◆02年10月17日◆「本当の自分」は「いまの自分」の先にある
実を言うと、ボクは鈴々堂(すずりんどう)という学生小説書きを見くびっていました。
ボクは「うおのめ文学賞」で鈴々堂氏を知り、「雀の千声」や「ポップ・オニオン」を読んで、やっぱ学生はしょせんこんなもんだな、ははん、と、はっきり言ってナメていましたが、年上だからと言って自分より若い人を見くびってはいけない。と言うか、歳が離れた者同士って、互いに見くびり合うもんだよね。
古い世代と新しい世代の、感性のジェネレーション・ギャップは、あまりにも大きい。でも、小説家を志すなら「感性の嘘」を見抜いて、人間の本質に迫らないとね。時代によって環境は変わり、テクノロジーが普及し、感性や言葉は変わる。でも、人間そのものはいつの時代も変わらない。
このたび鈴々堂氏が「鞠棚小説祭」というイベントを立ち上げることになり、ボクもこのイベントに協力しようと思い「ミノルと魔女」という作品を読んでおいたほうがよさそうなんで、読んでみたら、鈴々堂氏を見直した。おお、なんでこの作品で賞にエントリーしない? 性描写があるから遠慮した? なるほど。そう考えると、これでエントリーしなくて正解。
「ミノルと魔女」というタイトルだけ見ると、ジュニア向けライト・ノヴェルをイメージしますが、読後のイメージを要約すると「X-Japan(Re-Japanじゃないぞ)のテンポの速い曲を彷彿させるE&V(エロティック&ヴァイオレンス)ストーリー」って感じかな。現代版「青春残酷物語」と言えます。性と暴力の描写があります。タイトルに騙されないよう注意しましょう。
「雀の千声」や「ポップ・オニオン」を読んだときは途中でシラケたんですが、「ミノルと魔女」は最後までシラケず読めました。
「雀の千声」や「ポップ・オニオン」を読んでボクがなぜシラケたかと言うと、登場人物が唐突に、読者を向いちゃう部分があったから。TV番組で出演者がカメラ目線で物を言うことがあるじゃない? たとえば「古畑任三郎」で犯罪トリックの種明かしをやる前に、田村正和がカメラ目線で視聴者に問いかける。あれは背景を暗転させることで、視聴者に「お約束」のサインを送る。でも、視覚的演出が出来ない小説で、カメラ目線はどうなんだろう。エッセーなら気にならないけど。
「ミノルと魔女」は三人称小説で、メイン・キャストは美津子というAV女優と、稔という男子高校生。4ページで16の章が立てられ、美津子のシーンと稔のシーンが交互に出てきます。この美津子シーンと稔シーンの間に、二人が交わす電子メールの文面が挿入されます。音楽用語に「ブリッジ」という言葉がありますが、この作品では電子メールが、音楽のブリッジ的に機能します。
つまりこの作品ではツイン・ボーカル、男と女のデュエットが奏でられます。小説を書き始める人はだいたいソロ・ボーカル的な一人称小説、または一人の主人公を設定した三人称小説からスタートしますが、鈴々堂氏にはツイン・ボーカル的な小説を書けるぐらいの技術がある、というワケ。
実際にやってみるとわかるけど、これって結構、難しい。何しろ作者は一人二役を演じる、というか、二人の人物を造形し、二人分の世界を描くわけだから。
それはともかく、意図のわかりやすい構成は、読者に対し親切で、好感が持てます。
「撮影が終わると、いつもカラカラになる」
この書き出しの文に、作品全体のテーマが要約され、読者にストーリーを予感させます。お、わくわく、何が始まる? という感じ。掌編や短編では漫才の「ツカミ」のように、書き出しが重要ですね。
ストーリーについてはここでは詳しく紹介しませんが、「撮影」と「カラカラ」という書き出しの言葉が、隠喩として機能している(と思われます)。「撮影」には他人の視線に対する意識、演技、「ペルソナ(仮面)としてのパーソナリティ(人格)」などが読み取れ、「カラカラ」には内面の渇望、精神の空洞が読み取れます。そういった普遍的なテーマへの抽象化がうまく行っている(と思う)ので、AV女優という特殊な職業の美津子に、感情移入しやすいんじゃないかな、たぶん。
ま、これは小説を書いてる人向けの知恵なんで、読者はこんな理屈を気にしなくていい。
【閑話休題――読者はWEB小説を読んだら、嫌味ったらしい感想や評文を無理して書かなくていいです。批評家がなぜ厳しい酷評を書くかと言えば、批評家には文学に対する愛(倫理)があるから。ふつうの読者は文学に対する愛がなくても構わないし、愛のない酷評はただのクズ、虚しい形骸に過ぎません。「酷評を歓迎する」作者は、文学への愛(倫理や規範)を見たいのであって、作者の言葉を逆手に取って八つ当たりじみたことを書くと、頭の悪いヤツだとバカにされます。小難しい分析などやらず、感じたこと思ったことを、正直に、素直に、率直に、素朴に、朴訥に、誠実に、書けばいいです】
ボクはAV(アダルト・ヴィデオ)業界に関わった経験があり、場合によってはAV出演の経験がある女性を尊敬することもあり、お付き合いしてくれるなら喜んでお付き合いするんですが、現在でもAV女優という職業に対しては、根強い偏見があるのかな?
E&Vストーリーと言っても、性感の刺激を意図して書かれたと思えませんが、ボクは途中(性描写ではないところ)で、ちょっと欲情しました。
12章から15章で、美津子と稔の関係について、読者は混乱します。ディスコードというか、唐突にコード接続の間違いに気づかされ、あれ? どこで間違った? と、前に戻って読み直すことを強いられる、そんな感じ。「仮想(仮装)と実体のねじれ」みたいなこと狙ってるのかな? よくわかりませんが、小説には理解できない部分があっても構わない。
と、作品の後半、急転直下で真相が、明らかになりそうで不明になったりしますが、最終章が圧巻です。ボクの読後感は「やり切れないが、勇気が出る」というもの。喩えるなら、足裏マッサージをやられて悶絶するほど痛かったけど、調子がよくなった、という感じ。
他愛のない話(つまり自愛/ナルシスしかない話)は多いけど、「ミノルと魔女」では作者のナルシスが消えている。「親切」とはナルシスを消し、自己と他者の間に見えない橋を架けること。「架空」によって見えない読者に何かを伝えることです。小説では「作者が何を言いたいか」ではなく「読者に何が届いたか」が重要。
「演技」は「自己を偽ること」ではない。AV女優という身分を隠すのではなく、AV女優という身分を引き受け、偏見や侮蔑の眼差しをくつがえす――その格闘の途上で流される涙は美しい。つらくなった時は観月ありさの「promise to
promise」でも聴きましょう。世界が退屈なのではなく、「理想の自分」を勝手にあきらめた者が退屈している。
まあ、hitomi が「サムライ・ドライヴ」で歌うように「いつも理想の先にはSOSがひしめき合う」んだけどねえ……。
というわけで、「ミノルと魔女」は痛いです。軽い話だと思って読んでつらい思いを味わっても、ボクは責任を負わない。痛みを引き受ける勇気がない人は、読んではいけない。
次回は春宮氏の「モンク・ストラップ」を紹介します。靴紐みたいに細長く、文句を書くから、春宮氏は覚悟するべし。それでは、また。Au
revoir!