| 能書き |
才能というのは、たえずより強烈な快楽を求め、それを与えてくれるだろう新しい可能性に次々に夢中になり、勝手にそのことばかり書きなぐってしまう子どもっぽさのことにほかならない。(中略)もちろん、かれらは(中略)たとえばドビュッシーやゴダールに徹底的に打ちのめされるだけの知性と感性を磨きあげてきている。しかし、そうやって絶望しながら、また性懲りもなく次の可能性に向かっていく、この飽くことを知らぬ欲望を、子どもっぽいと言わずして何というのか? 繰り返すが、年輪をかさねて成熟しながらもそういう子どもっぽい欲望を保ち続け、それを貫き通すためにはあらゆる妥協を排していかなるコストもリスクも引き受けてみせる意志を、われわれは才能と呼ぶのである。
【浅田彰/村上龍と坂本龍一の往復書簡集『友よ、また逢おう』(集英社文庫)解説より】
◆2002年8月27日◆
このコンテンツでは、火鳥冬星が読んだWEB小説を紹介します。
2001年8月1日から2002年6月6日まで、このコンテンツで21人のWEB小説作者と1WEB小説イベントを時評的に紹介しました。しかし、思うところあって、コンテンツを刷新することにしました。
アマチュアの軟式野球が「草野球」と呼ばれるように、WEB小説は「草小説」と呼ばれるべき物かも知れない。この雑草だらけの広漠とした原野にも、花や実になる才能と作品が潜んでいるに違いない。批評的な見識を持つ読者がやるべきことは、雑草を育てることではなく、雑草を刈り取って花や実になる才能を発見し、それを人に伝えることだろうと思います。
雑草は刈り取って捨てればいい。他人様の掲示板を覗くと「この作品はつまらない」とわざわざ言う人がいますが、つまらない作品は無視して、さっさと忘れてしまえばいい。
このコンテンツは火鳥冬星の独断と偏見に基づいて「面白い作品あるいは作者」を紹介する場であり「つまらない作品あるいは作者」の名を挙げつらって攻撃する場ではありません。
食糧難の時代には、食物の好き嫌いが咎められたけれど、飽食の時代には「食わず嫌い」も「偏食」も咎められません。それと同じく「飽書の時代」には、「読まず嫌い」や「偏書」に寛容であることが望まれます。読者は読みたくない物を我慢して読まなくていいし、自分にとって何が栄養になり、何が毒になるか、自分自身で判断しなければいけない。
ボクは酷評そのものを否定しないし、推奨もしませんが、つまらない作品が軽蔑されるように、つまらない評文も軽蔑されます。雑草のような小説に読まれる価値がないように、雑草のような評文にも読まれる価値はない。
村上龍、村上春樹、山田詠美、吉本ばなな、宮部みゆき、スティーブン・キング……その他、世間で既に高く評価されている作家の作品を論評したところで、自分が「目利き」であるか否かが試されるわけではありません。彼らは既に成功しているのだから、今さら褒めなくていいわけです。世間の評判や人気に依拠することなく、自分の価値観を示すこと。評判や人気という偏差値ではなく、火鳥冬星という個人の価値観を示すこと。それがこのコンテンツの主旨です。