◆02年10月24日◆通天閣越えフォンターナ取扱説明書
小説や文学の世界は、広くて、多様で、奥が深いです。そりゃあもお、奥はすごい(と思います)。
プロの小説家は印税収入で、自分の作品がどれだけ売れているか、どれだけ読まれているかわかるので、生活できるだけの収入が得られれば、酷評を書かれても平気です。でも、WEBで小説を発表しても、どれだけ読まれているかわかりませんね。自信やプライドを持てるはずがない。
通貨を媒介にしたコミュニケーションと、言語によるコミュニケーションでは、質が違うと考えられます。お金を払って読んでくれた読者の苦情や不満は、真剣かつ謙虚に受け止められる。でも、タダ読みの読者から文句を言われると、逆ギレされてる感じがする。言論の自由というタテマエがあるから、批判されても仕方ないけど、苦情や不満は批判と呼べるのか? そんな疑念が湧いてきます。
ボクは「第3回うおのめ文学賞短編部門」で、横丁当番氏、iuaoiio氏、金子真悟氏、村山雲氏、彩木映氏、風月氏、白野田真知氏など、並居る強豪と競合して第1位を受賞しました。自信とプライドを示すことが、彼らと、ボクの作品を応援してくれた方々への、礼儀だろうと思います。
ボクは小説の書き方を、先人から学んで来た(あるいは盗んで来た)けれど、教えてもらったことはないです。山田詠美が「熱帯安楽椅子」の中で「私は勉強は好きだけど、教えられるのは好きじゃない」と書いていますが、ボクも同感です。
小説は、会いたい時にいつでも会える、先生であり、友人であり、恋人である。
下手クソだろうがひねくれていようが、読みたい時に読めて、そこに描かれている人間とともに時間を過ごす――小説はボクにとって、そういう物です。別に刺激的な性描写がなくても「おかわりシスターズ」や「テニス」という文字を見ただけで、ボクは芋づる式にいろいろなことを回想し、ムラムラと欲情することもあります。
テキストは、読者の目に触れたとき、作者の意図を超えて意味を帯びる物であり、読者の解釈まで作者はコントロールできない。そして読者は、先生や友人や恋人のように、作品や作者に共感したり反発したりする。さみしい世界、にぎやかな世界、寒い世界、あったかい世界、緊迫した世界、穏やかな世界……いろいろあるから、小説は面白い。
ボクは「宮城の伊達文士」を標榜し、横丁当番氏には「墓堀りダイナマイト」、Zamza氏には「香川のトヨエツ」というキャッチフレーズがありますが、今回紹介する魚住(うおずみ)なりす氏は「通天閣越えフォンターナ」です。
明治の文豪と呼ばれる森鴎外は「石見のイヤミ人」を自称したそうですが、イヤミばかり書く批評家気取りは、鴎外を見習ったほうがいい。
イケナイ式の否定的な感想しか書かない人は、おそらくユーモア偏差値が低いのだと思われますが、魚住なりす氏はユーモア偏差値が高く、ユニーク偏差値も高い。何しろサイト名が「ちょっときなさいおはなしがあります」というぐらいで、ボクは鈴々堂氏のWEB小説紹介文でこのサイト名に誘惑され、魚住氏のおはなしを伺いました。
「フォンターナ」は「噴水」のことですが、シニョーラ魚住は油圧式の電動噴水です。噴水は、それを見る物の心のあり様により、色や形が変わる。
ボクは文術修行の途上にあり、人妻の色香や妖気に惑わされている場合ではないですが、シニョーラ魚住は具合がいいのです。爪を立てて引っ掻いたり、噛み付いたりするわけではなく、敏感な部分を撫でてくすぐり、時にはつねるような悪戯をする。非常に具合がいいだけに、自制しないと依存に陥る。この噴水、ジャグジーみたいに気持ちいい。どっぷり漬かったらふやけると、本能が危機感を呼び覚ます。だからと言ってしばらく放置すると、この噴水、油を漏らします。定期的に動かさないと油が回らなくなるので、時々手入れしないとだめになる。
魚住氏は関西芸人らしく、いじられると喜びます。芸術家気取りでお高くとまることはないです。芸のためなら亭主も泣かします。大きな事件や深刻な問題を書かないけれど、日常のちょっとしたことで危うくなる人間関係を描きます。ふつうの人は大きな事件に遭遇することは稀で、犯罪小説などは他人事として安心して読めるけど、日常の小さな亀裂に、読者は不吉を感じる。亀裂は見えそうで見えないぐらいがちょうどいい。ぱっくり開いて見せられても困る。
拙作「ネクロフィルハルモニア」に不満を訴えた嶋中康次氏などは、こういった小さな物語を読みたいのかも知れませんが、繰り返すけれど小説や文学の世界は、嶋中氏の気(器)に入らないほど、広くて多様で奥が深いです。
「マニュアル」は主婦の一人称小説で、「第3回うおのめ文学賞」にエントリーされた「ミシン」と同系の作品です。何事もマニュアル通りの夫と、マニュアルに囚われない元彼、二人の男性像が対照的に描かれています。
マニュアル通りの男というと、融通が利かない冴えない男というイメージがあり、魚住氏もデフォルメを加え典型化して描いています。ここで魚住氏は「マニュアル」を、本能や直観などの先験性と対比させていますが、「オートメーション・システム」と対比させると「マニュアル」という言葉が、違う意味を帯びてきます。
宇多田ヒカルの「オートマティック」のように、名前(ID)を入力しなくても声を聴けばわかってくれる対象との関係は心地いい。でも、クルマもカメラも上級者ほど、オートメーション・システムに物足りなさを感じます。オートメーション・システムだと、人間はテクノロジーの制約に不自由を感じます。便利になればなるほど、人間は不自由になる。
原稿用紙に手書きで文章を書いてきた人は、ワープロというテクノロジーがなくても困らないけれど、ワープロで文章を書き始めた人は、ワープロがないと困るはず。テクノロジーへの依存度が高くなると、テクニックが退化する。マニュアルをマスターすることは、オートメーションより不便で面倒くさいけど、自由です。
日本人は横断歩道で、危険がなくても信号が赤なら渡らない、そんな風に外国人から指摘されます。「信号が赤なら渡らない」というオートメーション・システムに、日本人は従順なんですね。この従順さは、行儀の良さを美徳にしてきた国民の伝統が反映されているのだと思いますが、合理的ではない。
マニュアルを理解することは、テクノロジーの構造を認識することであり、原理や構造を認識することで、人間は構造から自由になります。
あ。「通天閣越えフォンターナ取扱説明書」を書くつもりだったけど、だめだこりゃ。
だって恋人はコントロールできないし、取扱説明書(マニュアル)なんか作っても役に立たないもん。ワイはマニュアルよりアニマルがええねん。耳の形がヨーダでも、死んだ珍獣の霊が取り憑いててもええねん。珍獣の育て方にマニュアルはないねん。ワイは掛布とバースと岡田にボコボコに打たれた槙原とタメ歳で、血液型も一緒やねん。掛布の顔はやさしいし、岡田の顔は笑かしてくれるけど、ナメると痛い目に遭うねん。魚住には汁とみそがいっぱい詰まっとるんやけど、イボイボとハサミを持ってんねん。和やかに付き合いたいねん、名古屋蟹。カナリア・ダイアモンドでもメキシコオパールでもなんでもええねん。ワイは独身やけどカミサンの出産に立ち会うことがあったら、ズボンに突っ込んだ手をコスコス動かしてまうわ。日常生活のいたる所に魚住がおるねん! 魚住なりすは細部に宿る。ええんか? ええんか? ええのんか? ……失礼しました。アホちゃいまんねん、パーでんねん。
作者が作品の書き方を変えられるように、読者も作品の読み方を変えられる。読者の読みは、作者の意図に合致しなくても構わないけれど、読み違いの責任は作者にない。読み変えられるという意味で、小説は自由です。
魚住ワールドは、くすくす、にやにや、笑えます。ただし、蟹もフグも、美味しい物には食べてはいけない部分がある。フグの猛毒が含まれる卵巣を、2年半〜3年ぬか漬けにすると、食べられるようになるそうですが、魚住ワールドの構造はまだ認識されていません。
みんなでいじりましょう。
次回は山田亮氏の「ダイアモンドの犬」を紹介します。