトルは「ガラスの犬」でなければいけません。
 語り手は何かを隠していると書きましたが、この作品には家族と女が書かれていない。娼婦は出て来るけれど、固有名を持った女は出て来ない。買春するオヤジを「猿」と罵りながら、売春する側の娼婦に対しては、妙にやさしく、思いやりがあります。オヤジ狩りと言っても、不特定のオヤジを狙うわけではなく、女を買う男を狙います。ここから、語り手の行動は「猿」への憎悪ではなく、買春に対する憎悪、フェミニズム的正義感に基づいていると考えられますが、書かれていないことは想像の域にとどまるだけで、読み取れない。
 
村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」で、破壊の雰囲気を読者に伝えただけで、映像を意識した描写が出来なかったように、「ダイアモンドの犬」も用語法に不備があり、どこまで厳密に考え抜いて書かれたかわからない。作者が言葉を動かすのではなく、言葉に作者がもてあそばれている印象を受けます。

 
山田氏がこの作品で見せたのは、徒党を組んで人を傷つける者の欺瞞であり、安直なヒューマニズム(人間中心主義)への挑発です。アニミズム(擬人化)作品は、人間以外の生物に、人間的な意思や感情を与えますが、山田氏はその逆で、人間が動物であることを描いています。
 卑屈が傲慢の反転であるように、偽悪は偽善の反転です。正義が欺瞞に満ちているなら、アンチ正義の悪も欺瞞に満ちている。
 
ニーチェの言う「強者」や「超人」は、剥き出しの神経系が傷ついても、明るく振舞っているような人のことです。輝きは、正義と悪が敵対する構造の外にある。この「構造の外」を、ニーチェ「善悪の彼岸」と呼びました。
「ダイアモンドの犬」には、弱さに対する憎悪と、ダイアモンドのように傷つかない強さへの、熱病のような希求があり、「傷つかない強さ」は、愚鈍にして傷つきやすい青少年の妄想です。

 しかし、アンファンテリブル(恐るべき子どもたち)やアングリー・ヤングメン(怒れる若者たち)は、何度も繰り返し描かれ、読まれるべきです。社会に適応したエスタブリッシュメントの大人たちは、自分勝手に「子どもらしさ」や「健全な青少年」を次の世代に期待し、要求するけれど、いつの時代も若者は
「I can get no satisfaction」であり「No future」です。
 自分が小さく、弱くて、無力だと悟った後で、
ジョン・レノン「Imagine」が聴こえてくる。
「ダイアモンドの犬」は断末魔で赤い蝶を見る。しかし「Imagine」は聴こえない。犬の聴覚は敏感なはずなのに。
 人はやわらかいから、傷ついても治ります。人の神経は傷つきやすくて弱いから、音楽に反応します。人の弱さを憎まず、許せるようになったとき、「犬」はやっと「人間」になり、光を浴びる。

山田氏に責任はないけど、この作品はタイミング的に「いま読まれると作者が困る小説」だよね。アメリカの連続射殺事件、モスクワの劇場立てこもり事件、そして日本では石井議員刺殺事件……よほどのバカじゃなきゃ誰でも危機感を抱えているはず。読者がいま読みたい小説は、危機感を煽られる話ではなく、平和への祈りと希望が見える話じゃないかな。ボクは今年の年末と来年の正月も佐野元春「クリスマスタイム・イン・ブルー」「ヤング・ブラッズ」を口ずさみ、GLAY「BELOVED」「Pure Soul」を聴き、エルヴィス・コステロ「エヴリデイ・アイ・ライト・ザ・ブック」を聴き、クイーン「ボヘミアン・ラプソディ」「伝説のチャンピオン」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」を聴いて、「バタフライ」を書き続けるのだ)

 次回は
jamano氏の「氷雨」を紹介します。