
◆02年10月20日◆マテリアル・ワールドのダンディズム
今回は春宮(はるみや)氏の「モンク・ストラップ」を紹介します。でも、春宮氏はいまさらボクが紹介しなくていいくらい、既にファンというか読者を獲得しているし、「鞠棚小説祭」を覗くと「モンク・ストラップ」に対する反響があるので、ボクは春宮作品を通して「我らの時代の音楽と文学」を論じてみようかと思います。
まず第一に春宮氏は、簡単に言うと、クールでセクシーでダンディです。
ややこしく言うと――春宮氏の作風にはアメリカン・ポップ・カルチャーの影響が如実に見られ、音楽・文学・絵画・映像など各ジャンルにありふれて陳腐化したポップ・カルチャーに辟易した者には、退屈な印象を与えるものの、どんな小説を読んで小説を書いているかわからない小説書きが多い現況において、文学的出自と作風がヴィヴィッドであることは好ましく、曲がりなりにも「作風」や「スタイル」と呼べるものを見せているだけで、文学なり小説なりへの愛情が感じられ、その情熱と衒気に読者は酔わされる――という感じです。
春宮作品は一応「文芸作品」と読んでいいと思うけれど「純文学」ではない。ポップ・アートであってファイン・アートではない。「純文学」ではないことは、登場人物の科白のやり取りに如実に現れています。劇画やドラマや映画の原作かと思われるほど、科白がキザで嘘っぽい。
この、ちょっといかがわしい科白回しは、写実主義あるいは自然主義リアリズムの観点から批判されるべきですが、写実主義や自然主義のほうも疑われるべきであり、むしろボクはここに春宮氏の世代の音楽体験を読み取りました。
春宮氏はプリンスがお気に入りのようですが、ボクは春宮作品にマドンナの「マテリアル・ワールド」をイメージします。プリンスもマドンナも「MTV時代の寵児」で、音楽アーティストのプロモーティヴ・パフォーマンスが、ライヴ・コンサートから映像に移行した時期に出現したスターです。観客がアーティストの容姿を間近に見られるようになっただけに、アーティストは見られることを意識せざるを得ない。
フォークやパンクの全盛期は汚い格好でOKだったけど、MTV以降は身だしなみに気を使うようになり、ファッション業界だって、音楽アーティストによる宣伝効果を見逃すはずがありません。
パンク・ロックの登場で「ロックは死んだ」と宣言されたあと、バグルスというテクノ・ポップ・グループの「Video
killed the radio star(ラジオスターの悲劇)」が大ヒット。MTV以降は音楽アーティストが、サウンドだけでなく(あるいはサウンドよりも)、服装やメイクアップによる演出に力を入れるようになった。春宮氏の「アスファルトの粒」で賞賛されているデヴィッド・ボウイも、やはりMTV時代に再評価されたスターです。いわゆる「ヴィジュアル系」音楽アーティストというのは(グラム・ロックのアーティストがそうであるように)MTV以前にも存在したけれど、MTVの登場で「音楽のヴィジュアル化」が加速されたわけです。
日本文学の世界にも時流に敏感な人がいて、その急先鋒的な存在として「なんとなく、クリスタル」の田中康夫が挙げられます。「太陽の季節」の石原慎太郎と同じく、田中康夫は当時の若い世代の感性を象徴していたと言えますが、二人とも政治家として人々の記憶に残る人たちであり、少なくともボクは彼らを小説家や作家として認めない。
それはともかく、ヴィジュアル系音楽が「純音楽」ではないという意味で、春宮作品も「純文学」ではない。そして現在の日本で、音楽・演劇・漫画・映像から影響を受けない「純文学」作品を、書ける作家がいるかと言えば、おそらくいない。「純文学」は実現不可能であり、実現不可能であるが故に「理念」です。それはちょうど、実質的に武士が存在しえなくなった江戸時代に「武士道」が理念化されたのと同じです。
【閑話休題――「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士の討ち入りは「武士道」という理念に殉じた者たちの美談ですが、あれは当時としては「時代錯誤の凶行」だったようです。三島由紀夫のハラキリもやはり「自国文化防衛」という理念に殉じたパフォーマンスで、大義名分の理念に殉じるパフォーマンスは、美談として神話化され伝承されるけれど、神話は疑われ、批判されるべきものです。いわゆる「夭逝の天才」神話、あるいは「天才」という概念そのものが、ロマン主義文学によってねつ造されたものであり、凡庸な文学青年は、ロマン主義的な美談や神話に感染しやすい。青年は、そうとは意識せず、ロマン主義や写実主義や自然主義の立場で、人間や世界や物を見て語る。レイモン・ラディゲは、ジャン・コクトーが褒めてやらなかったら、単に世間を見くびったクソ生意気なガキだった。ラディゲが天才だったのではなく、「ラディゲは天才」と世間に錯覚させたコクトーが偉い】
「作品の批判は構わないが作者の人格批判は許せない」と言う人もいますが、冗談を言ってはいけません。作者の人格が反映された作品こそ「文芸作品」と呼ばれる物であり、自己の人格を他者に見せて批判にさらされることにより、作家ではない「ただの人」は、作家という人格を獲得します。
「生活の芸術化」を標榜する春宮氏は、戦略的にポップ・アーティストを演じてみせる。ここには、アーティストになるという強靭な自我と意志があり、人格を批判されて傷つくナイーヴさはない。
で、お待たせっ! あは、あは、あははは……(藤井隆風アホ笑い)。ここからやっと「モンク・ストラップ」の紹介に入りますっ!
ハルにはダンディズムを感じるけど(あ、藤井隆モードね。ハルはもちろん春宮っちのこと)短編や「アスファルトの粒」にはまだ、青くて野蛮な感じが残ってるんで、ハルのダンディズムが存分に発揮されてるのは「モンク・ストラップ」だと思いますっ!
19章(19ページ)の一人称小説で、語り手は広告・宣伝関連企業で、営業課長を勤める長谷巌ちゃん、29歳。身長187cmでバツイチですって、まあ素敵。でもこの人ってば、肝臓が悪いのね。とんねるずさんなんかがよく、病気を自慢するギョーカイ人をギャグにしてるけど、ギョーカイにはホントにいるのよ、病気を自慢するタイプ。食事が終わると、わざわざ人前で薬を飲んでみせたりする人。でも巌ちゃんは自慢するどころか、肝機能障害をダサイと思ってるわけ。身の丈六尺を超える大男のくせにヴァイタリティがないわぁ、ちょっと幻滅。
この巌ちゃん、他人を小バカにしたような独白がやたら多いけど、毒の吐き方が辛気くさくて愉快じゃないわね。オカマバーのママも登場するけど、このママの科白もちょっとキレが弱くない? 吉田修一の「最後の息子」に出て来る閻魔ちゃんのほうが魅力的だわ。
で、巌ちゃんの別れた奥さんがまた、可哀相な人なのね。「優しい人は世の中にたくさんいそうで、いない」なんて言うのよぉ。「抱いて」とか「キスして」とかはっきり言えばいいのに、自嘲的なこと言って遠まわしに巌ちゃんに慰めてもらいたがるのね。こういう女って大嫌い!
で、最終章の章題が「スーサイド」=自殺っていうぐらいだから、男らしさとかダンディズムって、悲観的で希望がないわね。
マドンナはオカマも憧れるスターだけど(あら、アタシってばいつの間にかすっかりオカマ)、マテリアリズムとフェティシズムに毒された世界には、そろそろ食傷気味なの、アタシはね。気の利いた言葉はたくさん並んでるけど、ピカッと光る言葉が欲しいわ。水商売の女とオカマは光り物が好きだしぃ。おフランスでは「元気?」が「サバ?
Ca va?」と言われるぐらい、光り物は元気の素よ。サバ鮨食えば肝臓も治るわよ!
そんなわけで、あたくしカトリーヌは、ハルがヘナチョコぶりを見せたら、指カンチョーやっちゃいますっ!
次回は〈通天閣越えフォンターナ〉こと、魚住なりす氏の「マニュアル」を紹介します。タイトルは「魚住なりす取扱説明書」です。